長文集  10月4週  ○理想的なものとは  nngu-10-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/09/04 14:55:57
 理想的なものとは現実を超えたもののこと
だ。現実にはない、現実とはどこかちがうと
ころにある、それが理想的なもののありよう
だ。古代ギリシャの哲学者プラトンは、そん
なありかたをする理想的なものを「イデア」
と名づけた。理想的な人間、理想的な馬、理
想的なオリーブ、理想的な家、理想的な都市
、理想的な政治……それらはこの現実世界の
うちには存在せず、どこか別の世界にある。
そして、現実の人間、馬、オリーブ、家、都
市、政治その他は、人間のイデア、馬のイデ
ア、オリーブのイデア、……を手本として、
それに似るように作られている。が、それら
が現実のものであるかぎり、イデアの完全さ
に達することはできない。それがプラトンの
イデア論の骨子で、芸術作品も、人間が作り
だした現実の存在である以上、イデア(理想
的なもの)ではなく、イデアの不完全な模造
品だ。
 理屈としては筋が通っているが、芸術作品
を前にしたときのわたしたちの感覚とは大き
くずれる考えかただ。観音菩薩のイデアが現
実世界とは別のどこかに――たとえば作者の
想像世界に――存在 し、それを手本として
作られた不完全な模造品が目の前の百済観音
だ、とはどうしても考えられない。制作にか
かる前に作者の頭のなかに像のイメージがあ
り、それが制作の導きとなった可能性は十分
にあるが、出来上がった作品を見ると、頭の
なかのイメージや、さらにそのむこうにある
とされるイデアのほうが、曖昧かつ不完全な
ものであって、それを明確な形に表現した現
実の作品は、形なき理想らしきものを形のあ
る理想へと高めたものと思えるのだ。だから
こそ、見るほうは気息を整えて、静かにゆっ
たりと作品に対峙したくもなるので、作品の
むこうにイデアをうかがうのは、芸術とつき
あう楽しみをわれから放棄する所業のように
思える。
 絵の場合、話はもっと分かりやすい。
 たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの「
モナ・リザ」の美しさは、モデルとなった女
性の美しさをはるかに超えるものではなかろ
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うか。絵のむこうにモデルとなった美しい女
性を想定し、そのむこうに美しい女性のイデ
ア(理想形)を想定することは可能だ。しか
し、「モナ・リザ」の絵(この際、細部まで
写しとられた大判のカラー写真を絵の代わり
と考えてもいいことにしよう)を見ていて、
美しいモデルや、モデルのむこうのイデア(
理想形)に思いが行く∵ようなら、それはも
う絵を見ていないのと同じことだ。イデアを
いうなら、目の前に描かれてある女性の絵姿
こそがイデアであり、それ以上のイデアなど
どこにもありはしない。それが傑作の傑作た
るゆえんだ。ダ・ヴィンチは絵の細部におい
ても全体においても、女性の理想形を――永
遠に女性的なるものを――追求しているとい
えるので、その理想形が縦77センチメート
ル、横53センチメートルのカンバス上に見
事に定着されているのは、やはり不思議なこ
とといわざるをえないのである。
 時代が下って、ポール・セザンヌが故郷の
山を描いた「サント・ヴィクトワール山」に
ついても同じことがいえる。同じ題名の絵が
何枚もあって、その一枚一枚が、山の理想的
な美しさの追求、あるいは、山とは何かとい
う問いへの解答、あるいは、山というものが
この世に存在するその存在の意味の解明、と
いったふうな試みだ が、表現された山は、
その一つ一つがこれこそが山だ、山とはこん
なふうにあるものだ、と感じさせる。その意
味で、そこに定着されてあるのは山の理想形
といっていいのである。
 理想形が、絵ならば絵具を塗りかさねた布
のカンバスとして、彫刻ならば大理石の塊や
ブロンズの塊や木の塊や粘土の塊として、音
楽ならばリズムとメロディーとハーモニーを
備えた音声として、目の前に、あるいは、耳
に聞こえるように、ある。くりかえしいえ 
ば、それが芸術作品の基本的なありかたであ
って、作品を楽しむ側からいえば、目に見え
、耳に聞こえる物との感覚的なつきあいを通
して、形や色や音の理想的なすがたを感受で
きるのが喜びの源だといえる。芸術作品に接
するとき、わたしたちは、現実を超えた理想
的なものが、いま、ここに、現実のものとし
てある、という矛盾を楽しんでいるのだ。

(長谷川宏『高校生のための哲学入門』によ
る)