長文集  11月2週  ★杉の木は樹幹がまっすぐで(感)  nu2-11-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】杉の木は樹幹がまっすぐで、気持ち
がいい。見ているだけで、私の心はいつもす
がすがしくなる。枝打ちや間伐など、手入れ
をする人の労苦も尊い。
 黒々とした大地に深く根を張り、大空高く
へと曲がりもくねりもせずに伸びている幹。
【2】たてに筋の入った褐色の肌に目を当て
ると、自然に上へ上へとひきあげられていく
。もっこりと茂る緑 は、松や落葉松(から
まつ)よりずっと厚味があって目を包んで休
ませてくれ、さらにはるかに高い梢は、さわ
やかな風を呼んでい る。【3】年若い杉の
木の梢は、先のとがった円錐形だが、風雪に
耐えて何百年も生きてきた老大木の梢はもう
とがってはおらず、樹冠がおだやかにまある
くなっている。それは威厳のある古老がふと
洩らす微笑のようだ。
 【4】樹幹の肌の色がいい。幅広くたてに
すうっとはがすことのできる樹皮は、引っ張
ってみると実に強くて丈夫だから、古来、屋
根を葺(ふ)いたり、垣根に張ったりした。
鋭い樹脂の香りも、胸の底まで清めてくれる
ような感じがする。【5】檜(ひのき)ほど
の香気ではないけれども、杉の香りは庶民的
でいい。
 ちょうどドイツ人や北欧の人びとにとって
、樅(もみ)の木が宗教的なほどに大切で親
しいものであるように、私たち日本人の生活
に杉の木は切っても切れぬ縁がある。【6】
何よりも木の形が美しい。木材としての利用
価値が高い。日本各地でよく育つ。日本の樹
木のなかでいちばん背が高くなり、ものによ
っては五十メートルにもなるし、いちばん長
生きする木でもある。【7】鹿児島県屋久島
の「屋久杉」には、樹齢二千〜六千年と推定
されるものが何本もある。だから京都をはじ
め全国の神社やお寺の境内には、必ずといっ
ていいほどめでたい杉の木が大事に植えられ
ている。
 【8】わが国はどこに行っても杉の木があ
る。かつては生えていなか∵った北海道の札
幌あたりにも杉林がある。日本の造林面積の
半分近くは杉の木だそうで、檜(ひのき)や
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松や落葉松(からま つ)などよりも、はる
かに多い。【9】丸太のままでも板にして 
も、建材・土木材として、あるいは酒樽や経
木や割り箸などの生活用材としても何しろ利
用範囲が広い。単位面積当たりの生産量が非
常に大きく、育てるのもかなりやさしい。日
本のように温帯で降水量の多いところが最適
地なのだ。杉は、日本の、日本らしい木であ
る。
 【0】ただ、戦後のわが国では、何よりも
経済効率を考えなくてはならなくなって、木
ではないと言われたブナ(ブナは漢字で木へ
んに無と書く)の木を、ブナ退治と称して片
端(かたはし)から切り倒して、全国に杉の
木を植えた。森はいま杉花粉でその仕返しを
しているらしい。
 かつて杉は日本に固有の、日本にしかない
木だと言われた。たしかに中国にいま植わっ
ている杉は日本から苗や実を持っていって植
えたものが多い。しかし四川省などには、葉
の形などが少しちがう杉の一種が自生してい
るという。いずれにしても、針葉(しんよ 
う)がまるで小さな鎌のような形をしていて
、枝と葉のつながりぐあいがはっきりしてい
ない日本杉は、問題なく日本固有であるらし
い。
 江戸時代にケンペルがドイツへ、シーボル
トがオランダへ、杉を持っていったけれども
、年間平均気温が低いうえ、降水量が日本の
半分から三分の一しかないヨーロッパでは、
ついに育たなかった。だから銀杏(いちょう
)は移植できたヨーロッパに杉の木はない。
代わりに寒さや乾燥に強い樅(もみ)やトウ
ヒがよく育っている。ただし日本の杉は五十
年で成木になるが、ドイツの樅(もみ)は百
五十年かかる。彼らが歴史を長いスパンで考
えるのは、そういった自然条件のせいだろう
。日本各地の美しい杉林は、秋田、吉野、高
知、立山、天竜、久万など林業者の労苦の結
実だが、日光その他の古い並木道も忘れがた
い。各地の山々の尾根筋には松が多いが、山
の下の水気の多いところには杉がよく育つ。

 私の瞼のうらにいつも浮かぶのは、長野市
の西方、戸隠山の怪奇な岩壁の真下、戸隠奥
社(おくしゃ)への参道の老杉並木だ。文字
通り天をつかんばかりの堂々たる一本一本が
何か神々しくもおごそかなたたずまいである
。それでいて、その肌に手を当てると、真冬
でもなんとなくあたたかい。あの参道の巨木
のほとんどすべてに、若い日の私は手を当て
て歩いた。近くまた行こうと思う。

(小塩節「木々を渡る風」より)