グミ の山 12 月 3 週 (5)
★日本人にはボランティア精神が(感)   池新  
 【1】日本人には、ボランティア精神が希薄で、ボランティアのシステムを社会的に定着させるのは困難ではないかとの意見がある。しかし、私は決してそうは思わない。
 【2】アメリカの場合、ボランティア精神、相互扶助精神が非常に発達していて、成人の二人に一人は、なんらかのボランティア活動に従事しているといわれる。
 なぜ、アメリカではそんなに発達しているのか、これにはいくつかの要素がある。
 【3】キリスト教というバックボーンがあるということもある。各地域に教会があって、日曜日には、年代を超えたたくさんの人たちが集まり、そこに地域の輪ができる。
 教会で牧師さんの説教を聞き、清らかな心になると、なにかいいことをしたくなる。【4】情報交換の場にもなり、どこそこの誰かが困っているといった情報なども教会を介してみんなに伝わる。こうして教会を中心にしたボランティアの輪が、各地域に広がっていく。
 【5】もっと具体的な要素は、時間的なゆとりがあるということであろう。
 日本人の年間労働時間は、二千時間を超えている。サービス残業や、夜間、休日などの仕事仲間とのつき合い、接待などを入れれば二千数百時間になるだろう。【6】それに対しアメリカでは千九百時間、ドイツでは千六百時間を切っているし、勤務時間以外は、彼らは完全に自由である。つまり、彼らには時間的余裕がたっぷりあって、そうなると人の本性として、人に良いことをしたくなってくる。
 【7】その上、建国以来、自分たちの手で社会をつくってきたという伝統がある。また、いろいろな民族が入り交じっているから、お互いに個人を尊重しあい、協調していかないとやっていけないという状況もある。【8】これだけの条件が揃っているため、アメリカではあれほどボランティアが発達しているのだと思う。
 それに対して、確かに日本は、キリスト教のバックボーンもないし、みんなが集まる地域の場もない、時間的余裕もない。【9】お先真っ暗ではないか、と考えるのも無理はないかもしれない。
 しかし、宗教的な要素でいえば、熱心な信者であるかないかにかかわらず、日本人には伝統的に仏教的なフィーリングがある。習慣∵や年中行事の中にも、仏教は色濃く残っている。
 【0】根本精神でいえば、キリスト教の場合は、イエス・キリストに象徴されるように自己犠牲を旨としている。したがって、まったくの手弁当で全面的に奉仕する。そこからなんの見返りも期待しない。
 一方、仏教の基本原理は因果応報の考え方にある。ここで助けておけば、いずれ自分が困ったときには助けてもらえるだろうというように、広い意味での見返りをなんとなく期待する。これは別に悪いことではなく「困ったときはお互いさま」という考え方だから、相互扶助の精神である。ここに日本的なボランティア活動が根づく地盤があると思う。
 もともと日本人は、農耕民族である。機械化以前の農耕というのは、一人ではやっていけない。集落が一つの単位となり、季節ごとの農作業を総出で行って収穫を平等に配分するということだから、基本的には助け合いのシステムである。そうした精神は、いまもわれわれの潜在意識の中に残っている。
 そして、最近は時間的ゆとりもかなり出てきた。かつては労組の要求は賃上げ一本だったが、いまでは勤務時間短縮も合わせて強力に要求するといったように変わってきた。週休二日制もいきわたってきた。日本もこれからだんだんゆとりの世界に入っていく。
 だから、ボランティア活動をするための条件は、日本でも熟し始めていると思う。ただ、これも農耕民族の特徴だが、突出を嫌う意識があって、自分から旗を振って組織をつくったり、みんなに呼びかけたりすることが苦手である。
 テレビなどで助け合いの提唱をすれば、あっという間に何千万円もの義捐金(ぎえんきん)が集まる。このように、もともと助け合いの精神をもった民族だから、各地にそうした組織をつくり必要な場所を提供してゆけば、そこにみんな集まってくるようになるだろう。それが時の流れだと思う。

(「再びの生きがい」堀田力より)