長文集  11月4週  ○「則天去私」というのは  nngu-11-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/09/04 15:08:11
 「則天去私」というのは晩年の漱石が作っ
た言葉です。天に則って私を去る、「私」な
んてない、というのは「西洋近代的自我」す
なわち「私は私であり、その個性は意識にの
みある」という考え方に対する、日本人とし
ての反発だったのではないでしょうか。
 戸籍制度や漱石の思想から見れば、こうし
た近代化というのは明治時代に始まったと考
えられます。しかし、日本の場合、こうした
思い込みがここまで確立されたのは戦後でし
ょう。戦後は、それまでの日本的な考え方を
「封建的」の一言で片付けてしまった。
 今では葬式といえば火葬があたりまえです
が、高度成長期の前までは土葬も別に非常識
な手法ではなかった。これがあっという間 
に、より死体を遠ざける方向に向かっていっ
た。出来るだけ「死」を日常生活から離して
いった。考えないようになった。
 ほぼ同じ時期にトイレでも同じようなこと
が起きた。つまり水洗便所の普及です。あれ
は人間が自然のものとして出すものをなるべ
く見えないように、感じないようにしたもの
です。(中略)
 同様に戦後消えていったものはたくさんあ
ります。お母さんが電車の中でお乳を子供に
与える姿も見なくなって久しいように思いま
す。
 肉体労働者がフンドシ一丁で働かなくなっ
たのはもっと前からのような気がします。(
中略)
 このへんのことには皆、共通の感覚がある
のがおわかりでしょうか。身体に関すること
が、どんどん消されていったのです。
 これは都市化とともに起こってきたことで
す。それも暗黙のうちに起こることです。世
界中どこでも都市化すると法律で決めたわけ
でも何でもありません。それでもほぼ似たよ
うな状態になります。これは意識が同じ方向
性もしくは傾向をもっているからです。
 都市であるにもかかわらず、異質な存在だ
ったのが古代ギリシャです。ギリシャ人はア
テネというあれだけの都市社会を作っておき
ながら、裸の場所を残していたのですから。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
彼らにとっては裸が非常に身近だった。
 誰もが知っているのがオリンピックです。
これはもともとは全裸で行っていた大会です
。マラソンだって何だって全裸です。マンガ
∵や絵本のようにイチジクの葉なんか付けて
いません。
 スポーツに限らず、教育機関、当時のギム
ナジウム(青少年のための訓練所)でも皆(
みな)裸でした。
 もともとギムナジウムという言葉は「裸」
を意味していたので す。おそらく裸である
ことの根拠は今で言う「裸の付き合い」とい
うのに非常に近かったのではないか。
 アテネ型の民主主義の前提は、市民全員が
平等だということで す。これは誰でも裸の
付き合いが出来る、ということでしょう。着
ている物や何かで判断を受けない。若い人た
ちはギムナジウムでは平等だった。民主主義
の原点は「裸の付き合い」にあった、という
のは興味深いことです。
 ギリシャとは異なり、ローマ帝国にはこう
した「裸の文化」はなかった。もちろん共同
浴場とかそういう場所では裸になっていまし
た。しかし、別にそれは社会の制度と結びつ
いていたわけではありません。
 ルネッサンス時代の彫刻は、ギリシャ時代
の裸のモデルの彫刻を写したものですが、別
にルネッサンス時代の人々が裸だったわけで
はない。レオナルド・ダ・ヴィンチは裸で暮
らしていたわけではありません。彼らの彫刻
の題材が裸であっても、それは着物を着た連
中が裸を創っているわけです。よく一緒にさ
れてしまいがちです が、ギリシャ彫刻のよ
うに、もともと裸で過ごしていた人たちが裸
の彫刻を創るのとでは、意味がまったく違う
のです。
 もちろん、今ではなぜ古代ギリシャ人たち
が裸だったのか、文献で証明することは出来
ません。そんなことの理由をくわしく書いて
いる本はないのです。こういう共同体全体が
持っている無意識のルールというのは、往々
にして記録されません。
 ただし、彼らにとって今の私たちよりも身
体というものが身近だったのは間違いないし
、それが社会的に何らかの作用をしていたと
考えていいのではないでしょうか。

(養老孟司『死の壁』による)