ヌルデ の山 11 月 4 週
◆▲をクリックすると長文だけを表示します。ルビ付き表示

◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○初七日の終わった夜、
 初七日の終わった夜、私はふとんを抜け出し、母屋を出て離れにある弟の部屋に行った。電灯の紐をさがしていると高校生特有の、運動部の選手独特の汗のしみた匂いが漂った。
 あかりをつけると、そこには受験勉強の最中だった弟の時間が停止したまま浮かび上がっていた。私は弟の机を掌で触れた。ひんやりとした木目の感触から、つい十数日前まで、ここで笑ったり、うたを歌ったり、悩んだりしていただろう若いゴツゴツした弟の気持ちのようなものが感じられた。
 部屋を見回した。かつて私も使っていた本棚があった。『樽にのって二万キロ』『コンチキ号漂流記』『冒険者×××()』、そんな本が並んでいた。小夜の話は本当であった。
 してはならないと思ったが、私は弟の引き出しを開けてみた。大学ノートが一冊あった。それは弟が高校に入学してからの日誌で、毎日ではないが日々のこと、サッカーの練習、小遣いの出納も記してある雑記帳のようなものだった。真面目な弟の性格がよくあらわれていた。
 二月のある日、そのページだけが文字がていねいに書いてあった。その日は弟の誕生日である。私が父と争って出ていった翌月だった。
 要約すると、――兄が父と争って家にもどらないことになった。母に相談し父に命じられて、自分はこの家を継ぐことにした。医者になる。父は病院をたてると言った。だが自分はシュバイツァーのような医者になりたい。アフリカに行きたい。しかし親孝行が終わるまでがんばって、それからアフリカに行き冒険家になりたい。その時自分は四十歳だろうか、五十歳だろうか……。それでも自分はそれを実現するために、体を鍛えておくのだ。私は兄にずっとついてきた。兄が好きだ……――
 弟はその冬、北海道大学の医学部志望を担任に提出したという。
 私は自分の身勝手さ、いいかげんさを思った。済まないと思っ∵た。長男である私のわがままが、弟を泣かせ、孤独にしていた。
 あの夏の午後、川向こうの屋敷町に私は弟と二人で蝉を捕りに行った。私達の町と違ってそこは塀の上にまで大きな木々が茂り、蝉は捕り放題にいる。たちまち弟の持つかごは蝉で一杯になった。
 帰ろうとした時、屋敷町の子供達に囲まれた。蝉を置いて行けといわれた。四、五人の相手は身体も大きかった。弟は背後で私の上着を握りしめていた。私はだまっていた。すると背中で急に弟が大声で泣き出した。子供達は笑った。そして弟の持っていたかごから蝉をわしづかみにして、何匹かを道に投げつけた……。
 家に帰ってから、私は弟をなじった。二度とおまえをどこにも連れて行かない、と言った。そういわれても弟は私のそばを離れないで、しゃくりあげながら私を見ていた。そんな弟によけい腹が立った私は、弟をなぐりつけた。弟はあやまりながら私を見つめていた。
 ふとした時に、あの夏の日の弟の目を思い出し、日誌の文字が浮かぶ。あの少年達に立ち向かうこともしなかったひきょうな自分を思う。あやまることのできない自分が生きている。
 蝉は壁にじっとしている。窓を開けたまま、私は電灯を消した。どこか他人とは思えぬ一匹と、自分を情けないと思っている一人が暗闇の中にいる。
 もう秋がそこまで来ている。


(伊集院静「夜半の蝉」)