長文 11.2週
1. 【1】すぎの木は樹幹じゅかんがまっすぐで、気持ちがいい。見ているだけで、わたしの心はいつもすがすがしくなる。枝打ちえだう 間伐かんばつなど、手入れをする人の労苦も尊いとうと 
2. 黒々とした大地に深く根を張りは 、大空高くへと曲がりもくねりもせずに伸びの ているみき。【2】たてにすじの入った褐色かっしょくはだに目を当てると、自然に上へ上へとひきあげられていく。もっこりと茂るしげ 緑は、松や落葉松からまつよりずっとあつ味があって目を包んで休ませてくれ、さらにはるかに高いこずえは、さわやかな風を呼んよ でいる。【3】年若いわか すぎの木のこずえは、先のとがった円錐えんすい形だが、風雪に耐えた て何百年も生きてきた老大木のこずえはもうとがってはおらず、樹冠じゅかんがおだやかにまあるくなっている。それは威厳いげんのある古老がふと洩らすも  微笑びしょうのようだ。
3. 【4】樹幹じゅかんはだの色がいい。幅広くはばひろ たてにすうっとはがすことのできる樹皮じゅひは、引っ張っひ ぱ てみると実に強くて丈夫じょうぶだから、古来、屋根をいたり、垣根かきね張っは たりした。鋭いするど 樹脂じゅし香りかお も、むねの底まで清めてくれるような感じがする。【5】ひのきほどの香気こうきではないけれども、すぎ香りかお 庶民しょみん的でいい。
4. ちょうどドイツ人や北欧ほくおうの人びとにとって、もみの木が宗教しゅうきょう的なほどに大切で親しいものであるように、わたしたち日本人の生活にすぎの木は切っても切れぬえんがある。【6】何よりも木の形が美しい。木材としての利用価値かちが高い。日本各地でよく育つ。日本の樹木じゅもくのなかでいちばんが高くなり、ものによっては五十メートルにもなるし、いちばん長生きする木でもある。【7】鹿児島かごしま屋久島やくしまの「屋久やくすぎ」には、樹齢じゅれい二千〜六千年と推定すいていされるものが何本もある。だから京都をはじめ全国の神社やお寺の境内けいだいには、必ずといっていいほどめでたいすぎの木が大事に植えられている。
5. 【8】わが国はどこに行ってもすぎの木がある。かつては生えていなか∵った北海道の札幌さっぽろあたりにも杉林すぎばやしがある。日本の造林ぞうりん面積の半分近くはすぎの木だそうで、ひのきや松や落葉松からまつなどよりも、はるかに多い。【9】丸太のままでも板にしても、建材・土木材として、あるいは酒樽さかだる経木きょうぎ割り箸わ ばしなどの生活用材としても何しろ利用範囲はんいが広い。単位面積当たりの生産量が非常ひじょうに大きく、育てるのもかなりやさしい。日本のように温帯で降水こうすい量の多いところが最適さいてき地なのだ。すぎは、日本の、日本らしい木である。
6. 【0】ただ、戦後のわが国では、何よりも経済けいざい効率こうりつを考えなくてはならなくなって、木ではないと言われたブナ(ブナは漢字で木へんに無と書く)の木を、ブナ退治たいじ称ししょう 片端かたはしから切り倒しき たお て、全国にすぎの木を植えた。森はいますぎ花粉でその仕返しをしているらしい。
7. かつてすぎは日本に固有の、日本にしかない木だと言われた。たしかに中国にいま植わっているすぎは日本からなえや実を持っていって植えたものが多い。しかし四川省などには、葉の形などが少しちがうすぎの一種が自生しているという。いずれにしても、針葉しんようがまるで小さなかまのような形をしていて、えだと葉のつながりぐあいがはっきりしていない日本すぎは、問題なく日本固有であるらしい。
8. 江戸えど時代にケンペルがドイツへ、シーボルトがオランダへ、すぎを持っていったけれども、年間平均へいきん気温が低いうえ、降水こうすい量が日本の半分から三分の一しかないヨーロッパでは、ついに育たなかった。だから銀杏いちょう移植いしょくできたヨーロッパにすぎの木はない。代わりに寒さや乾燥かんそうに強いもみやトウヒがよく育っている。ただし日本のすぎは五十年で成木になるが、ドイツのもみは百五十年かかる。彼らかれ が歴史を長いスパンで考えるのは、そういった自然条件じょうけんのせいだろう。日本各地の美しい杉林すぎばやしは、秋田、吉野よしの、高知、立山、天竜てんりゅう久万くまなど林業者の労苦の結実だが、日光その他の古い並木道なみきみち忘れわす がたい。各地の山々の尾根おねすじには松が多いが、山の下の水気の多いところにはすぎがよく育つ。∵
9. わたしまぶたのうらにいつも浮かぶう  のは、長野市の西方、戸隠山とがくしやま怪奇かいきな岩かべの真下、戸隠とがくし奥社おくしゃへの参道の老杉並すぎなみ木だ。文字通り天をつかんばかりの堂々たる一本一本が何か神々しくもおごそかなたたずまいである。それでいて、そのはだに手を当てると、真冬でもなんとなくあたたかい。あの参道の巨木きょぼくのほとんどすべてに、若いわか 日のわたしは手を当てて歩いた。近くまた行こうと思う。

10.(小塩節「木々を渡るわた 風」より)