グミ の山 12 月 1 週 (5)
★本来、特許制度は(感)   池新  
 【1】本来、特許制度は発明を保護する狙いをもっている。技術を「公開」した代償として、発明者に「独占権」を与えようとするものである。
 技術の公開とひきかえに発明者に与えられる独占権には、三つの効用が期待できる。
 【2】一つは、発明に要した開発費用の回収が可能になることである。長期間の悪戦苦闘の末、発明まで漕ぎ着けた者が、その発明を模倣されたら、どんなことになるだろうか。発明者は以後、発明の中身を公開しなくなるであろう。【3】実際、模倣者は開発コストがかからないので、発明者よりも安く商品を製造販売することができるわけである。もし発明者に一定の独占期間が与えられれば、開発コストは回収され、さらに利益を生み出すことも期待できよう。
 【4】二つ目の効用は、社会全体からみて、発明のための重複研究、二重投資が避けられ、公開された発明の中身が吟味され、さらにちがった方向の研究に進むことが可能である。
 【5】三つ目は、発明が特許によって保障されれば、発明行為に火がつき新しい発明および技術開発のための刺激剤にもなりうるだろう。
 (中略)
 歴史上、われわれからオリジナリティを奪い取った典型的な事例として、よく引き合いに出される文献がある。【6】それが享保六年(一七二一年)に徳川幕府が出した触れ書きで、「新規御法度(ごはっと)」と呼ばれたものである。新規のことはすべて幕府に対する反逆と決めつけられた。新しいことは何もかも悪とみなされたのである。
 「新規御法度」とはどんなものだったのか。
 【7】一、呉服物、諸道具、書物は申すに及ばず、諸商売物、菓子類にても、新規に巧()出し候事自今以後堅く停止たり。若し拠なき仔細これある者は役所へ訴出、許を受け仕出す可き事
 【8】一、諸商物の内、古来の通にて事済み候処、近年色品を替、物∵数寄に仕出し候類は追て吟味を遂げ停止申付くべく候間、兼々其旨心得べき事
 【9】つまり、呉服や道具や書物やお菓子にいたるまで、新規のものを製造販売することは禁じられたのである。また長い間売ってきたものに、たとえば色を変えるとか、素材に別のものを使って、目先の変化をつけようとすることも禁じられた。
 【0】上の触れ書きは享保六年のものだが、この手のお触れはしばしば発せられている。
 享保六年は、西暦に直すと一七二一年、先進国のイギリスでは一八世紀の産業革命期を迎えようとしていた。変革の前夜であった。
 日本は産業革命どころの話ではなく、新しいお菓子さえ作ってはいけないといわれた鎖国のまっただなかにあった。新技術をはぐくむ土壌は幕府によって完全に抑圧され、まったく発明への気運を醸成するような社会情勢にはなかったのである。人びとは変化を求めず、思想の自由、行動の自由を求めず、ひたすら幕藩体制下の秩序を守ることを強いられた。だからこそ、この抑圧が反発のバネになり、新しい時代を用意するための変革期を迎えることになるのである。
 かりに優秀な技術があったにしても、それを公にせず、秘法として自らの内におさめておくことが、為政者の求めるところでもあった。
 このような変化を嫌う状況では、「発明の公開」を条件に「独占権」を与えようという特許の思想は育ちようもない。
 たしかに、江戸時代も半ばを過ぎると、幕府の出した「新規御法度」とは逆に、各藩は、競って新技術・新産業・新商品を求めるようになっていったことは事実である。しかし、欧米が鉄とか蒸気機関、電信機といったすすんだ発明と特許の関係を論じているとき、日本では塗物、紙、ロウソク、醤油、お茶、鋳物、木綿など日常生活の中の小物の改良、改善に関する工夫や技法を問題にしてい∵た。もちろん築城といった巨大技術もあったが、それは例外中の例外といえる。
 嘉()永六年(一八五三年)のペリーの来航によって、日本は急速に開国に向かい、西欧の文物を大々的に導入することになった。こうした流れの中で特許制度も、福沢諭吉の「西洋事情」(一八六六―七〇年にかけて出版)によって、日本にはじめて紹介された。

(守誠『特許の文明史』より抜粋()、調整)