グミ の山 10 月 2 週 (5)
★近代社会は前近代の(感)   池新  
 【1】近代社会は前近代の安定したピラミッド型の社会構造を破壊し、そこに流動状態をもちこんだわけだが、だからといって階層秩序そのもの、すなわちピラミッド型の枠組そのものまで放棄したわけではなかった。【2】そこには、さまざまなかたちで階層秩序的構造が残っているし、またそれがあるからこそ、それらの段階を上昇すること(立身出世、人間的完成、経済成長、福祉の整備、軍事的優勢、貧困の撲滅、平等な社会の実現など)が理念的に可能であると信じられてきたのである。【3】これらはひとつの理念を中心に構築された大きな物語(歴史やさまざまなイデオロギー)によって方向づけられていた。人々は多様な事実をこうした物語の秩序に従って配列し、また自分自身の生の意味づけも、この物語から受け取っていたのである。
 【4】だが、現在ではこうした物語は軒並みその信頼を失っている。つまり、そうした秩序はもはや人々が自分自身の生を投影する鏡としての機能を果たせなくなったのだ。【5】大宗教、イデオロギー、高級文化、公的な文化などは、すでに人々と世界を結びつける機能を失ってしまっている。そのことの原因としては、異なった文化を根こそぎに均質化し、効率のみがすべてを支配する情報化社会の出現が考えられるだろう。
 【6】問題はカルト的文化が、こうした文化的階層秩序の不在の上に成り立っていることである。つまり、そこでは各要素を構造づけていた価値秩序が崩壊し、各部分文化が断片的に自立したものとして据えられているのだ。【7】たとえば、漫画と文学、ロックとクラシックなどの間にかつては残っていた暗黙の上下関係はもはや存在しない。それらはただ単に同じ平面の上に漂っている、お互いに無関係の孤島にすぎないのだ。(中略)
 【8】もちろん従来からの階層的な価値秩序はまだまだ残っているし、現実にはそうした「建て前」によって社会は維持されているように見える。人々はいい大学をめざし、いい会社をめざし、まわりから祝福される結婚をめざし、出世をめざす。【9】だが、それらの理念までが残っているわけではないのだ。いい大学はけっして学問を修め、自己を成長させるためにめざされるわけではないし、会社はその理念によって選ばれるわけではない。それらは、ただ単に∵「得」だから、すなわち金銭的、社会的な利益をもたらすから守られているにすぎないのだ。【0】いわば、それら自身の価値はほとんど信じられておらず、ただ信じているかのように振る舞うことだけがこれらの制度を守っているのである。
 このような意味での価値からの疎外はいたるところで見いだすことができるだろう。たとえば、家族や土地との関係、歴史的連続性やコミュニティの喪失などのかたちでそれは表われている。
 物語への実質的な信頼を失い、さまざまな情報の過剰の中で、それらの情報を秩序づけることができなくなった人々は、均質で平凡な生き方に逃げ込もうとする。なぜなら、物語がもはや信頼できないとしたら、自己の位置を決定するものは他人との相互関係だけだからである。他人と均質であること、他人と話題や関心を共有することが存在に相対的な安定をもたらす。建て前はこうした演技にとって不可欠な虚構なのである。
 しかしながら一方で、こうした根拠を欠いた表層的な身振りは、それだけでは真の安定や自己の意味づけをもたらすことはない。なぜなら、言うまでもなく自己を意味づけるのは他人との差異でなくてはならないからだ。つまり完全に他人と同質では差異は生まれてこないからである。
 そこで人は、社会化された私とはちがう「本当の私」をもとうとするのだ。いわば「失われた内面」を求めて果てしのない「旅」が始まるのである。言いかえれば、「個性」という、同質性の土台の上に作られた相対的な異質性を防衛しようとするのだ。限定された価値領域に自分をつなぎとめようとするカルト化(あるいは専門領域主義化)はこのような反動として現われてくる。つまり、それは同質性を損なわぬかぎりでの異質性として現われてくるのである。異質な価値の乱立が戦争状態をもたらさないのはそういうわけなのだ。だれも本当は全体への従属関係を失いたくないのである。

 室井尚()「メディアの戦争機械」より