a 長文 10.1週 nngu
 孔子こうしは、日常生活のこまごまとしたことをよく知っていた。それを見た弟子が感心すると、孔子こうしは、自分は貧しかったから何でも自分の手でやらなければならなかったのだと言った。政治改革を目指した孔子こうしは、結局政治の分野では大きな業績を上げることができなかったが、子弟教育の分野で後世に残る足跡あしあとを残した。それも、孔子こうしがバランスのとれたゼネラリストとしての力を持っていたからだろう。しかし、今日、そのようなゼネラリストが日本の社会にいるかというと心もとない。ゼネラリスト不在の社会というのが、今日の日本の問題だ。
 では、その原因はどこにあるのだろうか。第一に考えられるのは、現代の社会が孔子こうしの時代に比べて、社会制度の面でも、科学技術の面でも、巨大きょだい化、複雑化が増していることである。そのため、一人の人間が全体を幅広くはばひろ 把握はあくすることがきわめて難しくなっている。例えば、原子力発電所の事故があったときに、いろいろな専門家がそれぞれの立場から意見を述べたが、それらをまとめるゼネラリストの役割を担う人はほとんどいなかった。あとから次々と指摘してきされたずさんな管理の仕方を見ると、当初から原発という巨大きょだいなシステムの全体像を見通せる人がいなかったらしいことも明らかになった。巨大きょだい化に対応するだけの広い視野を持つ人がいないまま、細分化された場所で専門家がばらばらに仕事をしていたというのが実態に近かったようだ。
 ゼネラリスト不在の第二の原因は、社会の安定と成熟に伴いともな 世襲せしゅう化の傾向けいこうが増してきたことが挙げられる。政治の分野では、全くの新人が、地盤じばんや看板や特別の知名度なしに当選することが難しくなっている。更にさら 世襲せしゅうを有利と感じる一種の利権集団が形成され、それが外部からの新規の参入を阻むはば ために、選挙の制度や法律を複雑にしている面もある。世襲せしゅう化の弊害へいがいは、生まれつきその分野しか知らない視野の狭いせま 人材が育ってしまうことにある。政治家という最もゼネラリストの資質が要求される分野で世襲せしゅう化が進めば、その弊害へいがい更にさら 大きいと考えられる。
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 確かに、現代の複雑化した制度や技術を運用できるのは、専門的に養成されたテクノクラートだろう。スペシャリストがそれぞの専門の分野にいるからこそ社会はスムーズに動く。しかし、専門家の横じくが広がるほど、それを縦に統合する強力なゼネラリストが必要になる。群盲ぐんもう象をなでる」という言葉がある。象を説明するだけであれば、さまざまな専門家が自分の立場から象を解釈かいしゃくしているだけでも問題はない。しかし、象使いが生きた象をコントロールするとき必要なのは、細部の解釈かいしゃくの積み重ねではなく、象という大きな全体像の把握はあくなのである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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a 長文 10.2週 nngu
 近代社会は前近代の安定したピラミッド型の社会構造を破壊はかいし、そこに流動状態をもちこんだわけだが、だからといって階層秩序ちつじょそのもの、すなわちピラミッド型の枠組わくぐみそのものまで放棄ほうきしたわけではなかった。そこには、さまざまなかたちで階層秩序ちつじょ的構造が残っているし、またそれがあるからこそ、それらの段階を上昇じょうしょうすること(立身出世、人間的完成、経済成長、福祉ふくしの整備、軍事的優勢、貧困の撲滅ぼくめつ、平等な社会の実現など)が理念的に可能であると信じられてきたのである。これらはひとつの理念を中心に構築された大きな物語(歴史やさまざまなイデオロギー)によって方向づけられていた。人々は多様な事実をこうした物語の秩序ちつじょに従って配列し、また自分自身の生の意味づけも、この物語から受け取っていたのである。
 だが、現在ではこうした物語は軒並みのきな その信頼しんらいを失っている。つまり、そうした秩序ちつじょはもはや人々が自分自身の生を投影とうえいする鏡としての機能を果たせなくなったのだ。大宗教、イデオロギー、高級文化、公的な文化などは、すでに人々と世界を結びつける機能を失ってしまっている。そのことの原因としては、異なった文化を根こそぎに均質化し、効率のみがすべてを支配する情報化社会の出現が考えられるだろう。
 問題はカルト的文化が、こうした文化的階層秩序ちつじょの不在の上に成り立っていることである。つまり、そこでは各要素を構造づけていた価値秩序ちつじょ崩壊ほうかいし、各部分文化が断片的に自立したものとして据えす られているのだ。たとえば、漫画まんがと文学、ロックとクラシックなどの間にかつては残っていた暗黙あんもくの上下関係はもはや存在しない。それらはただ単に同じ平面の上に漂っただよ ている、お互いに たが  無関係の孤島ことうにすぎないのだ。(中略)
 もちろん従来からの階層的な価値秩序ちつじょはまだまだ残っているし、現実にはそうした「建て前」によって社会は維持いじされているように見える。人々はいい大学をめざし、いい会社をめざし、まわりから祝福される結婚けっこんをめざし、出世をめざす。だが、それらの理念までが残っているわけではないのだ。いい大学はけっして学問を修め、自己を成長させるためにめざされるわけではないし、会社はその理念によって選ばれるわけではない。それらは、ただ単に
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「得」だから、すなわち金銭的、社会的な利益をもたらすから守られているにすぎないのだ。いわば、それら自身の価値はほとんど信じられておらず、ただ信じているかのように振る舞うふ ま ことだけがこれらの制度を守っているのである。
 このような意味での価値からの疎外そがいはいたるところで見いだすことができるだろう。たとえば、家族や土地との関係、歴史的連続性やコミュニティの喪失そうしつなどのかたちでそれは表われている。
 物語への実質的な信頼しんらいを失い、さまざまな情報の過剰かじょうの中で、それらの情報を秩序ちつじょづけることができなくなった人々は、均質で平凡へいぼんな生き方に逃げ込もに こ うとする。なぜなら、物語がもはや信頼しんらいできないとしたら、自己の位置を決定するものは他人との相互そうご関係だけだからである。他人と均質であること、他人と話題や関心を共有することが存在に相対的な安定をもたらす。建て前はこうした演技にとって不可欠な虚構きょこうなのである。
 しかしながら一方で、こうした根拠こんきょを欠いた表層的な身振りみぶ は、それだけでは真の安定や自己の意味づけをもたらすことはない。なぜなら、言うまでもなく自己を意味づけるのは他人との差異でなくてはならないからだ。つまり完全に他人と同質では差異は生まれてこないからである。
 そこで人は、社会化された私とはちがう「本当の私」をもとうとするのだ。いわば「失われた内面」を求めて果てしのない「旅」が始まるのである。言いかえれば、「個性」という、同質性の土台の上に作られた相対的な異質性を防衛しようとするのだ。限定された価値領域に自分をつなぎとめようとするカルト化(あるいは専門領域主義化)はこのような反動として現われてくる。つまり、それは同質性を損なわぬかぎりでの異質性として現われてくるのである。異質な価値の乱立が戦争状態をもたらさないのはそういうわけなのだ。だれも本当は全体への従属関係を失いたくないのである。

 室井尚「メディアの戦争機械」より
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a 長文 10.3週 nngu
 日本は豊かな国である、という。
 一九八八年、日本人一人あたりのGNPは、名目で三百二万六千円(二万三千六百二十ドル)。すでに、一九八六年以来、アメリカを追いこしている。
 日本の国土面積は、アメリカの二十五分の一しかないのに、地価の総額は、アメリカ全土の四倍以上(一九八七年末、千六百三十七兆円)であるという。
 日本人の個人貯蓄ちょちく合計は、約五百八十兆円。一年間のGNPをはるかに超えるこ  法人企業きぎょうの交際費は、年間約四兆二千億円(一九八七年、国税庁しらべ)、一日に百十五億円の支出である。
 こんな数字をいちいち持ち出すまでもない。店頭にあふれるかずかずの商品。セリーヌもバーバリーも、ごくふつうに色とりどりの服装をした若者たち。毎日の食事と残飯の山。捨てても捨てても、すぐいっぱいになるくずかご。粗大そだいゴミ捨て場の家具や電気製品。
 海外旅行の日本人は空港にあふれ、旅行だけではこと足りずに、海外の不動産や美術品を買いあさる。若者たちの結婚けっこん費用の平均が七百万円以上とか、政治家の一夜のパーティーに何十億円もの政治資金が集まる、などときけば、日本の社会は上から下まで金あまり現象であふれかえっているようにみえる。
 そんな日常の経験を通して、私たちは、いやでも日本が金持ちの国であることを知らされている。
 もともと経済活動は、人間を飢えう や病苦や長時間労働から解放するためのものであった。経済が発展すればするほど、ゆとりある福祉ふくし社会が実現されるはずのものであった。
 それなのに、日本は金持ちになればなるほど、逆である。人びとはさらに追い立てられ(先進国で最も長い労働時間)、子どもは偏差へんさ値で選別され(世界中の子どもを取材している絵本作家ビャネール多美子さんは「日本の子どもほど自己決定権を奪わうば れたかわいそうな子はいない」と言う)、自然はなおも破壊はかいされていく。
 効率を競う社会の制度は、個人の行動と、連鎖れんさ的に反応しあっているから、やがては生活も教育も福祉ふくしも、経済価値を求める効率社会の歯車に巻きこまれるようになる。競争は人間を利己的にし、一方が利己的になれば、他の者も自分を守るために利己的にな
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らざるを得ないから、万人は万人の敵となり、自分を守る力はカネだけになる。
 そんな社会では、人間の能力は、経済価値をふやすか否か、で判定され、同じように社会のために働いている人であっても、経済価値に貢献こうけんしない人は認められることが少ない。
 ある財界人は、「日本は企業きぎょう優劣ゆうれつを、利潤りじゅんの大小によって序列づけしてしまい、たとえ良心的、個性的、創造的というような独特な社風を持つ企業きぎょうがあっても、利益が大きくなければ、評価されない」と嘆いなげ ていた。
 そんな日本で、福祉ふくしのために献身けんしん的に働く人を高く評価するわけがない。その仕事が、どんなに社会的に必要なものであっても、経済価値に無縁むえんな老人や身体障害者や精神障害者のために働く人への社会的評価は、きわめて低い。福祉ふくし事務所で、保護を必要とする人たちのために親身になって働く職員よりも、生活保護を申請しんせいする困窮こんきゅう者を水ぎわ作戦として追いはらう職員の方が有能と評価される。それは、つまり、経済価値にとってマイナスである社会保障に対して、財政支出を抑制よくせいするのが能吏のうりだ、という考えに立っているからである。

 (暉峻淑子てるおかいつこ『豊かさとは何か』より)
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a 長文 10.4週 nngu
 理想的なものとは現実を超えこ たもののことだ。現実にはない、現実とはどこかちがうところにある、それが理想的なもののありようだ。古代ギリシャの哲学てつがく者プラトンは、そんなありかたをする理想的なものを「イデア」と名づけた。理想的な人間、理想的な馬、理想的なオリーブ、理想的な家、理想的な都市、理想的な政治……それらはこの現実世界のうちには存在せず、どこか別の世界にある。そして、現実の人間、馬、オリーブ、家、都市、政治その他は、人間のイデア、馬のイデア、オリーブのイデア、……を手本として、それに似るように作られている。が、それらが現実のものであるかぎり、イデアの完全さに達することはできない。それがプラトンのイデア論の骨子で、芸術作品も、人間が作りだした現実の存在である以上、イデア(理想的なもの)ではなく、イデアの不完全な模造品だ。
 理屈りくつとしては筋が通っているが、芸術作品を前にしたときのわたしたちの感覚とは大きくずれる考えかただ。観音菩薩ぼさつのイデアが現実世界とは別のどこかに――たとえば作者の想像世界に――存在し、それを手本として作られた不完全な模造品が目の前の百済観音だ、とはどうしても考えられない。制作にかかる前に作者の頭のなかに像のイメージがあり、それが制作の導きとなった可能性は十分にあるが、出来上がった作品を見ると、頭のなかのイメージや、さらにそのむこうにあるとされるイデアのほうが、曖昧あいまいかつ不完全なものであって、それを明確な形に表現した現実の作品は、形なき理想らしきものを形のある理想へと高めたものと思えるのだ。だからこそ、見るほうは気息を整えて、静かにゆったりと作品に対峙たいじしたくもなるので、作品のむこうにイデアをうかがうのは、芸術とつきあう楽しみをわれから放棄ほうきする所業のように思える。
 絵の場合、話はもっと分かりやすい。
 たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ    」の美しさは、モデルとなった女性の美しさをはるかに超えるこ  ものではなかろうか。絵のむこうにモデルとなった美しい女性を想定し、そのむこうに美しい女性のイデア(理想形)を想定することは可能だ。しかし、「モナ・リザ    」の絵(この際、細部まで写しとられた大判のカラー写真を絵の代わりと考えてもいいことにしよう)を見ていて、美しいモデルや、モデルのむこうのイデア(理想形)に思いが行く
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ようなら、それはもう絵を見ていないのと同じことだ。イデアをいうなら、目の前に描かえが れてある女性の絵姿こそがイデアであり、それ以上のイデアなどどこにもありはしない。それが傑作けっさく傑作けっさくたるゆえんだ。ダ・ヴィンチは絵の細部においても全体においても、女性の理想形を――永遠に女性的なるものを――追求しているといえるので、その理想形が縦77センチメートル、横53センチメートルのカンバス上に見事に定着されているのは、やはり不思議なことといわざるをえないのである。
 時代が下って、ポール・セザンヌが故郷の山を描いえが た「サント・ヴィクトワール山」についても同じことがいえる。同じ題名の絵が何枚もあって、その一枚一枚が、山の理想的な美しさの追求、あるいは、山とは何かという問いへの解答、あるいは、山というものがこの世に存在するその存在の意味の解明、といったふうな試みだが、表現された山は、その一つ一つがこれこそが山だ、山とはこんなふうにあるものだ、と感じさせる。その意味で、そこに定着されてあるのは山の理想形といっていいのである。
 理想形が、絵ならば絵具を塗りぬ かさねた布のカンバスとして、彫刻ちょうこくならば大理石のかたまりやブロンズのかたまりや木のかたまり粘土ねんどかたまりとして、音楽ならばリズムとメロディーとハーモニーを備えた音声として、目の前に、あるいは、耳に聞こえるように、ある。くりかえしいえば、それが芸術作品の基本的なありかたであって、作品を楽しむ側からいえば、目に見え、耳に聞こえる物との感覚的なつきあいを通して、形や色や音の理想的なすがたを感受できるのが喜びの源だといえる。芸術作品に接するとき、わたしたちは、現実を超えこ た理想的なものが、いま、ここに、現実のものとしてある、という矛盾むじゅんを楽しんでいるのだ。

(長谷川ひろし『高校生のための哲学てつがく入門』による)
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a 長文 11.1週 nngu
 日本とはくらべものにならない社会的共通資本の威力いりょくをかんじるのは、交通費の安さである。市中の交通は片道百十円のキップで、地下鉄、市電、市バスのどれにも乗りついで目的地までいくことができる。交通費にわずらわされることのない人間の自由な移動が、どれほど大きな生活の安定と平等に寄与きよしていることか。
 老人や学生や障害者には半額パスまたは無料パスが与えあた られている。私が感激したのは、国鉄の駅に、老婦人と中年の男(おそらくは親子)がひしと抱き合っだ あ ている大きなポスターがはってあり、「半額パスは、遠くの人びとを近づける」という文字が書いてあったことだ。国鉄を民営分割にして国鉄用地の販売はんばいで土地を高騰こうとうさせた日本。いまでは千円は一日の交通費で飛んでしまう。
 ボンにいたとき、夜中の二時ころ、市営バスが三人ほどの乗客をのせて走っているのをみた。わずかの夜勤の人たちのために、公営交通は深夜まで走っているのである。九時すぎると、なくなってしまうバスのため、タクシー乗り場に行列している日本人。電車から降りると、タクシーを奪い合ううば あ ため、われさきにと、みな走って階段をかけ上りかけ下りる。フライブルクでは、環境かんきょうキップという回数券が安く売り出されていて、なるべく乗用車に乗らずに公共交通を利用するように計画されていた。ドルトムントの町では、真夜中にもこうこうとした電灯がともり、白衣をきた医師が夜中待機して救急患者かんじゃに備えているステーションがあった。一枚ガラスを通してみえる白衣の医師の姿は、どんなに市民に安心感を与えあた ていたかしれない。
 西ドイツの労働時間は、製造業で日本より約五百時間短いと一般にいっぱん 言われるが、さらに年間千五百時間労働から千四百時間労働にむけて足並みを揃えそろ つつある。日本は年間二千百五十時間。
 西ドイツの労働者が労働時間短縮の運動をしていたときのスローガンのひとつは、「私たちに家庭の団らんと、地域社会と政治に参加する時間を与えよあた  」だった。勤労者はせいぜい片道二十分から三十分で帰宅できるので、一日の中に、労働と文化生活と家族の団らんの三つのことが並行して行われるゆとりがあるのだ。

 (暉峻淑子てるおかいつこ『豊かさとは何か』より)
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a 長文 11.2週 nngu
 その広告は、次のシーンで始まる。
 一対の手が、立体的な木製パズルを組み立てている。その間に、ソフトに調整された男の声が、最大の『工業社会の問題』または『ビジネス社会の問題』は、実際には『コミュニケーションの問題』だと説明する。
 ビジネスマンと企業きぎょう家に朗報あり! 企業きぎょう経営の潤滑じゅんかつ化のかぎは、効率的で調和のとれた総合的なコミュニケーション・システムにある! ついにパズルが完成したのだ。ごらんなさい! なんと、世界最大の企業きぎょうAT&T(アメリカン・テレフォン&テレグラム社)の社名ロゴが完成したではないか。
 画面は暗転し、白字のメッセージが浮かびう  あがる。
 「このシステムこそ解決策だ」
 そう、天空に星があるのと同じにね。
 このテレビ広告は、しばらくの間、夕方の全米ニュース番組の合間に流された。このメッセージは高度に技術的な消費社会に生きる私たちに向けて、この社会についての哲学てつがくを伝えている。コミュニケーション産業の自己投影とうえいイメージの真髄しんずいともいうべき例で、完璧かんぺきなる管理を理想像および絶対的な善として提示している。その一方で、この企業きぎょうは、自社のシステムを使うことで、『だれかと心を通わせる』ことができると主張する。AT&Tのサービスを買うことで家族のきずなは強まり、友情は維持いじされる、と。
 同社のイメージとテレビ広告は、サービスや製品を超えこ て、世の中を理解する方法までも売りこもうとしている。その基本的な前提は、企業きぎょう中心の工業社会において、社会秩序ちつじょのメカニズムを供給するのはコミュニケーション産業ということにある。効率のよい経営管理を切望するビジネスマンのふところにせまるコンセプトだ。その一方で現代の消費社会の孤独こどくで流動的な個人である私たちに対し、ますますつかまえどころがなくなりつつある家庭関係やコミュニティのきずなを約束するのだ。
 AT&Tによって提示されたようなマス・イメージは、覚えやすい言語、信仰しんこうのシステム、共通の感性を叩きたた こむ回路をつくりだし現代社会の一部となる意味を私たちに説明してくれる。それは、品物とサービスの販売はんばいと消費で定義づけられた社会、人間関係
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がしばしば金銭のやりとりで規制される社会、解決策を見出す必要に迫らせま れればすべて金でかたづけることが常識になりつつある社会だ。冒頭ぼうとうの広告に見られるような意図は、日常のことになった。消費が私たちの『ウェイ・オブ・ライフ』なのだ。コマーシャル・イメージ――広告、パッケージ、広報活動、映画、テレビなど――は、この『ウェイ・オブ・ライフ』の強化に重要な役割を果たしている。(中略)
 マイク・ゴールドの自伝的移民小説『金のないユダヤ人』のなかでは、著者の父親が、文化的な崩壊ほうかい感を簡潔に表現してアメリカを「泥棒どろぼう」よばわりする。最初は慣れ親しんだ生活を補充ほじゅうするための手段と解釈かいしゃくされていた賃金労働と時間の切り売りは、じつは新しい支配の構造であることがじきに暴露ばくろされた。賃金は、資本と同じ働きをしなかった。資本は土地に似通っていた――それを所有するものに有利にはたらく富の一形態だった。資本は、自分で肥えてゆくが、賃金は違っちが た。労働者がアメリカでかき集めたわずかな金は、その場で消費されるべき性質のものだった。後に残りもせず、希望も生みださなかった。農業や手工業に携わりたずさ  、消費は禁物だと教えられてきた人々に、消費は新世界での市民権の定義づけに必要なものとして提供されたのだ。
 価値や生存が土地と直結したり、自然の利用からもたらされた状況じょうきょう下では、大量消費は自殺行為こういを意味した。工業国アメリカに移住してきた農民や手工業の職人にとって、賃金労働システムはこの基本的な前提の冒とくぼう  にほかならなかった。自然との官能的な融合ゆうごうから生じたこの前提は、いまや工業生産、市場開拓かいたく、都会生活の泥沼どろぬまもれつつあった。ここでも貯えようとする努力はなされたが、賃金を土地と同じように活用しようとの移民の試みは、むだに終わることが多かった。大量生産工業と発生期にあった消費市場に特徴とくちょうづけられた社会において、人間と自然の分裂ぶんれつは自明の理であり、ウィリアムズ呼ぶところの「『人間による自然の征服せいふく』の勝利者側の論理」が定着していった。

 (スチュアート&エリザベス・イーウェン著『欲望と消費』)
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a 長文 11.3週 nngu
 A氏は、まずメンフラハップのコマーシャルを例にあげ、「モノはそこにあるだけではただのモノにすぎない。が、そのモノに面白い言葉がつくと、とつぜんモノが息づき、モノと人間との関係が生き生きとしたものに変わってくる」と広告の『あらまほしきありよう』を説いてから、商品というモノを息づかせることなく、モノから離れはな 、一人歩きしていった「繁栄はんえい」の六〇年代以降の広告について批判的にのべている。
 その、広告のいわゆる「モノ離ればな 」現象が起きたのは「技術の高度化が平準化を生み、競争商品の間に品質や性能上の差異がなくなった」結果だった。商品が似たようなものになればなるほど、自社商品の印象を競合商品から際立たせる必要が生じ、その「差別化」の役割を、もっぱら広告が担うことになったのである。ということについてA氏はいう、「それはいい、好むと好まざるとにかかわらず、私たちはそういう時代を生きている。が、その差異づくりが、もっともらしい言葉やまことしやかなレトリックの競争になり、人間的な息づかいを失って空回りをはじめると、言葉はただのガレキになり、モノと人間との間にかべを作ってしまうことになる。六〇年代以降の広告は、実際には、そんな方向へどんどん進んできてしまったのではないか」「そういう広告は、商品と人間の関係を生き生きさせるどころか、両者を窒息ちっそく状態に追い込んお こ でしまう。いま広告に批判されるところがあるとしたら、それは欲望を誘発ゆうはつするとか暮らしのイデオロギーを押しつけるお    といった古くさい論点によってではなく、モノと人間をへだててしまうような『言葉のモノ化』によってではないだろうか」と。
 A氏によれば、川崎かわさき作品で、郷ひろみと横山やすしが「ハエカ退治にキンチョール。言ってみろ!」とバケツに向かって叫ぶさけ のは、モノ化した言葉のかべを開く「ひらけ、ゴマ!」のまじないであり、糸井いとい作品が意図するのは、『差異づくり』でなく、『場づくり』を狙うねら ことで、モノ化した言葉のかべをバイパスしてしまうことだという。その分析ぶんせきは、面白かった。モノと人間の関係、人間と人間の関係、の再活性化広告を歓迎かんげいすることにも賛成である。
 しかし、「それはいい、好むと好まざるとにかかわらず私たちはそういう時代を生きている」と「時代」を大前提化して、論議の
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対象外にしてしまうことと、広告の問題点に関して、「欲望を誘発ゆうはつするとか暮らしのイデオロギーを押しつけるお    といった古くさい論点によってではなく……」と、広告表現に問題をすべて集約してしまうことは、疑問だ。(中略)
 ましてその、広告の基本的役割は、依然としていぜん   まだ、新しい生き方・考え方、すなわち「暮らしのイデオロギー」の提示(押しつけお   )であり、その新しい生き方・考え方と一体化した商品=モノへの欲求喚起かんきなのである。
 資生堂がハワイに日本初の海外ロケ隊をおくったのは一九六六年だったが、それから十年もしないうちに、ハワイはおろかアフリカやモロッコの奥地おくちにまで日本の広告ロケ隊が群がるようになった。だが、そうやって世界中の「憧れあこが の生活」が広告メディアを埋めう 尽くすつ  ようになったとき、日本の商品は欧米おうべいに追いつき、商品間の差異も、A氏がいう通りに、消えはじめた。欧米おうべいという手本が手本でなくなり、品質・性能という明快な目標も消えたのである。どこかが新製品を出すと、それが束の間の手本・目標になった。そうして品質・性能の平準化が加速し、「差別化」の役割が広告に移っていった。だが、その広告においても同様の平準化が起ったのである。アメリカロケでは差をつけ得ないからインドへ行こう、いやアフリカだ、と「憧れあこが 先」が次々開発されたがロケ先の差もたちまち平準化され、セットの差、タレントの差、メイクの差、アイデアの差もすぐあと追いされ、ということの結果が、無個性な、表現だけが浮き上がりう あ  、心の喚起かんき力もない広告表現の「モノ化」現象だったのではないか。
 そして代わりに出てきたのが川崎かわさきとおるの「オモシロ広告」であり、糸井いといチームの「おいしい生活」すなわち「充実じゅうじつさせよう日常生活」広告だったのだ。「いまここ」から心を憧れあこが 彼方かなたにとばすことをやめ、「いまここ」に目を向け直そうという広告。ただしそれらの広告も、第一義的にはやはり「差別化」のための新趣向しゅこうであり、新しい生き方の提案なのである。つまり「モノ離ればな 」広告と本質的なところでは変わらないのだ。
 (佐野山寛太著『広告化文明』より抜粋ばっすい・編集)
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a 長文 11.4週 nngu
 「則天去私」というのは晩年の漱石そうせきが作った言葉です。天に則って私を去る、「私」なんてない、というのは「西洋近代的自我」すなわち「私は私であり、その個性は意識にのみある」という考え方に対する、日本人としての反発だったのではないでしょうか。
 戸籍こせき制度や漱石そうせきの思想から見れば、こうした近代化というのは明治時代に始まったと考えられます。しかし、日本の場合、こうした思い込みおも こ がここまで確立されたのは戦後でしょう。戦後は、それまでの日本的な考え方を「封建ほうけん的」の一言で片付けてしまった。
 今では葬式そうしきといえば火葬かそうがあたりまえですが、高度成長期の前までは土葬どそうも別に非常識な手法ではなかった。これがあっという間に、より死体を遠ざける方向に向かっていった。出来るだけ「死」を日常生活から離しはな ていった。考えないようになった。
 ほぼ同じ時期にトイレでも同じようなことが起きた。つまり水洗便所の普及ふきゅうです。あれは人間が自然のものとして出すものをなるべく見えないように、感じないようにしたものです。(中略)
 同様に戦後消えていったものはたくさんあります。お母さんが電車の中でお乳を子供に与えるあた  姿も見なくなって久しいように思います。
 肉体労働者がフンドシ一丁で働かなくなったのはもっと前からのような気がします。(中略)
 このへんのことにはみな、共通の感覚があるのがおわかりでしょうか。身体に関することが、どんどん消されていったのです。
 これは都市化とともに起こってきたことです。それも暗黙あんもくのうちに起こることです。世界中どこでも都市化すると法律で決めたわけでも何でもありません。それでもほぼ似たような状態になります。これは意識が同じ方向性もしくは傾向けいこうをもっているからです。
 都市であるにもかかわらず、異質な存在だったのが古代ギリシャです。ギリシャ人はアテネというあれだけの都市社会を作っておきながら、はだかの場所を残していたのですから。彼らかれ にとってははだかが非常に身近だった。
 だれもが知っているのがオリンピックです。これはもともとは全裸ぜんらで行っていた大会です。マラソンだって何だって全裸ぜんらです。マンガ
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や絵本のようにイチジクの葉なんか付けていません。
 スポーツに限らず、教育機関、当時のギムナジウム(青少年のための訓練所)でもみなはだかでした。
 もともとギムナジウムという言葉は「はだか」を意味していたのです。おそらくはだかであることの根拠こんきょは今で言う「はだかの付き合い」というのに非常に近かったのではないか。
 アテネ型の民主主義の前提は、市民全員が平等だということです。これはだれでもはだかの付き合いが出来る、ということでしょう。着ている物や何かで判断を受けない。若い人たちはギムナジウムでは平等だった。民主主義の原点は「はだかの付き合い」にあった、というのは興味深いことです。
 ギリシャとは異なり、ローマ帝国   ていこくにはこうした「はだかの文化」はなかった。もちろん共同浴場とかそういう場所でははだかになっていました。しかし、別にそれは社会の制度と結びついていたわけではありません。
 ルネッサンス時代の彫刻ちょうこくは、ギリシャ時代のはだかのモデルの彫刻ちょうこくを写したものですが、別にルネッサンス時代の人々がはだかだったわけではない。レオナルド・ダ・ヴィンチはだかで暮らしていたわけではありません。彼らかれ 彫刻ちょうこくの題材がはだかであっても、それは着物を着た連中がはだかを創っているわけです。よく一緒いっしょにされてしまいがちですが、ギリシャ彫刻ちょうこくのように、もともとはだかで過ごしていた人たちがはだか彫刻ちょうこくを創るのとでは、意味がまったく違うちが のです。
 もちろん、今ではなぜ古代ギリシャ人たちがはだかだったのか、文献ぶんけんで証明することは出来ません。そんなことの理由をくわしく書いている本はないのです。こういう共同体全体が持っている無意識のルールというのは、往々にして記録されません。
 ただし、彼らかれ にとって今の私たちよりも身体というものが身近だったのは間違いまちが ないし、それが社会的に何らかの作用をしていたと考えていいのではないでしょうか。

(養老孟司たけし『死のかべ』による)
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a 長文 12.1週 nngu
 本来、特許制度は発明を保護する狙いねら をもっている。技術を「公開」した代償だいしょうとして、発明者に「独占どくせん権」を与えよあた  うとするものである。
 技術の公開とひきかえに発明者に与えあた られる独占どくせん権には、三つの効用が期待できる。
 一つは、発明に要した開発費用の回収が可能になることである。長期間の悪戦苦闘あくせんくとうの末、発明まで漕ぎ着けこ つ た者が、その発明を模倣もほうされたら、どんなことになるだろうか。発明者は以後、発明の中身を公開しなくなるであろう。実際、模倣もほう者は開発コストがかからないので、発明者よりも安く商品を製造販売はんばいすることができるわけである。もし発明者に一定の独占どくせん期間が与えあた られれば、開発コストは回収され、さらに利益を生み出すことも期待できよう。
 二つ目の効用は、社会全体からみて、発明のための重複研究、二重投資が避けさ られ、公開された発明の中身が吟味ぎんみされ、さらにちがった方向の研究に進むことが可能である。
 三つ目は、発明が特許によって保障されれば、発明行為こういに火がつき新しい発明および技術開発のための刺激しげきざいにもなりうるだろう。
 (中略)
 歴史上、われわれからオリジナリティを奪い取っうば と た典型的な事例として、よく引き合いに出される文献ぶんけんがある。それが享保きょうほ六年(一七二一年)に徳川幕府が出した触れ書きふ が で、「新規御法度ごはっと(ごはっと)」と呼ばれたものである。新規のことはすべて幕府に対する反逆と決めつけられた。新しいことは何もかも悪とみなされたのである。
 「新規御法度ごはっと」とはどんなものだったのか。
 一、呉服ごふく物、諸道具、書物は申すに及ばおよ ず、諸商売物、菓子かし類にても、新規に出し候事自今以後堅くかた 停止たり。若しよりどころなき仔細しさいこれある者は役所へ出、許を受け仕出す可き事
 一、諸商物の内、古来の通にて事済み候処、近年色品をかわ、物
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数寄に仕出し候類は追て吟味ぎんみ遂げと 停止申付くべく候間、けんむね心得べき事
 つまり、呉服ごふくや道具や書物やお菓子 かしにいたるまで、新規のものを製造販売はんばいすることは禁じられたのである。また長い間売ってきたものに、たとえば色を変えるとか、素材に別のものを使って、目先の変化をつけようとすることも禁じられた。
 上の触れ書きふ が 享保きょうほ六年のものだが、この手のお触れ ふ はしばしば発せられている。
 享保きょうほ六年は、西暦せいれきに直すと一七二一年、先進国のイギリスでは一八世紀の産業革命期を迎えよむか  うとしていた。変革の前夜であった。
 日本は産業革命どころの話ではなく、新しいお菓子 かしさえ作ってはいけないといわれた鎖国さこくのまっただなかにあった。新技術をはぐくむ土壌どじょうは幕府によって完全に抑圧よくあつされ、まったく発明への気運を醸成じょうせいするような社会情勢にはなかったのである。人びとは変化を求めず、思想の自由、行動の自由を求めず、ひたすら幕はん体制下の秩序ちつじょを守ることを強いられた。だからこそ、この抑圧よくあつが反発のバネになり、新しい時代を用意するための変革期を迎えるむか  ことになるのである。
 かりに優秀ゆうしゅうな技術があったにしても、それを公にせず、秘法として自らの内におさめておくことが、為政者いせいしゃの求めるところでもあった。
 このような変化を嫌うきら 状況じょうきょうでは、「発明の公開」を条件に「独占どくせん権」を与えよあた  うという特許の思想は育ちようもない。
 たしかに、江戸えど時代も半ばを過ぎると、幕府の出した「新規御法度ごはっと」とは逆に、各はんは、競って新技術・新産業・新商品を求めるようになっていったことは事実である。しかし、欧米おうべいが鉄とか蒸気機関、電信機といったすすんだ発明と特許の関係を論じているとき、日本ではぬり物、紙、ロウソク、醤油しょうゆ、お茶、鋳物いもの、木綿など日常生活の中の小物の改良、改善に関する工夫や技法を問題にしてい
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長文 12.1週 nnguのつづき
た。もちろん築城といった巨大きょだい技術もあったが、それは例外中の例外といえる。
 永六年(一八五三年)のペリーの来航によって、日本は急速に開国に向かい、西欧せいおうの文物を大々的に導入することになった。こうした流れの中で特許制度も、福沢ふくさわ諭吉ゆきちの「西洋事情」(一八六六―七〇年にかけて出版)によって、日本にはじめて紹介しょうかいされた。

(守誠『特許の文明史』より抜粋、調整)
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a 長文 12.2週 nngu
 九二年度末の時点で、この国には一万九四二個もの規制があったといわれる。規制は、政官業癒着ゆちゃくの構造を磐石ばんじゃくのものとする主因でもある。近時、「規制緩和かんわ」の大合唱が巷間こうかんにこだまするようになったが、すべての規制が「悪」というわけでは必ずしもない。
 規制の中には、安全、環境かんきょう保全、弱者保護、経済的不正の防止、景観保全、自然保護などをねらいとする「必要」な規制が数多くある。しかし、あってもなくてもいいような規制、健全な自由競争を阻害そがいする規制、不必要にきびしすぎる規制、利権の温床おんしょうとなる規制など、緩和かんわないし撤廃てっぱいすることが望ましい規制が、少くとも過半を占めし ているとみてよい。
 そうした規制の多くは、中央官庁の許認可権限につらなり、許認可権限があるからこそ、中央官庁は民間企業きぎょうへのにらみを利かすことができる。とどこおりなく許認可を獲得かくとくするためには、好むと好まざるとにかかわらず民間企業きぎょうは、監督かんとく官庁からの「天下り」を受け入れざるをえないといわれる。また、ここ一番というときには、族議員のたすけを借りるのがいちばん手っとり早かった。
 要するに、許認可行政の肥大化こそが、政官業三者の癒着ゆちゃくを強固なものとする接着ざいの役割を果たしたのである。「官」と「業」とのあいだに橋をかけるのが「政」の役割であり、その役割を果たしてきたうえで、ひとかどの報酬ほうしゅうを「政」が「業」に要求するのは、少なくともついこのあいだまでは常識と目されていた。
 あらためて指摘してきするまでもなく、許認可権限をかくとする政官業癒着ゆちゃくの構造こそが、市場を不透明ふとうめいかつ不公正なものにする元凶げんきょうのひとつに数えられる。とはいえ、先に指摘してきしたように、あらゆる許認可が「悪」というわけではない。問題なのは、許認可をめぐっての族議員の暗躍あんやくが、行政を不透明ふとうめい化し、民間企業きぎょう途方とほうもない時間的コストと経済的コスト(そのツケは消費者に回される)を支払わしはら せ、許認可のサジ加減の次第が行政を不公正にするという点である。もし仮に許認可権限がまったくフェアに執行しっこうされるならば、規制の緩和かんわ撤廃てっぱいの大合唱が起きたりはしないはずである。
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佐和隆光『平成不況ふきょうの政治経済室』)
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a 長文 12.3週 nngu
 日本人には、ボランティア精神が希薄きはくで、ボランティアのシステムを社会的に定着させるのは困難ではないかとの意見がある。しかし、私は決してそうは思わない。
 アメリカの場合、ボランティア精神、相互そうご扶助ふじょ精神が非常に発達していて、成人の二人に一人は、なんらかのボランティア活動に従事しているといわれる。
 なぜ、アメリカではそんなに発達しているのか、これにはいくつかの要素がある。
 キリスト教というバックボーンがあるということもある。各地域に教会があって、日曜日には、年代を超えこ たたくさんの人たちが集まり、そこに地域の輪ができる。
 教会で牧師さんの説教を聞き、清らかな心になると、なにかいいことをしたくなる。情報交換こうかんの場にもなり、どこそこの誰かだれ が困っているといった情報なども教会を介しかい てみんなに伝わる。こうして教会を中心にしたボランティアの輪が、各地域に広がっていく。
 もっと具体的な要素は、時間的なゆとりがあるということであろう。
 日本人の年間労働時間は、二千時間を超えこ ている。サービス残業や、夜間、休日などの仕事仲間とのつき合い、接待などを入れれば二千数百時間になるだろう。それに対しアメリカでは千九百時間、ドイツでは千六百時間を切っているし、勤務時間以外は、彼らかれ は完全に自由である。つまり、彼らかれ には時間的余裕よゆうがたっぷりあって、そうなると人の本性として、人に良いことをしたくなってくる。
 その上、建国以来、自分たちの手で社会をつくってきたという伝統がある。また、いろいろな民族が入り交じっているから、お互いに たが  個人を尊重しあい、協調していかないとやっていけないという状況じょうきょうもある。これだけの条件が揃っそろ ているため、アメリカではあれほどボランティアが発達しているのだと思う。
 それに対して、確かに日本は、キリスト教のバックボーンもないし、みんなが集まる地域の場もない、時間的余裕よゆうもない。お先真っ暗ではないか、と考えるのも無理はないかもしれない。
 しかし、宗教的な要素でいえば、熱心な信者であるかないかにかかわらず、日本人には伝統的に仏教的なフィーリングがある。習慣
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や年中行事の中にも、仏教は色濃くいろこ 残っている。
 根本精神でいえば、キリスト教の場合は、イエス・キリストに象徴しょうちょうされるように自己犠牲ぎせいむねとしている。したがって、まったくの手弁当で全面的に奉仕ほうしする。そこからなんの見返りも期待しない。
 一方、仏教の基本原理は因果応報の考え方にある。ここで助けておけば、いずれ自分が困ったときには助けてもらえるだろうというように、広い意味での見返りをなんとなく期待する。これは別に悪いことではなく「困ったときはお互い たが さま」という考え方だから、相互そうご扶助ふじょの精神である。ここに日本的なボランティア活動が根づく地盤じばんがあると思う。
 もともと日本人は、農耕民族である。機械化以前の農耕というのは、一人ではやっていけない。集落が一つの単位となり、季節ごとの農作業を総出で行って収穫しゅうかくを平等に配分するということだから、基本的には助け合いのシステムである。そうした精神は、いまもわれわれの潜在せんざい意識の中に残っている。
 そして、最近は時間的ゆとりもかなり出てきた。かつては労組の要求は賃上げ一本だったが、いまでは勤務時間短縮も合わせて強力に要求するといったように変わってきた。週休二日制もいきわたってきた。日本もこれからだんだんゆとりの世界に入っていく。
 だから、ボランティア活動をするための条件は、日本でも熟し始めていると思う。ただ、これも農耕民族の特徴とくちょうだが、突出とっしゅつ嫌うきら 意識があって、自分から旗を振っふ て組織をつくったり、みんなに呼びかけたりすることが苦手である。
 テレビなどで助け合いの提唱をすれば、あっという間に何千万円もの義捐ぎえん金(ぎえんきん)が集まる。このように、もともと助け合いの精神をもった民族だから、各地にそうした組織をつくり必要な場所を提供してゆけば、そこにみんな集まってくるようになるだろう。それが時の流れだと思う。

(「再びの生きがい」堀田ほった力より)
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a 長文 12.4週 nngu
 モーツァルトという人類史上まれにみる美を生み出した、近代西洋の機能和声音楽とは、人間にとって何なのか、それを考えるために、私は若いとき、医者になるのはやめて音楽学を勉強しようと思ったことがある。音楽美学のように哲学てつがく的・抽象ちゅうしょう的な概念がいねんを問題にするよりも、音を聴くき という具体的な感覚体験のほうからそれを考えようとしていたのは、私が医学部生だったからだろうか。
 機能和声音楽では、ソシレの属和音の次にドミソの主和音が来ると、音楽が一段落したという終結感が生み出される。属和音にファを加えてソシレファの属七和音にしてやると、この終結感はもっと明確なものになる。これは、シの音が半音上がってドに向かおうとし、ファの音が半音下がってミに向かおうとする、この二つの音のもつ強い方向性のためである。ある音がそれ自身にとどまろうとせず、自らを離脱りだつして別の音を求めようとする、ほとんど生理的といってよい法則的傾向けいこう、これが機能和声の基礎きそになっている。
 平均律でどの半音も等間隔とうかんかくで並んでいるピアノのような楽器だと、それぞれの音は完全に均質化されていて、だからこそ転調というような技法も可能になるのだが、そこにひとつの調性が与えあた られたとたん、音階上のそれぞれの音に、他の音と異質な個性が生まれる。鍵盤けんばん上のすべての音は、音の高さ以外はまったく均質であるはずなのに、いったん調性が与えあた られると、どの音もそれぞれ異なった未来指向性を示すようになる。
 この個性、たとえばシのド指向性は、人間の感覚にとって抗いあらが がたいもののようである。だからピアノと違っちが て平均律に固定されていない弦楽器げんがっきの奏者だと、シの音を弾くひ 場合、この指向性に無意識にひきずられることになり、シをあらかじめドの方向に寄せて、つまり平均律より少し高く、純正調に近い音で弾こひ うとする傾向けいこうが出てくる。モーツァルトはヴァイオリンソナタを書くとき、ヴァイオリンのシとピアノのシがなるべく重ならないように注意していたらしい。音が濁らにご ないようにという配慮はいりょからである。
 調性が与えあた られると音が個性をもつようになる。調性が与えあた られるというのは、それを決める音がすでにいくつか聞こえたということである。つまり、音楽にその経歴が与えあた られたということであ
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る。音楽が鳴りはじめると、あらゆる音は自らの経歴を、過去の想起(アナムネシス)を含むふく ことになる。過去に鳴ったすべての音の積分として鳴っているといってもよい。そしてこのアナムネシスが、現在の音の未来指向性(プロレプシス)を生み出す。シがドに、ファがミに進もうとするのは、調性のアナムネシスそのものが紡ぎつむ 出す微分びぶん的な方向のプロレプシスである。属和音から主和音への進行が終わると、プロレプシスはそこで一段落となり、さらなる行動への要求が消えて、安定感と終結感が得られる。
 生命的行動のアナムネシス・プロレプシス構造というのは、ヴァイツゼカーの理論を語るときに欠かすことのできないかぎ概念がいねんである。人間に限らず、あらゆる生きものの主体的な行動は、物体の物理的な運動と違っちが て、「そこから」と「そこへ」の性格をもっている。それはつねに記憶きおくに裏づけられた未来の先取だとヴァイツゼカーはいう。アナムネシス的な経歴に支えられたプロレプシス的な未来の先取りが、そしてそれのみが、主体の主体性を可能にしている。だから主体というものは、つねに現在の最先端さいせんたんでプロレプシス的に未来を生きている面と、それまでの過去の全部をアナムネシス的に生きている面との、境界的性格をもつことになる。(中略)
 人間の感覚は、このプロレプシスの意識とアナムネシスの意識とのはざまに「時間」を感じとる。時間という実在があらかじめ与えあた られていて、われわれがそれを消費しながら生きているのではない。生きるということは、行動の各瞬間しゅんかんが過去を継承けいしょうしながら未来を先取することによって、その界面に時間という現実を生み出し続けることにほかならない。

(木村びん「音楽と時間」より)
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