グミ の山 11 月 4 週 (5)
○「則天去私」というのは   池新  
 「則天去私」というのは晩年の漱石が作った言葉です。天に則って私を去る、「私」なんてない、というのは「西洋近代的自我」すなわち「私は私であり、その個性は意識にのみある」という考え方に対する、日本人としての反発だったのではないでしょうか。
 戸籍制度や漱石の思想から見れば、こうした近代化というのは明治時代に始まったと考えられます。しかし、日本の場合、こうした思い込みがここまで確立されたのは戦後でしょう。戦後は、それまでの日本的な考え方を「封建的」の一言で片付けてしまった。
 今では葬式といえば火葬があたりまえですが、高度成長期の前までは土葬も別に非常識な手法ではなかった。これがあっという間に、より死体を遠ざける方向に向かっていった。出来るだけ「死」を日常生活から離していった。考えないようになった。
 ほぼ同じ時期にトイレでも同じようなことが起きた。つまり水洗便所の普及です。あれは人間が自然のものとして出すものをなるべく見えないように、感じないようにしたものです。(中略)
 同様に戦後消えていったものはたくさんあります。お母さんが電車の中でお乳を子供に与える姿も見なくなって久しいように思います。
 肉体労働者がフンドシ一丁で働かなくなったのはもっと前からのような気がします。(中略)
 このへんのことには皆、共通の感覚があるのがおわかりでしょうか。身体に関することが、どんどん消されていったのです。
 これは都市化とともに起こってきたことです。それも暗黙のうちに起こることです。世界中どこでも都市化すると法律で決めたわけでも何でもありません。それでもほぼ似たような状態になります。これは意識が同じ方向性もしくは傾向をもっているからです。
 都市であるにもかかわらず、異質な存在だったのが古代ギリシャです。ギリシャ人はアテネというあれだけの都市社会を作っておきながら、裸の場所を残していたのですから。彼らにとっては裸が非常に身近だった。
 誰もが知っているのがオリンピックです。これはもともとは全裸で行っていた大会です。マラソンだって何だって全裸です。マンガ∵や絵本のようにイチジクの葉なんか付けていません。
 スポーツに限らず、教育機関、当時のギムナジウム(青少年のための訓練所)でも皆(みな)裸でした。
 もともとギムナジウムという言葉は「裸」を意味していたのです。おそらく裸であることの根拠は今で言う「裸の付き合い」というのに非常に近かったのではないか。
 アテネ型の民主主義の前提は、市民全員が平等だということです。これは誰でも裸の付き合いが出来る、ということでしょう。着ている物や何かで判断を受けない。若い人たちはギムナジウムでは平等だった。民主主義の原点は「裸の付き合い」にあった、というのは興味深いことです。
 ギリシャとは異なり、ローマ帝国にはこうした「裸の文化」はなかった。もちろん共同浴場とかそういう場所では裸になっていました。しかし、別にそれは社会の制度と結びついていたわけではありません。
 ルネッサンス時代の彫刻は、ギリシャ時代の裸のモデルの彫刻を写したものですが、別にルネッサンス時代の人々が裸だったわけではない。レオナルド・ダ・ヴィンチは裸で暮らしていたわけではありません。彼らの彫刻の題材が裸であっても、それは着物を着た連中が裸を創っているわけです。よく一緒にされてしまいがちですが、ギリシャ彫刻のように、もともと裸で過ごしていた人たちが裸の彫刻を創るのとでは、意味がまったく違うのです。
 もちろん、今ではなぜ古代ギリシャ人たちが裸だったのか、文献で証明することは出来ません。そんなことの理由をくわしく書いている本はないのです。こういう共同体全体が持っている無意識のルールというのは、往々にして記録されません。
 ただし、彼らにとって今の私たちよりも身体というものが身近だったのは間違いないし、それが社会的に何らかの作用をしていたと考えていいのではないでしょうか。

(養老孟司『死の壁』による)