ヌルデ の山 10 月 4 週
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◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○はじかれたように、
 はじかれたように、ぼくはふすまに手をかけた。一気にひきあけると、廊下にとびだした。
 でも、やっぱりそこには、だれもいないのだ。それなのに、だれもいない廊下を、小さな足音だけが、ゆっくりと遠ざかっていく。
 ぼくの体の中に、大きな恐怖がふくれあがってきた。その恐怖が、悲鳴になって口からあふれでそうになったとき、表座敷に通じる廊下の角を曲がって、ひょいと、いとこの昌一が姿をあらわした。
「よお。しげちゃん。」
 もし、昌一のそういう声をきかなかったら、まちがいなくぼくは叫んでいただろう。だって、中学生の昌一の頭は坊主刈りで、おまけにその日昌一は、中学校の制服の白い開襟シャツと黒い学生ズボンをはいていたものだから、ぼくにはまるで、さっきの男の子が急に大きくなって、またそこにあらわれたような気がしたのだ。
「よお。」
 立ちすくむぼくに向かってもう一度声をかけながら、昌一が近づいてきた。いつも無愛想な顔にせいいっぱい愛想のいい、照れたような笑いを浮かべている。
「昌(しょう)……ちゃん。」
 ぼくは、かすれたような声で、いとこの名を呼んだ。
「い……今、だれかと、すれちがわなかった? 小さい……坊主頭の男の子と……。」
 昌一は、ぎょっとしたようにうしろをふりむき、それから、きょろきょろとあたりをみまわし、ちょっと肩をすくめてみせた。
「いいや。だれとも……。なんや? それ。」
 ぼくの全身に、どっと冷たい汗がふきだした。あの子は、この暗い廊下から、あとかたもなく消えうせてしまったのだ。
 それが、ぼくがぼっこにであった最初だった。
 ぼくは今でも、あの夜のことを思いだす。裏庭の闇の中で降るように花を散らしていた桜を。長い廊下の天井で、頼りなくゆれて∵いた電灯を。ぼくと昌一の間を埋めていた、あのなつかしいおばあちゃんの家のにおいを……。
 でも、そのときにはぼくはまだ、自分が本当にこの家で暮らすことになるなんて思ってもいなかった。いつかまた、ぼっことであう日がくるとは考えもしなかった。
 それなのに、あのぼんやりとした春の夜、ぼくのまわりではもう、新しいなにかがうごきだそうとしていたのだ。


(富安陽子「ぼっこ」)