ジンチョウゲ の山 8 月 3 週
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○自由な題名


○In an age when reading(感) 英文のみのページ(翻訳用)
In an age when reading for most people is a nonintellectual pleasure, and when at the same time there is a constant stream of books falling from the publishers' presses, a book has only to be barely readable once in order to serve its purpose. It need not be reread, nor does it need to lie in the mind as a source of future pleasure. It thus ceases to matter whether a book is memorable; and when literature is not memorable it is nothing. Total illiterates who depend on folk literature for their pleasures of the imagination are thus much better off than semiliterates who read forgettable novels merely because they are available. Oral literature must lie in the mind, for otherwise it would be forgotten; but most modern written literature is expected to he forgotten, in order to make way of the next season's list. That is one reason why we feel that modern books are different in kind from "the classics.
The fact is that literacy itself is a means and not an end, and it can be put to uses which may be good, bad, or indifferent. A book may be read for a great variety of reasons. But the reason for which a book is read determines the way it is read and to so1me extent the degree of illumination it is possible to get from it. All books should, of course, be read for pleasure, but "pleasure" is not a helpful term here, for it has so many meanings. There are many kinds of pleasure, intellectua1 and nonintellectual, and even many kinds of intellectual pleasures. The appreciation of literature involves a very special kind of intellectual pleasure, in which the intellectual element is not always directly manifested and where the faculty which critics have come to call the imagination plays a complicated and not always definable part. The ability to read does not by itself guarantee the ability to enjoy that kind of pleasure; it has, in fact, no particular connection with it at all except that it provides the technique for communicating it to those in a position to receive it. Like patriotism, literacy is not enough.

★第一に、歴史においては(感)
 【1】第一に、歴史においては、過去の事実は自然における事実と性質をことにする、ということです。過去の事実はすでに述べましたように、歴史家が直接観察したり、実験により再現することができない、一回性の「事実」です。【2】それに歴史家が到達できるためには、史料といわれる証拠に頼るほかありません。
 史料は人間の過去の行為の記録であり、そこには記録という人間の加工が介在しています。【3】歴史家は、行為者・記録者などの人間の行為そこに表明された思想を、自己の思想により理解し識別してはじめて過去の時日に到達することができるのです。【4】ですから、ジョージ・クラークに従って、「過去の知識は、ひとりあるいはそれ以上の人間の心を通じて伝えられ、かれらの手で『加工』されたものであって、したがって、何ものも変更を加えることができないような根源的・非人格的原子からできているということはありえない」ということができます。【5】歴史家にとって事実とは、事実一般ではなく「歴史家の事実」なのです。
 「関係の客観性」の意味する第二の論点は、歴史家は時日とは完全に別の存在なのではなくて、かれ自身が「歴史過程の一部分」とである、という位置確認です。【6】歴史家は認識の対象である歴史過程の外にある存在でなくてその一部であることから、歴史的制約をうけざるをえません。あるいは、歴史家が歴史過程において占める位置から生れる「偏向」とか「党派性」を歴史家は免れることができません。
 【7】そのことを意識し、自己の認識の限界不完全性をつねに自覚することによってこそ、歴史家は客観性に近づくことができるのです。そういう意識をもたない歴史家は、えてして公正とか不偏不党を口にするのですが、じつは時代の支配的価値観の拘束を無自覚に受けているのです。【8】歴史認識における「偏向」は、客観性の否定ではなくその限界、不完全性、一時性を指示するものにすぎません。歴史家はいまでは、過去を概念的に把握するというような大それた企てを意図することはありません。【9】なしうることは、過去についてなにをいうことができるか、を示すことで、そうしたつつましい限度を越えることはありません。【0】(中略)∵
 歴史における客観性の意味を以上のように把握するなら、「歴史は時代とともに書き換えられる」ことの意味はより理解しやすいものになるでしょう。過去の事実は歴史家の事実であり、歴史家は歴史過程の一部である、という相互関係にあるとすれば、過去はつねに現在、歴史家が置かれている現在に生きていることが了解されるでしょう。「過去が現在に生きる歴史過程と、過去が死んで現在が生れる自然過程の区別」(コリングウッド)がこうして現れるのです。
 歴史においては、過去において.「既知」とされたものが時代の変化によって「未知」へと転化すること、歴史の目的は、単に新しい事実の収集にあるのではなく、「未知」へと転化した主題を証拠と推論によって解明することを目指すことが、ここに理解されるでしょう。この点において歴史家も科学者も違いはありません。しかし歴史過程においては自然過程とは違って過去が現在に生きつづけます。過去はつねに新しい文脈のなかで問い直されるのです。(中略)
 このようにいうことは、決して歴史懐疑論への同調を意味するのではなく、「歴史家自身が自身の研究対象たる過程の一部であり、同過程中にかれ独自の位置を保持し、現在の瞬間においてかれが占有している観点からのみ同過程を見ることができる」という歴史認識の特殊性を指示するにすぎません。歴史が時代とともに書き直されるという命題は、歴史が単なる過去の記憶ではなく、あるいは、歴史家の偏見と憶測の産物でもなく、時代が新たに提起する問題を証拠と推論によって解決する学問的認識方法のひとつであるとする規定になんら背反するものではありません。

(E.H.Carr(一八九二〜一九八二) イギリスの歴史家)