ジンチョウゲ の山 9 月 2 週
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○自由な題名


○The first question(感) 英文のみのページ(翻訳用)
The first question to ask about fiction is: Why bother to read it? With life as short as it is, with so many pressing demands on our time, with books of information, instruction,
and discussion waiting to be read, why should we spend precious time on works of imagination? The eternal answers to this question are two: enjoyment and understanding.
Since the invention of language, men have taken pleasure in following and participating in the imaginary adventures and imaginary experiences of imaginary people. Whatever--without causing harm--serves to make life less tedious, to make the hours pass more quickly and pleasurably, surely needs nothing else to recommend it. Enjoyment--and ever more enjoyment--is the first aim and justification of reading fiction.
But unless fiction gives us more than pleasure, it hardly justifies itself as a subject of college study. To have a compelling claim on our attention, it must furnish not only enjoyment but deep understanding of life.
The experience of men through the ages is that literature may furnish such understanding and do so effectively. But the bulk of fiction does not do this. Only some does. Initially, therefore, fiction may be classified into two broad categories: literature of escape and literature of interpretation. Escape literature helps us pass time agreeably. Interpretive literature is written to broaden and deepen and sharpen our awareness of life. Escape literature takes us away from the real world: it enables us to forget our troubles temporarily. Interpretive literature takes us, through imagination, deeper into the real world: it enables us to face the hardships of life. The escape writer is like an inventor who devises a contrivance for our diversion. When we push the button, lights flash, bells ring and cardboard figures move jerkily across a painted horizon. The interpretive writer is a discoverer: he takes us out into the midst of life and says, "Look, here is the world!" The escape writer is full of tricks and surprises: he pulls a rabbit out of a hat, saws a beautiful woman in two, and snatches colored balls out of the air. The interpretive writer takes us behind the scenes, where he shows us the props and mirrors and seeks to make illusions clear.

★後世から振り返ったとき(感)
 【1】後世から振り返ったとき、大山鳴動の「オウム」事件は、どんな意味をもって見えるだろうか。追及されている疑惑が実証されて、犯罪史上の一大事件として想起されるか。【2】あるいは手段と規模が特異なだけで、本質的には平凡な凶悪事件として語られているだろうか。なにしろ狂信的な閉鎖集団も、目的なき犯罪も、浄化のための民族抹殺も、歴史には多くの先例があるからである。
 【3】だが一つだけ、この教団が明白に特異な点は、それが工業社会の漫画のような組織であり、裏腹に、宗教の持つ芸術的な表現力を完全に欠如した集団だということである。
 【4】神域に工場群が林立し、自称によれば、農業の生産性を工業なみにあげる農薬が製造されている。信徒の悟りもヘッドギアと薬物で機械的に増産され、医師の手で効率よく管理される。【5】組織には正大師、正悟()師など企業顔負けの地位序列が用意され、お布施の営業成績をあげれば出世が保証される。弁護士の威勢がいいのも工業社会の特色だろうし、幹部に工、医、法学部が目立って、文学部の影が薄いのは象徴的である。
 【6】一方、この教団には通例の豪華な神殿がなく、修行場は粗末なバラックだし、都心の本部は凡庸な事務所ビルである。とくに神像が発泡スチロール製で、工場の目隠しに使われていたというのは宗教史上の珍事だろう。【7】制服の無趣味はよいとして、儀式の演出の稚拙は目を覆うばかり、歌や踊りは幼児なみである。当然、この教団には大衆的な祭典がなく、花火もマスゲームも護摩供養もない。かつて総選挙に出た幹部の仮面踊りなど、演劇的には「感情異化効果」の極致に達していた。
 【8】要するに、この教団は初期工業時代の遺物にほかならず、ポスト工業社会の感性に欠けているのだが、おそらくそのこと自体、現代社会心理の病弊を体現しているのである。
 【9】近代とは、個人にとっては業績達成の時代であり、財と地位による自己実現の時代であった。万人が「何者か」になりうるはずだ∵と教えられ、できなければ世の中が悪いのだと扇動される時代であった。【0】これはもちろんきれい事の嘘であるから、民衆は構造的に不満に駆られるのであるが、しかし、企業組織が確立すると事態はややましになった。企業には人事評価の公平な基準があると信じられたし、人は身近の顔見知りと競争して、互いの実力を見る機会が持てた。他人との具体的な比較によって、己の「分を知り」、勝敗を納得することができたのである。
 不幸なのは、昨今この企業が人の意識のうえで小さくなり、個人が海のような大衆社会にじかに触れ始めたことであった。脱サラやフリーターが流行し、休日が増え寿命が延び、人が企業外で生きる時間が多くなった。若者を中心に企業への帰属感が弱まり、評価基準への信頼も薄まり、その分だけ消費による自己実現と、流行という匿名世界への参加の機会が増えた。誰もが自由になる半面、分を知ることが難しくなり、顔の見えない他人と自分を比較して、限度のない自己実現を迫られる程度が増したのである。(中略)
 だとすれば問題の抜本解決法は、自己実現社会の転換であり、達成への脅迫からの解放だろうが、それには近代のもう一つの原理である、自己「表現」を奨励する以外にはあるまい。表現は実現と違って、財や地位の量的な尺度で計られず、魅力を理解する親しい他人の目があれば足りる。それは閉鎖的な階層組織ではなく、相互に顔の見える柔らかな社交の集団を作り、人はその小世界で認められることで、「何者か」であることができる。例えば、黒人ゴスペルのあの熱烈な合唱を聴いた人なら、人に表現があるかぎり、どんな宗教的熱狂も必ずしも暴力を生まないことを知るであろう。

(朝日新聞「論壇」1995より引用)