ヌルデ の山 12 月 3 週
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○自由な題名
○もうすぐクリスマス(お正月)


★数年前のことに(感)
 【1】数年前のことになるが、私は米国人の言語学者T氏と東京で親しくなった。彼はもともとアメリカ・インディアンの言語を専門に研究していたが、終戦後の日本に軍人として駐留していたこともあって、最近では日本語の歴史や方言にも興味を示しはじめ、遂に奥さんと三人の娘をつれて東京にやって来たのである。【2】奥さんはイタリア系の人で、小学校の先生をしている。
 彼は古い日本家屋を一軒借り、畳に座蒲団、冬は炬燵に懐炉、そして三人の娘を日本の学校に入れるという、一家あげての見事な日本式生活への適応ぶりだった。
 【3】ある日、アメリカの学者の習慣として、彼は多くの言語学関係の友人、知人を家に招待した。まずイタリア風のイカのおつまみなどで、カクテルを済ませた後、別室で夕飯ということになった。【4】一同が座につくと、テーブルには肉料理やサラダなどが並べられ、面白いことに、白い御飯が日本のドンブリに盛りつけて出されたのである。
 【5】畳の上に座っていること、白い御飯であること、T氏たちが日本式生活を実行していることなどが重なり合って、一瞬私は、この御飯を主食にして、おかずを併せて食べるのだという風に思ったらしい。【6】目の前の肉の皿を取り上げて、隣の人に回そうとしかけた時、私はT夫人のかすかにとまどったような気配を感じた。
 間違ったかなと思った私は、御飯は肉と一緒に食べるのか、それとも御飯だけで食べるのかと尋ねると、夫人は笑いながら、まず御飯を食べて下さいと言う。
 【7】私はその時、はっと気が付いた。この御飯は、イタリア料理ではマカロニやスパゲッティと同じくスープに相当する部分なのだと。
 はたして、それは油と香辛料で料理した、一種のピラフのような∵ものだった。
 【8】食事というものは、いろいろな条件に制約された文化という構造体の重要な部分である。何をいつ食べるか、それをどう食べるか、食べていけないものは何か、といったことに関して、どの国の食事にも、さまざまな制限や規則が習慣として存在する。
 【9】カトリック教徒は金曜日には獣肉を食べないし、イスラム教徒は豚肉を不浄なものとして決して食べないというようなことは誰でも知っている有名な事実であろう。
 【0】しかしこのように、何かを食べてはいけないという明示的な規則は、外国人にも比較的判りやすい。ところが自分の国の食物と同じものが、外国の食事の中にありながら、その食物と他の食物との関係が、自国の食事の場合と違うという、つまり同一の食物の食事全体における価値が、文化によって異なるときに、難しい問題がおきるのである。
 白い米の御飯は、日本食の場合には、食事の始めから終わりまで食べられる。というよりは、米の飯だけを集中的に食べることは、むしろいけないこととされている。おかずから御飯、御飯からお汁と、あちこち飛び回らなければ、行儀が良いとは言えないのである。
 そこで米の飯と他の食物との日本食における関係は、並列的・同時的であると言えよう。お汁に始まり、香の物に至るまで、米を食べてよいのである。
 ところが、食事の一段階ごとに一品ずつの食物を片付けていく、通時的展開方式の性格の強い食事文化もある。西洋諸国ではこの傾向が強く、イタリアの食事も例外ではない。ここでは麺類や米の料理などは、ミネストラと称して、本格的な肉料理が始まる前に済ませてしまうのだ。
 私がドンブリに盛られた白い御飯を見て、おかずも一緒に食べようと思った失敗は、日本の食事文化に存在するある項目を、別の∵食事文化の中に見出したため、これを自分の文化に内在する構造に従って位置づけ、日本的な価値を与えようとしたことが原因なのであった。
 文化の単位をなしている個々の項目(事物や行動)というものは、一つ一つが、他の項目から独立した、それ自体で完結した存在ではなく、他のさまざまな項目との間で、一種の引張り合い、押し合いの対立をしながら、相対的に価値が決まっていくものなのである。
 自分の文化にある文化項目(たとえばある種の食物)が、他の文化の中に見出されたからといって、直ちにそれを同じものだと考えることが誤りなのは、その項目に価値(意味)を与える全体の構造が、多くの場合違っているからである。
 (中略)
 私たちが、外国語を学習する際にも、いま述べたような具合に、自国語の構造を自分ではそれと気づかずに、まず対象に投影して理解するという方法をとりやすい。従っていろいろと食い違いが生じてくるのも当然である。

(鈴木孝夫『ことばと文化』による)