ヌルデ2 の山 12 月 1 週 (5)
○馬耳東風(感)   池新  
 【1】馬耳東風、ということばがある。
 他人のことばや意見などを心に留めないできき流すことを言う。馬の耳に念仏。こういう人間には何を言ってもしかたがない。われわれはたいていのことをきき流しにしている。【2】大事なことでも、左の耳から入ったらそのまま右の耳から出て行ってしまう。とくに馬耳東風をきめこんでいるのではなくても、耳は馬の耳である。そして、馬はそのことをご承知ないから、のんきなものだ。
 【3】学会などの研究発表では、たいていあとに質問の時間がある。かつては、ほとんど質問する人はなかった。外国人の講師だと、不思議がる。どうして、日本人は質問をしないのだろう。【4】全部賛成なのか。それともすべてを無視しているのか、わからない。手ごたえがなくて不気味だ、と言う。馬の耳では質問したくてもできないのだということを彼等は了解しない。【5】われわれ自身もわかっていない。
 先日、あるところで、日本人の耳は悪いという話をしたら、あとでそんなことがあるものか、と反論された。病気にも自覚症状があるうちは軽いが、本当に重症になると自分の悪いことがわからなくなってしまうことがある。
 【6】「馬耳症」という病気も、自覚症状がないところを見ると、膏盲(こうこう)に入(い)ったと考えなくてはなるまい。集団的にかかっている慢性病で、ひょっとすると、死ななくては治らないかもしれない。
 【7】それでも、このごろの講演ではあとに質問する人がふえた。やっと日本も外国なみになってきたかと喜んでいる人があるが、それはすこし早合点ではなかろうか。
 【8】その質問というのが、実に愚にもつかぬささいなことばのあげ足とりであることが多い。講師がちょっとはさんだことばをとりあげて、その使い方に異論をさしはさむ。【9】講師がそれに答えるのだが、お互いの頭にある考えがまるで違っており、自分の考えだけが正しいと思っているから、質疑応答をくりかえしていると、ますま∵すこんがらがってしまう。【0】すると、別の質問者が立ち上って、第一の質問者の言ったことの尻尾をつかまえて問題にする。それがまた第三の質問者を誘発する。
 もとの話を全体として把握していないから、どんどん枝葉末節へ話が散ってしまう。もう何の話をしているのかわからない。それでもあとで司会者は、活発な質疑がおこなわれて、と言う。冗談ではない。馬の耳にはまとまったことを理解することができない。わかるのはせいぜいニンジンの葉っぱくらいである。(中略)
 相手の言うことをじっくりよくきくという訓練ができていない。都合のいいところだけをこまぎれにきいて、それをつなぎあわせて相手が言ったことにしてしまう。ことに立場の違う人間同士のときにはこの傾向がつよい。ときとしては、意識的に馬耳東風をきめこむ。
 ひところ、対話をしよう、討論をしよう、と言われたことがある。集まってカンカンガクガクの論をかわす。いかにも活発な意見の交換があったようだが、要するに、自分の言いたいことを勝手に言い合うだけである。
 相手の言い分など、はじめから問題にしていない。だから話し合えば合うほど、感情的になって、まとまる話もこわれてしまう。そのせいだろうか。このごろは、かつてのように対話や討論が必要だとは言われなくなった。
 ときに「きき上手」といわれる人もないではないが、これは耳がよくて、他人の意見をよく理解するということではないようだ。うまく受け答えして、相手に十分話させることの意味である。
 意見が対立するとき、相手の言い分を誤りなく理解するという意味での「きき上手」というのには、ことばすらない。ことだまのさきおう国が、どうしてこういうことになったのか。

(外山滋比古(とやましげひこ)「ことばの作法」より)