1. 【1】本来、特許制度は発明を保護する
狙いをもっている。技術を「公開」した
代償として、発明者に「
独占権」を
与えようとするものである。
2. 技術の公開とひきかえに発明者に
与えられる
独占権には、三つの効用が期待できる。
3. 【2】一つは、発明に要した開発費用の回収が可能になることである。長期間の
悪戦苦闘の末、発明まで
漕ぎ着けた者が、その発明を
模倣されたら、どんなことになるだろうか。発明者は以後、発明の中身を公開しなくなるであろう。【3】実際、
模倣者は開発コストがかからないので、発明者よりも安く商品を製造
販売することができるわけである。もし発明者に一定の
独占期間が
与えられれば、開発コストは回収され、さらに利益を生み出すことも期待できよう。
4. 【4】二つ目の効用は、社会全体からみて、発明のための重複研究、二重投資が
避けられ、公開された発明の中身が
吟味され、さらにちがった方向の研究に進むことが可能である。
5. 【5】三つ目は、発明が特許によって保障されれば、発明
行為に火がつき新しい発明および技術開発のための
刺激剤にもなりうるだろう。
6. (中略)
7. 歴史上、われわれからオリジナリティを
奪い取った典型的な事例として、よく引き合いに出される
文献がある。【6】それが
享保六年(一七二一年)に徳川幕府が出した
触れ書きで、「新規
御法度(ごはっと)」と呼ばれたものである。新規のことはすべて幕府に対する反逆と決めつけられた。新しいことは何もかも悪とみなされたのである。
8. 「新規
御法度」とはどんなものだったのか。
9. 【7】一、
呉服物、諸道具、書物は申すに
及ばず、諸商売物、
菓子類にても、新規に
巧出し候事自今以後
堅く停止たり。若し
拠なき
仔細これある者は役所へ
訴出、許を受け仕出す可き事
10. 【8】一、諸商物の内、古来の通にて事済み候処、近年色品を
替、物∵数寄に仕出し候類は追て
吟味を
遂げ停止申付くべく候間、
兼々
其旨心得べき事
11. 【9】つまり、
呉服や道具や書物や
お菓子にいたるまで、新規のものを製造
販売することは禁じられたのである。また長い間売ってきたものに、たとえば色を変えるとか、素材に別のものを使って、目先の変化をつけようとすることも禁じられた。
12. 【0】上の
触れ書きは
享保六年のものだが、この手の
お触れはしばしば発せられている。
13.
享保六年は、
西暦に直すと一七二一年、先進国のイギリスでは一八世紀の産業革命期を
迎えようとしていた。変革の前夜であった。
14. 日本は産業革命どころの話ではなく、新しい
お菓子さえ作ってはいけないといわれた
鎖国のまっただなかにあった。新技術をはぐくむ
土壌は幕府によって完全に
抑圧され、まったく発明への気運を
醸成するような社会情勢にはなかったのである。人びとは変化を求めず、思想の自由、行動の自由を求めず、ひたすら幕
藩体制下の
秩序を守ることを強いられた。だからこそ、この
抑圧が反発のバネになり、新しい時代を用意するための変革期を
迎えることになるのである。
15. かりに
優秀な技術があったにしても、それを公にせず、秘法として自らの内におさめておくことが、
為政者の求めるところでもあった。
16. このような変化を
嫌う状況では、「発明の公開」を条件に「
独占権」を
与えようという特許の思想は育ちようもない。
17. たしかに、
江戸時代も半ばを過ぎると、幕府の出した「新規
御法度」とは逆に、各
藩は、競って新技術・新産業・新商品を求めるようになっていったことは事実である。しかし、
欧米が鉄とか蒸気機関、電信機といったすすんだ発明と特許の関係を論じているとき、日本では
塗物、紙、ロウソク、
醤油、お茶、
鋳物、木綿など日常生活の中の小物の改良、改善に関する工夫や技法を問題にしてい∵た。もちろん築城といった
巨大技術もあったが、それは例外中の例外といえる。
18.
嘉永六年(一八五三年)のペリーの来航によって、日本は急速に開国に向かい、
西欧の文物を大々的に導入することになった。こうした流れの中で特許制度も、
福沢諭吉の「西洋事情」(一八六六―七〇年にかけて出版)によって、日本にはじめて
紹介された。
19.(守誠『特許の文明史』より
抜粋、調整)