1. 【1】電車のなかや教室などで、手もあてずに平気で大きなあくびをする人がふえている。電車のなかの
携帯電話、お
化粧、
爪切り、飛行機のなかのマニキュアなど。
2. 【2】「夜中にアパートであついシャワーをあびる」「深夜も好きな音楽をたのしむ」など。
3. これは本人しかいない内的世界ではそれもいいが、音がまわりにもれてくることも考えなくてはならない。【3】ウォークマンの音もれ以外にも
似た
現象はいろいろある。
4. 「サークルのなかで、親しいふたりが、いつもふたりだけで、とくべつ仲よくすることのどこがわるいか」という者もいる。【4】まわりの人はひがんでいるのだ、と思ってすませるつもりであろうか。
5.
狭いエレベーターのなかで、それまでの会話を声高につづける人もいる。
6. 【5】たばこの投げすて、ガムの投げすては駅員さんがいちいちひろっている。
7.
寿司屋の
職人が、あいまにたばこを
吸いながらすしをにぎっており、
床屋のおじさんは、
剃刀を
片手にテレビを見ている。
8. 【6】いつかタクシーのなかの
株式情報が耳ざわりだったので、「ラジオを小さくしてくれませんか」と言ったら「なんでや?」と聞き返してきた、運転手がいた。
9. 【7】
謝恩卒業パーティーなどで、先生方などまったく
無視して、ごちそうの前にはりついている
盛装の学生も少なくない。
10. これらは、自分のしたいことを好きなときにして、人には「
迷惑はかけていないつもり」のしぐさの例である。
11. 【8】人に
迷惑をかけてはいない、というのはまだ「消極的な生き方」であり、だれかを積極的に思いやるとかだれかにまなざしを投げかける、というのとはちがう。だれかにまなざしを投げかけるとは、やさしさを相手にふりむけることであり、これはより「積極的な生き方」なのである。【9】これらすべての例において、多くのひと、とくに
独身貴族といわれる人びとは、だれか特定の相手に
直接には「
迷惑をかけていない」つもりでいるのであろう。
12. 【0】しかし、およそ、ひとに
迷惑をかけてはいないつもりだ、ということは、せいぜい言いわけ
程度の生き方である。これに対して、∵だれかを思いやるとか、たしなみのこころを持ち、つつしみ深く生きる、ということとは、月とすっぽんくらい
違う生き方であり、プラスとマイナスの
違いがあるのであり、両者は決して同じことではない。
13. わたしは街をよごしていない、というだけの人と、積極的にみぞ
掃除をする人はちがう。
吸いがらを駅のホームに投げすてていないというのと、毎朝ひろっている人とはちがう。
14. もともとわれわれの自由には二つある。ひとつはしたいことをする自由である。「そうする」自由と
権利がわれわれにはある。しかし、自分の
選択で、たとえそうできることでも、自分はあえて「そうしない」という自由もある。たとえばせまい
診療所の待合室では、あえてたばこを
吸わないのは、その人のやさしさであろう。むかし、
田舎では、秋の
柿の木の実をわざといくつか残しておいて、
烏などに食べさせることにしていた。(中略)
15. たしかに
公衆道徳は低下した。ひとには
迷惑はかけていないつもりの人が何と多くなったことであろう。そういうことはしない、という思いやり、つつしみ、やさしさをまわりにふりまくひとがいなくなったら、その社会はほろびる。
16. しかし、社会、国家もいまそういう方向へむかっているのではないか。ひとこと声をかけるとか、少し相手にもまなざしを向けることが、いま求められている小さな積極
性であろう。外食も、音楽も、おしゃれもすべていま風にというのは、けっこうであるが、それだけではまわりに友人をつくることはできない。
17. いま日本は見えない坂を転げ落ちているのではないか。それは見えないからだれも知らないふりをしていることができる。そうして気づいたとき、すべてが終わっているということにならなければいいのだが。
18. まじめな自分
主義を
超えて、もう一度人間としての「つながり」と「つらなり」に目を向けて生きる――これが市民として、いまわれわれ日本人に求められているのだ。
19.(小原信「シングル・ルームの生き方」より)