長文 7.1週
1. 【1】食べる。
寝る。愛する。
排泄する。そのつど、ただこの身体から
湧きだし、自らを
駆り立てる生命の営みを、わざわざ欲望と名付け、「私」という主語を
与えているのは人間だけである。しかも、所有や支配の欲望になると、とたんに話は複雑になる。
2. 【2】持ち家がほしい。名声がほしい。力がほしい。そういう「私」は、はたしてどこまで「私」であるか。たとえば
寸暇を
惜しんで株に熱中する「私」を、「私」はどこまで「私」だと知っているか。【3】人間の欲望について考えるとき、まずはそう問わなければならないような世界に私たちは生きている。
3. たとえばある欲望をもったとき、私たちはそれをかなえようとする。【4】その段階で、私たちはなにがしかの手段に
訴えねばならず、そのために対外的な意味や目的への、欲望の
読み替えが行われる。健康のため。家族のため。生活の必要のため、などなど。【5】こうした
読み替えは、すなわち欲望の外部化であり、欲望は、この高度な消費社会では「私」から
離れて、つくられるものになってゆく。
4. 【6】そこでは名声や幸福といった
抽象的な欲望さえ、目と耳に
訴える情報に外部化され、
置換されるのが
普遍的な光景である。たとえば、家がほしい「私」は、ぴかぴかの空間や家族の笑顔の映像に
置換された新築マンションの広告に見入る。【7】そこにいるのはうつくしい映像情報に見入る「私」であり、家族の笑顔を脳に定着させる「私」であって、たんに家がほしい
漠とした「私」はずっと後ろに退いている。【8】代わりに、家族の笑顔を見たい「私」が前面に現れ、それは映像のなかの新築マンションと結びついて、欲望は具体的なかたちになるわけである。
5. けれども、こうしてかたちになった欲望は、ほんとうに「私」の欲望か。【9】「私」はたしかに家がほしかったのだけれども、その欲望は正しくこういうかたちをしていたのか。仮に、たしかに家族の笑顔を見たいがために家がほしかったのだとしても、家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは「私」ではない、広告である。
6. 【0】このように、消費者と名付けられたときから「私」は
誰かがつくりだした欲望のサイクルに
取り込まれている。そこでは「私」は∵
覆い隠され、ただ大量の情報に目と耳を
奪われて思考を停止した、「私」ではない何者かが
闊歩している。
7. こうして、欲望から「私」が消え、おおよそ政治の権力
闘争から
一般の消費生活まで、欲望のための欲望と化して、現代社会はある。欲望は「私」の外部で回転し、「私」を
駆り立てる。そこに明確な主体はおらず、従って欲望を止めるものはいない。個々の欲望の当否は、ほとんど損得に
置き換えられ、損得もまた外部化されて新たな欲望になるだけである。
8. ところで有限の世界では、欲望のサイクルも有限になるはずだが、実際にはあたかも無限であるかのように回転し続け、そこここで、さまざまな悲喜劇を引き起こす。欲望は必ずしもかなえられないばかりか、ときには実質的な損害になって返ってくる。そのとき、これがサイクルであるがために悪者はすっきり定まらず、定まらないがために悪者探しは逆に
苛烈になる。
9. 「私」の欲望であれば、失意も損失も「私」が引き受けることで収まりがつくが、「私」の消えた現代の欲望は、始まりも終わりもない。
破綻したら
破綻したで、ともかく悪者を探して社会的な
辻褄を合わせるだけである。一方、消費者という名の「私」はどこまでも
無垢に留まるのだが、「私」が
無垢でないことは、「私」が知っている。
10.(高村
薫「新・欲望論」二による)
長文 7.2週
1. 【1】現代の日本で、
翻訳者の社会的な地位が低い理由のひとつは「独創性」が重視されていることにある。独創性がある仕事は価値が高く、独創性がない仕事は価値が低いとされている。【2】
翻訳は、実態はともかく、世間の認識では独創性がない仕事だとされている。物書きの世界で、一流の
翻訳よりも三流の
執筆の方が尊敬されるのも、このためだ。
2. 【3】考えてみれば、これは不思議な話だ。
翻訳はたとえば、演奏に似ているともいえるし、演劇に似ているともいえる。音楽なら、作曲家が
五線譜に書いた「原作」を、演奏家や歌手が音に「
翻訳」して
聴衆に届ける。【4】演劇なら、
脚本家が
脚本として書いた「原作」を、役者が演技の形で「
翻訳」して観客に届ける。原著者が外国語で書いた「原作」を、日本語に「
翻訳」して読者に届ける
翻訳と、どこが
違うのかと思いたくなる。【5】流行歌の世界なら、
誰がうたったのかは
誰も知っている曲でも、
誰が作曲したのかは知られていないことが少なくない。
脚本家はどちらかといえば裏方で、俳優の方が
脚光を浴びる。【6】これに対して
翻訳では、原著者には独創性があるが、
翻訳者には独創性がないとされる。
3. もちろん、
翻訳とは
解釈であり、
解釈である以上、おなじ原作を十人が訳せば十通りの訳ができる。【7】だから、演奏家や歌手が独創的でありうるように、
翻訳者は独創的でありうる。この点には、
翻訳者の立場からは疑問の余地はない。しかし、独創性を
崇める風潮は一種の病気のようなものだ。【8】
翻訳を職業とする者がこの風潮に
ひれ伏す理由はない。また、独創性を競ったところで、原著と
比較されれば
翻訳にはどうみても勝ち目はない。
翻訳にも独創的な面がないわけではないことを認めさせても、意味があるとは思えない。
4. 【9】独創性がもてはやされる世の中で軽視されがちな
翻訳を職業とする者は、独創性とは何なのか、じっくりと考えておかなければならない。
一般には、独創性とは、「他人の真似をするのではなく、∵自分ひとりの考えで何かを作りだす能力」だとされている。ほんとうにそうなのだろうか。
5. 【0】少し考えてみればわかることだが、他人を
模倣するのではなく、自分ひとりで他人とは
違う考えを編み出せたと思ったとき、それがほんとうに独創的であるケースはめったにない。他人の真似をするつもりはなくても、他人がすでに考えてきたのと同じ考えにたどりついただけになるのが通常であり、この場合は、独創的だとはいえない。無知だっただけだ。これまでだれも考えていなかったことだとしても、あまりに
幼稚な考えだからかもしれないし、あまりに
突拍子もない誤りだからかもしれないし、あまりに現実を無視しているからかもしれない。他人とは
違う考えだとしても、それがほんとうの意味で独創的である場合はきわめて少ないはずだ。
6. では、どういう条件があれば独創性があるといえるのだろうか。おそらくは、人類が
蓄積してきたものを十分に吸収したうえで、新しい考え方を生み出すことが、ひとつの条件だろう。つまり、独創性とは学習と
継承を前提としたものであり、学習と
継承がなければ独創性はないといえるのではないだろうか。(中略)
7. 歴史上に残る発見や発明をみていくと、ほぼおなじ時期にそれぞれ独自に、おなじことを考えた人が他にもいたケースがきわめて多い。何人かがほぼ同時におなじことを発見・発明し、そのなかでとくに厚かましかった人の名前だけが歴史に残っているケースすら少なくないのだ。発見や発明が
継承を
基礎にしたものだと考えれば、なぜこのようなケースが多いのかも、すぐに理解できる。独創性だけをもてはやすのがいかに危ういかも、理解できるはずである。学習と
継承がなければ、独創性も生まれない。
8. こう考えたとき、独創性に対する
翻訳者の立場ははっきりする。
翻訳という仕事にも独創性があると主張する必要はないし、独創性を
誇る人たちに引け目を感じる必要もない。
翻訳とはあらゆる独創性の
基礎になり、それどころか、社会や文化や技術や経済など、人間のあらゆる活動の
基礎になる学習と
継承を担っているのである。
9.(
山岡洋一『
翻訳とは何か』)
長文 7.3週
1. 【1】科学は自然の対象を観測し、そこに存在する構造や機能の法則性を明らかにする。ある対象領域に成り立つ法則を発見した、法則を確立したというのは、どのようにして保証するのだろうか。
2. 【2】ボールを投げると放物線をえがき、ある一定の
距離に落ちる。ある物質と物質を混ぜてある一定の温度に保つと、反応してある物質ができる。【3】こういった多くの実験から、そこにある種の規則性を認識し、そこから法則を確立していくわけであるが、その法則は実験によって確かめるというプロセスを絶対的に必要とする。しかも、
誰がやっても同じ結果が得られるということでなければならない。
3. 【4】このように、科学は、自然のなかに存在する対象を
分析し、そこから法則を
抽出し、対象を
分析的に理解するというところに中心があった。【5】こうして法則が確立されると、つぎの段階として、これらの法則の新しい組み合わせを試みることによって、それまで世界に存在しなかった新しいものをつくりだせる可能性があることに人々は気づいたわけである。
4. 【6】法則を組み合わせて、実験をしてみて、もとの対象が復元できることを確かめるところまでは、科学の領域であろうが、法則をいろいろと新しく組み合わせて何か新しいものをつくっていくというつぎのステップは、シンセシス、あるいは合成・創造の立場であり、それが現代における技術であるということができる。【7】つまり、現代技術は科学の法則を意識的にあらゆる組み合わせで使ってみて、何か新しいものをつくりだしていこうとする明確な意図をもったものとなっていて、これが従来の技術とは明確に異なっているところである。
5. 【8】このように
分析と合成とは対
概念となり、したがって、科学と技術も対
概念であり、コインの裏表の関係であると理解される。そこで、これら全体は科学技術という一つの
概念、一つの言葉としてとらえることができるだろう。
6. 【9】科学と技術とはまったく異なる
概念で、科学技術という表現は適当でないという考え方をする人もいる。しかし、現代科学は高度の技術なしにはありえず、その技術も科学によって支えられている。【0】今日では、科学者自身がシンセシスの領域に本格的にのりだしてくる一方で、技術者のほうも、技術を
押しすすめるために本格的な科学的
基礎研究をおこなっている。∵
7. こうして、科学と技術の境界は判然としなくなってきているうえに、何か新しい発見があると、これがただちに技術の世界に使われて新しい発明につながり、これがまた
基礎研究にフィードバックされるという、ひじょうに速いサイクルをえがく時代になっている。そういった
状況からも、これら全体を科学技術と呼ぶのが適当であるというわけである。
8. 二〇世紀の技術は、それ以前の技術とはまったく異なるものである。昔の技術は、アート(art)という言葉がしめすように、その道の専門家の直感と努力によって
磨きぬかれた技芸であり、芸術にせまる何ものかであったわけで、科学とは何の関係もないものであった。ところが、二〇世紀における技術は、科学によって確立された対象についての法則を、意図的、体系的、
網羅的に組み合わせて用い、新しいものを手当たりしだいにつくりだすというものである。これが現代技術のもつきわだった特色である。
9. そこで一つの大きな問題が
浮かび上がってくる。これまでの科学は神が創造した地球と自然、そしてそこに存在する物を観察し、理解するということをおこなってきた。そのかぎりにおいて、科学は
謙虚であり、科学は価値中立であるとされてきた。しかし、神のみがもっていたものごとを創造する秘密を、今日私たち人間が手に入れ、あらゆる法則を無原則的に組み合わせて、できることは何でもおこない、どんどんと新しい物を勝手につくりだしつつあるわけである。そして、それらはけっして地球と自然、生物や人間にとってよいものばかりではない。一見よいものと見えても、長期にわたってながめてみれば、深刻な問題をもたらすものもたくさんつくりだしているのである。
10. したがって、今日の科学技術においては、価値中立ということはありえず、私たちがつくりだすものについては、はっきりした責任を負うべきであろう。二一世紀にはあらゆる科学技術の分野において、
分析の時代が終わって、創造の時代に入っていくことは明らかであるから、科学技術に対する人類の責任は重大である。
11.(
長尾真『「わかる」とは何か』による)
長文 7.4週
1. 【1】「新しさ」がマイナス価値であった時代があった。新しさは
奇を
衒うもの、良き古き伝統を
破壊するものだとして
忌避されたのである。思想の面で新しいアイディアを提出するものは非難と告発を
免れがたかった。【2】新しい思想家はどこでもいつでも、
弾圧されたし、
排除されたりしたものである。政治の場面でも、現存
秩序を批判し、のりこえようとする運動は、いつでも新しい運動であったが、これも
破壊的なものとして可能なかぎり
抑圧される。
2. 【3】いつの時代でも、どんな社会においても、古さの方が価値的にプラスであって、新しさはつねにマイナス価値であった。新しいものは、古いものとの対決の中ではじめてエネルギッシュになり、前進のための生産力を
獲得する。【4】したがって、物質的な力とも言うべき
飛躍力と
魅惑的力をもつ新しさの基本型は、現存
秩序の体系または古い価値体系から
脱出する批判的運動であるというべきであろう。
3.(中略)
4. 【5】
圧倒的な力をもつモード的・記号的新しさによって
隠されているが、決して
消滅しそうもない批判的新しさもある。それはいろいろの形をとって現れるが、何よりも感情的・
情緒的なものが基本であろう。【6】エルンスト・ブロッホが書きとめてくれた「小さな白昼夢」などはその典型である。小さな子どもの小さな夢は、
憧憬とよぶべきもので、それはおとぎ話の形をとって未来へとはばたく。はかなさとこわれやすさを
特徴とする白昼夢は、現在の世界からの前方への
脱出願望である。【7】そこには、世界についての感情が世界を批判している。このままではいけない、別の良き世界があるのだと、理性的でなく
情緒的に判断している。
情緒・感情は批判力をもちうる。
5. 【8】感情や
情緒は
行為である。それは世界の中にあって世界を作り変える。まだないものを先取りし、この先取りによってすでに世界の外に出る。外に出ることで今の生活世界を批判する。【9】いっさいのユートピアは、基本的にはこの感情の
行為的批判を出発点とし∵ている。
6. 前に、過去に
埋もれた新しさがあると述べた。多くの可能性をもちながら、開花と現実化の条件を
与えられないままに、歴史のほこりの
堆積の下に
埋もれた新しきものがある。【0】私たちは、願望夢のように前に眼を向けるばかりでなく、しばしばそれ以上に過去に眼を向ける。なぜ過去に眼を向けるのか。あるいは
プロスペクティヴとレトロスペクティブとは
互いに無縁なのであろうか。過去へふり向けられるレトロの眼は、単なる
懐古趣味であってはならない。現在を永遠化し、その立場から過去をふりかえる眼は、保守的な
レトロスペクティヴである。現在に安住し、過去を高見から
眺めるのは、過去をダシにして現在を栄光化する態度だ。こういうレトロの眼はモードの眼である。記号は新しさの
発掘源としてのみ過去を見る眼である。
7. そうではなくて、過去の中に開花を待ちつつひそむ問題を探求することこそ、新しさの探求である。かつてワルター・ベンヤミンは、目ざめを待つ新しきものについて語った。可能的新しさを目ざめさせる眼こそ、真の
レトロスペクティヴであり、それが同時に
プロスペクティヴになる。
レトロスペクティヴと
プロスペクティヴとの有機的な連関を自覚的に行うことは、歴史学や歴史
哲学の仕事である。これは、もはや現在の固定化でも栄光化でもなくて、現在を前へと
超えていく作業である。過去の中で目ざめを待つ新しさは、未来において
甦る新しさである。どれほど過去を調べてもこの新しさがなくなることはない。過去には
無尽蔵の新しさがある。
8. 時間的
最先端が新しいというのは、近代歴史意識の
虚妄であろう。時間と歴史に病的なまでに
固執する現代の歴史感覚をひっくり返さなくてはならない。最も古い層のなかに目ざめを待つ根源的新しさがあるという逆説的立場――これがベンヤミンの独創性である――は、近代という大いなる時代の本質を
突く。新しさの考察は、こうして、近代性への根本的反省へと通じていくであろう。
9.(今村仁司『精神の政治学』による)
長文 8.1週
1. 【1】
誰でも情報には「量」というものがあると
漠然と信じている。コンピュータが安価になり、身近な存在になるにつれて、「ビット」という工学的な情報量の単位も日常用語として使われるようになってきた。【2】四八ビット・パソコンは三二ビット・パソコンよりたくさんの情報を一度に
扱えるはずだろう。
2. こういう「情報量」は、技術的話題に登場するだけではない。われわれはよく「この本はぶ厚いわりには情報量が少ない」と文句を言ったりする。【3】言うまでもなくこれは、ぺージ数(文字数)という「見かけの「情報量」」が
一般に読み手にとっての「情報量」とは異なるという事実を語っている。
3. 【4】さて、右のありふれた言葉は、「情報量」という
概念の危うさの証左でもある。この言葉は、ひとまず二通りに
解釈できる。「内容が知っていることばかりだ」と「興味が
湧かない」の二つである。「知らないことを教えてくれるのが情報だ」という立場に立てば、第一の
解釈が
妥当だろう。【5】これは情報を「客観的」にとらえようと努める立場である。
4. だが、内容に知らないことが多く理解し難いとき、読み手にとって果たしてその本の「情報量」は多いのだろうか?──内容が理解できなくて「(主観的な)興味」が
湧かなければ、「情報量」はやはり少ないのではないだろうか。
5. 【6】そもそも、「内容を知っている」とはどういうことか? ──「フランス革命は一七八九年に起こった」といった命題なら「知っている」と言えるだろうが、「二一世紀に日本社会のモラルは
堕落する」などのあいまいな命題なら、興味の有無を答える方がましだろう。【7】むしろ、知っていることばかりなら興味も
湧かないはずだという立場に立てば、「情報量が少ない」とは、すなわち「興味がない」「
魅力がない」ことだと断じる方が直観に
一致している。
6. 【8】だからこそ、情報とは「いざなうもの」でなくてはならない。生物であるわれわれの興味を
惹く魅力的な対象が、はじめて情報として「意味」をもつのだ。
7. 【9】このように、情報を「意味=価値」があり、「いざなうもの」とみなすことは、心の側から情報をとらえることである。
言い換えると、情報の「伝達」よりむしろ「生成」の側面に目を向∵けるわけである。【0】
環境世界のなかで、心がいったい何を「情報」として選びとるか、が問題となるからだ。
環境世界からは、光、音など無限に多様な外部信号が降り注ぐ。はっきりさせなくてはならないのは、その中から心が何を選びとり、いかにして「情報」として構成していくか、という点なのである。
8. もちろんこれは、
哲学的な認識論や存在論にかかわる難問であって、とうていここで論じ
尽くせるテーマではない。だが、一九七〇年代にあらわれた生物物理学者清水博の情報理論は、この難問に一筋の光を投げかけるように思える。そのポイントは、生物をみずから
秩序をつくっていく「自己組織系」とみなし、系の
秩序生成のダイナミズムのなかに「情報」の発現を位置づけたことにある。清水によれば、生命システムとは、「システム(自分)の存在にとって意味のある情報を、内部知識と内部法則にもとづいて自分自身でつくりだしていく」ものなのだ。
9. 右のような「意味」の自律的生成を、文章による説明に終わらず数学的なモデルで
詳しく記述したところに、清水とそのグループによる科学者としての
先駆的業績がある。「情報」をその意味内容に立ち入ってとらえる科学研究はすでに始まっているのだ。
10. 生物がいかなる「情報」をつくるかはいわば生物の「価値観」にひとしい。ゆえに情報を「いざなうもの」「興味のあるもの」「価値のあるもの」とみなすことは、決して単なる文学的な
比喩表現ではないのである。二一世紀の知性は、情報生成のダイナミズムをさぐる新しい情報科学のうちに最大の課題のひとつを見いだしていくだろう。
11.(
西垣通『聖なる
ヴァーチャル・リアリティ』による)
長文 8.2週
1. 【1】自己表現の意欲は、言葉あるいは文字として表してみて、初めて具体性を帯びる。自発的にものを考えるようになって、人は初めて自分の言葉を発する。言葉に対して自覚的になると言ってもよいでしょう。【2】言葉なくして、考え、迷い、一念を生じ、
邂逅することはあり得ないのです。
2. ところが、このとき
間髪を入れず、言葉の不自由、その障害に
突き当たるという事実を
見逃すわけにはゆきませぬ。【3】例えば我々が平生使っている思想や文学上の用語、精神とか知性とか主体性とか実存とか、なんでもいい、その一つ一つを取り上げて、これを厳密に検討してごらんなさい。一つとして
曖昧ならざるものはない。【4】各人によってさまざまの
解釈や定義やニュアンスを生じ、それをまた一つ一つ
解釈し定義して行かねばならぬといったような、
途方もない迷路に
入り込んでしまいます。
3. 【5】言葉というものは、おそろしく不完全なものだと
悟ります。実に
曖昧です。そういう言葉をさまざまに組み合わせつつ、かろうじて自分が言いたいと思っている思想的イメージに近づいてゆく。【6】それは
依然として不完全ではあるが、この不完全の自覚が、我々の考える力を
更に押し進める原動力ともなるのです。精神の問題は、
幾何学の公理のように割り切れない。【7】しかし、
幾何学の公理のように、その一つ一つの正確さを目ざすことは大切で、この無限の正確さへの意志が、言葉を
開拓して行くともいえましょう。言葉を使用するとは、
開拓して行くことと同義なのです。そこに精神としての「自己」が存在するわけです。【8】言葉の不自由な性質そのものが、言葉の生命だといっていいかもしれませぬ。
4. 言葉のかような性質が、逆に我々をして、考えさせ、迷わせ、一念を生ぜしめ、
邂逅を
促すといってもいい。【9】言葉に
翻弄される自己を見いだすでありましょう。
翻弄に
翻弄を重ねて、さて、その極限に見いだすものは何か。我々は、初めて「
沈黙」の意義を知るのです。例えば非常にうれしいとき、悲しいとき、感動したり、さまざまに思い
惑うとき、どんな現象が起こるか。言葉を失っている自∵己を見いだすでありましょう。【0】心の中であれこれと思い
巡らしてみるが、さて表現となると、どう言っていいかわからぬ。たちまち言葉につまって、
沈黙せざるを得なくなる。
恋愛がその
端的な例です。
恋する男女は、
恋することによって言葉を失うものです。
5. かかる時機を、重視しなければなりませぬ。なぜなら、言葉を失うことは、心の
充実を意味するからであります。言うに言われぬ思い、そこに人間の真実がある。しかし、あえて表現しなければならぬ。その苦しさにおいて、我々は言葉の障害と
格闘し、
開拓し、
換言すれば精神は自己を形成しようとしてもがくわけで、言葉の困難の自覚が、そのまま人間生成の
陣痛ともなるわけです。
6. こう考えるなら、自分の言葉を持つということが、いかに至難か明白でありましょう。我々はつい有り合わせの言葉を用います。世間
一般が用いたり、その時々の流行語となっている言葉を、無批判に使用します。どんな結果が生ずるか、申すまでもありますまい。精神はここに感化されることによって死に
瀕するのであります。
7. 自分の言葉を持つということは自分が生まれるということです。「はじめに言葉ありき。」という一句が聖書にありますが、私はここでいちおう聖書から
離れて、人間生成の一条件として考えてみます。初めて発した自己コユウの言葉は、その人の生命のあけぼのであるということを。「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなわち新しき
生涯なり。」──これは若き
島崎藤村が、その最初の詩集に記した序文の一節です。自分の言葉を持つこと、すなわち自分の
生涯の始まりなのであります。
8. そうあるためには、私がさきに述べた「
沈黙」を重視し、これに
耐えねばなりませぬ。この
沈黙とは、正確さへの意志と言ってもよい。
沈黙は意志の強さの尺度であります。多くの
沈黙に
耐えた人の言葉ほど美しい。言葉の芸術である文学は、根本においてこれを目ざすものなのであります。多くの言葉を重ねながら、結局言うに言われぬ思いという
沈黙を創造し、ここに
恨みを宿すものなのであります。
9.──
亀井勝一郎「人間生成」──
長文 8.3週
1. 【1】
インフォームド・コンセントなる言葉がある。商品
販売者が、無知なる
顧客に対して、自己決定するのに必要な情報知識を
噛み砕いて説明した上で、同意を取り付ける義務を負うということである。【2】そして、
医療において提供されるべき情報知識は、
診断の内容、複数の
治療方針の利点と危険性、
治療しない場合の
症状の予想などであると語られている。正当な考え方だ。しかし専門家が、本当に情報知識を持っているのかと疑ってみる必要がある。
2. 【3】知人が医者に余命三
ヵ月かもしれないと告げられたことがある。正確には、簡単な所見から推すと、最悪の場合、末期
症状の可能性があり、
詳細な検査の結果として、予期される末期
症状であると判明すれば、余命は三
ヵ月程度である可能性があると告げられたことがある。【4】
誤診であった。正確には、当初の所見は可能性の
指摘としては論理的には正しかったが、当初の予期は確率以上の悲観性を
滲ませた点において道徳的に誤りだった。
3. 【5】ここで
指摘したいのは、これは情報知識の提供などという、代物ではないということである。たんなる
占いである。この場合、最低限提供すべき情報はこうなるだろう。所見の
根拠、推測の
根拠、確率計算の
根拠、予後の推定の
根拠である。これを示すために提供すべき情報はこうなるだろう。【6】過去に実際に
治療した
症例の
解析、過去の
症例と現在の
症例の
相違と類似性の評価の
根拠、当の
症例について報告する諸
文献の内容の
分析、
症例分析や
症例分類の
根拠と生存期間計算の
根拠などである。【7】ところが医者にこんな知識はない。なぜなら、
誰も持っていないからである。すると、どうなるのか。
4. 余命告知やリスク予知について、道徳的に論じたいのではない。
占いは、人生の指針として役立つことはあるからだ。【8】人間がなってないとは思うものの、医者を非難したいわけでもない。長くは持たないと経験的に分かることはあるからだ。
占いをめぐる問題は、∵各人の世間知を活用すれば済むことである。【9】病気の悲しみを
癒して死の
恐怖に
耐えるには、経験知で
充分足りる。ところが、悲しみを利用する連中は、
無駄な論議を交わし、無用の研究を積み重ねる。しかも余命を生きる力の不可思議に何の関心も
払わないのだ。
5. 【0】安楽死や尊厳死をめぐって人びとはこう信じているかのようだ。安楽に生きるより安楽に死ぬほうが大切だ。尊厳をもって生きるより、尊厳をもって死ぬほうが大切だ。最期だけは美しく死にたい。
誰にも
迷惑をかけずに、
後顧の
憂いなく死にたい。別の人びとはこう考えている。死の教育が大切だ。死ぬまで勉強だ。最期を看取るのも勉強だ。さらに別の人びとはこう考えている。制度設計が必要だ。素敵な死に場所を建築しよう。予算と人員が必要だ。子供も死に
触れて死を学ぶべきだ。子供にもメメント・モリ(死を想え)というわけだ。人びとは、「末期状態の
患者」や「植物状態の
患者」について第三者的にあれこれ想像しては、死を正面から
見詰めようと
喋り合っている。
6. 死ぬのは悲しい。苦しまずに死にたいと願うのは当然だ。最期だけは高貴でありたいと願うのもたぶん当然だ。
誰でも対処してきたことだし、時が来れば
誰でも対処することだ。議論や教育や勉強や制度の問題ではない。ところが死の悲しみを利用して
稼ぐ連中は、死ぬまで生きる力、生きて死なせる力に安楽と尊厳を感じることはない。「
誰も生きてはいない。
誰もが見せかけの生を送っている。死ぬことを
避けることしか考えていない。しかも人生全体が死の礼拝堂である」。そしてスピノザは書いていた。「自由な人間は何よりも死について考えることが少ない。自由な人間の
知恵とは、死の省察ではなく、生命の省察である」(『エチカ』)。
7.(小泉
義之『ドゥルーズの
哲学』)
長文 8.4週
1. 【1】「新しさ」がマイナス価値であった時代があった。新しさは
奇を
衒うもの、良き古き伝統を
破壊するものだとして
忌避されたのである。思想の面で新しいアイディアを提出するものは非難と告発を
免れがたかった。【2】新しい思想家はどこでもいつでも、
弾圧されたし、
排除されたりしたものである。政治の場面でも、現存
秩序を批判し、のりこえようとする運動は、いつでも新しい運動であったが、これも
破壊的なものとして可能なかぎり
抑圧される。
2. 【3】いつの時代でも、どんな社会においても、古さの方が価値的にプラスであって、新しさはつねにマイナス価値であった。新しいものは、古いものとの対決の中ではじめてエネルギッシュになり、前進のための生産力を
獲得する。【4】したがって、物質的な力とも言うべき
飛躍力と
魅惑的力をもつ新しさの基本型は、現存
秩序の体系または古い価値体系から
脱出する批判的運動であるというべきであろう。
3.(中略)
4. 【5】
圧倒的な力をもつモード的・記号的新しさによって
隠されているが、決して
消滅しそうもない批判的新しさもある。それはいろいろの形をとって現れるが、何よりも感情的・
情緒的なものが基本であろう。【6】エルンスト・ブロッホが書きとめてくれた「小さな白昼夢」などはその典型である。小さな子どもの小さな夢は、
憧憬とよぶべきもので、それはおとぎ話の形をとって未来へとはばたく。はかなさとこわれやすさを
特徴とする白昼夢は、現在の世界からの前方への
脱出願望である。【7】そこには、世界についての感情が世界を批判している。このままではいけない、別の良き世界があるのだと、理性的でなく
情緒的に判断している。
情緒・感情は批判力をもちうる。
5. 【8】感情や
情緒は
行為である。それは世界の中にあって世界を作り変える。まだないものを先取りし、この先取りによってすでに世界の外に出る。外に出ることで今の生活世界を批判する。【9】いっさいのユートピアは、基本的にはこの感情の
行為的批判を出発点とし∵ている。
6. 前に、過去に
埋もれた新しさがあると述べた。多くの可能性をもちながら、開花と現実化の条件を
与えられないままに、歴史のほこりの
堆積の下に
埋もれた新しきものがある。【0】私たちは、願望夢のように前に眼を向けるばかりでなく、しばしばそれ以上に過去に眼を向ける。なぜ過去に眼を向けるのか。あるいは
プロスペクティヴとレトロスペクティブとは
互いに無縁なのであろうか。過去へふり向けられるレトロの眼は、単なる
懐古趣味であってはならない。現在を永遠化し、その立場から過去をふりかえる眼は、保守的な
レトロスペクティヴである。現在に安住し、過去を高見から
眺めるのは、過去をダシにして現在を栄光化する態度だ。こういうレトロの眼はモードの眼である。記号は新しさの
発掘源としてのみ過去を見る眼である。
7. そうではなくて、過去の中に開花を待ちつつひそむ問題を探求することこそ、新しさの探求である。かつてワルター・ベンヤミンは、目ざめを待つ新しきものについて語った。可能的新しさを目ざめさせる眼こそ、真の
レトロスペクティヴであり、それが同時に
プロスペクティヴになる。
レトロスペクティヴと
プロスペクティヴとの有機的な連関を自覚的に行うことは、歴史学や歴史
哲学の仕事である。これは、もはや現在の固定化でも栄光化でもなくて、現在を前へと
超えていく作業である。過去の中で目ざめを待つ新しさは、未来において
甦る新しさである。どれほど過去を調べてもこの新しさがなくなることはない。過去には
無尽蔵の新しさがある。
8. 時間的
最先端が新しいというのは、近代歴史意識の
虚妄であろう。時間と歴史に病的なまでに
固執する現代の歴史感覚をひっくり返さなくてはならない。最も古い層のなかに目ざめを待つ根源的新しさがあるという逆説的立場――これがベンヤミンの独創性である――は、近代という大いなる時代の本質を
突く。新しさの考察は、こうして、近代性への根本的反省へと通じていくであろう。
9.(今村仁司『精神の政治学』による)
長文 9.1週
1. 【1】時間はしばしば流れとして語りだされる。未来から現在へ、現在から過去へと流れる水のように。しかしこれは正しくない。そのように時間を流れとして語りだしている者は、そういう時間の外で時間について語っているからだ。【2】不在の未来(まだない)もそのようなものとして語られるかぎりで現在のなかにあるし、おなじように不在の過去(もうない)もそのようなものとして語られるかぎりでたしかに現在のなかにある。つまりは現在と現在と現在。だから、そこに時間は流れない。むしろ流れは
隠されてしまう。
2. 【3】それは時間を時間の外から
眺めているからだ。もし時間が流れると言うのなら、そのように語る者自身が流れのなかにあることが数え入れられているのでなければならない。【4】流れている者が流れのなかで流れるままにそれを流れとしてとらえ、ひるがえっておのれをも流れるものとしてとらえる。そのような時間の意識のしくみが問いただされねばならない。【5】そのような意識にたいしてはじめて流れは流れとして見え、
旋律は
旋律として
聴こえてくる。言葉について語るということにも、おなじようなことが言える。考えるということについて考えるということとおなじく。
3. 【6】わたしたちは何ものかについて言葉で考え、語りだす。そして次に、その言葉が、事態を正しくとらえているかどうかを問う。あるいは、語られた事態がほんとうに存在する事態とおなじかどうかを問う。【7】その問いをシステマティックに
緻密にするのが「
哲学」である。
4. 「
哲学」においては、この問いは、観念(や命題)と実在との
一致・
不一致というかたちで語りだされる。いわゆる真理の対応説である。
5.【8】至極まっとうな問いのようにみえる。しかしそこで、何と何とが引き
較べられているのか。観念と実在との
一致というが、それはどのようにして確証できるのか。
6. 【9】観念と実在との
一致とは、つまり語りと語られた事態との
一致ということである。では、語りが対応づけられるその語られた事態は当の語りの外で、どのようにして問題とされうるのか。【0】
言及されることによって、つまり別のかたちで意識され、語りだされることによってである。けっきょく、対応ということで問われているのは、ある語りと別の語りとの対応ということだということになる。ある語りと別の語りとの整合性がそこでは問題となっているという∵ことになる。こうして観念と実在の関係は、命題と命題の関係に移される。対応説は整合説に移行させられるのだ。
7. が、問題は、そこで終わらない。観念と実在との関係を問う「
哲学」の場所はどこにあるのか、という問題がさらに別にある。語りと語りの関係を語る語りとは何か、という問題である。胃がよくはたらいているときは胃の存在は意識されず、むしろその機能が不全になってはじめてその存在が意識されるように、
哲学もまたそれが機能不全に
陥ったときにみずからの
媒体について思考をはじめる。
8. それが
端的に問題になるのは、わたしがわたし自身の存在に問いを向けるときである。わたしがわたしを語る。そのときに、わたしがわたしについてのそのわたしの語りについて語るというのはいったいどういうことなのか(これは「
哲学」では「自己意識」の問題である)。
9. わたしについてわたしが語るとき、その語りによってはじめのわたしは規定される(スピノザも書いていたように、規定するとは否定すること、限定することにほかならないから)。その限定されたわたしと限定しているわたしの関係についてさらに言葉をくわえることは、わたしとわたしとのその関係をさらに別なかたちで限定することである。時間を流れとしてとらえる意識が時間そのもののなかにあったように、わたしの自己意識の構造を問題とするわたし自身もそういう自己意識のなかにあるわけである。
10. ここではけっきょく、わたしがわたし自身を三重に限定していることになる。そういうメタにメタをくわえる事態についていまここで語っているわたしは、その三重の限定にさらにメタ次元から
介入していって、限定を重ねているわけだ。
11. あるものを限定するというのは、それを変形することである。デフォルマシオン、
歪めること。それはしかし、なにかある原型のデフォルマシオンではない。すでに確認したように、原型はなんらかのデフォルマシオンのなかでしか現れえないのであるから、時間においても「わたし」においてもそうだったが、みずからについて語るというのは、変形に変形をくわえることなのである。そして、その変形のやり方自体を、ときに論理的に、ときに
倫理的に問うのが「
哲学」というものである。
長文 9.2週
1. 【1】「私は何ものなのか?」という問いへの答えは、
二人称での語りかけと、
三人称での
描写と、
一人称での思いが、少しずつ重なり合ってくることによってしか、
与えられない。【2】したがって、「まだ呼びかけうるかも、なお応じうるかも……」という呼応の可能性なしには、答えの探しようもない。この呼応の可能性に支えられて、諸種の
描写が重なってくるにつれ、「どうやら私は……らしい」という果実もみのる。【3】もちろん、そうした果実の多くは、しばし
甘美だったとしても、「自己正当化ゆえのあまさにすぎなかったか……」という苦みをも残す。しかし、そうした苦みは、さらなる呼応への
敏感さを養ってくれる。
2. 【4】呼応、つまり呼びかければ応答があるということは、人の間かつ時の間の、一回的な出来事であり、したがって、一見ささいな出来事である。しかし、私もあなたも、そうした呼びかけ・応答をつうじて、はじめて、曲がりなりにも自分のかけがえのなさを確認しえている。【5】あなたも私も乳児と親の
間柄からはじまって、呼応の可能性をたよりにして、はじめて相手に向かって
振舞うことができ、そうした相手との間で、自分のかけがえのなさを、曲がりなりにも確認してきた。【6】にもかかわらず、このナケなしの呼応の可能性も、あまりにも当たり前であるがゆえに、あたかも空気のように、見過ごされうる。
3.【7】たとえば、こうである。いわく「呼びかけられうること、呼びかければ応じられうることは、なるほど幼児が自分を意識するようになる過程では必要かもしれない。【8】しかし、ひとたび自分を自覚するようになれば、他人との呼応の可能性などは、登ってしまえば無用になるハシゴのようなもので、べつになくなってもかまわない……」
云々。【9】とりわけ、どこへ行っても注目され、あるいは気をつかってくれる人に囲まれて、向こうから声をかけてもらえるような立場にある人は、えてして、こう考えやすい。
4. 【0】しかし、呼応の可能性の大切さを見切ってしまうのには、あまりにもありふれているという以外にも、べつの原因もある。私たちはそれぞれ自分の生活に
忙しい。だから、自分にとって必要でもないことにかんして、あるいは直接に関係ないと思える人から、呼びかけられても、いちいち応じてはいられない。私たちはそう考えて、自分が応じる呼びかけの
範囲と種類を、自分のほうから限って∵しまう。じじつ、そう限定しなければ一日何時間あっても足りない。そこまで私たちに向かって多種多様な呼びかけが発せられている。のみならず、私たちが呼びかけとして聞き分けていない声は、さらに多種多様である。したがって、自分が応じるいわれのある呼びかけの種類と
範囲を限定することは、自分の生活がある以上、やむをえない。
5. こうした自己保身ゆえに呼応の可能性を
切り詰めると、「この
眩きには応えなくてもいいだろう」と見切った他人の呼びかけを聞き流し、その切実な
訴えを見殺しにする。しかし、それだけではすまない。「もともと私は応える立場にはいないのだから……」と自分に言い聞かせて、聞き流したことを自己正当化することになる。そして、こうした自己正当化は、もっとも身近な他者の聞き取りにくい
眩きさえも、たんなる雑音として切り捨てることの正当化に連なる。
6. そのツケは、声の小さい者たちに回され、
彼・
彼女らにおいて、「何ひとつ応答などなかったではないか……」という苦い思いを生み、「他人との呼応の可能性など、当てに出来ない……」というシニシズムを生む。そして、このシニシズムとともに、もっとか細い声への
鈍感さが
蔓延し、その結果、人は自分に向けられている切実な呼びかけを自分が無視しているという事実すら気づかないようになる。そうなると、それだけいっそう、自分が何であるかについても、不安になる。こうして「私探し」がいたずらに加速される。
7. もちろん、ひとくちに「私探し」といっても、その実態も背景も多種多様であって、すべてが、呼応の可能性の
切り詰めに
還元できはしない。しかし、もしあなたが、「呼応の可能性など当てにできない……」という印象をよすがとして、「他者にたいして特定の人物であることなど、自分が自分であるためには二次的・三次的なことだ……」と思いはじめているのなら、もう一度、考え直していただきたい。
8.(大庭健の文章による)
長文 9.3週
1. 【1】世間では、いま、表現教育ということが盛んに
叫ばれている。子供たちに、どうにかして「豊かな表現力」「
誰とでも話せるコミュニケーション能力」を身につけさせようと、親も教師も
躍起になっている。【2】子供の方から見れば、表現を強要されているとさえ言える
状況だ。
2. だがどうも、教える側も、子供たちの方も、「表現」ということを無前提に考えすぎていないか?
3. 【3】いや、いったい、何をそんなに伝えたいというのか?
4. 私はここ数年、演劇のワークショップ(体験型の演劇教室)を、年間で百コマ以上、全国で
繰り返して
開催してきた。教育の門外漢に、このような
依頼が
殺到するのも、表現教育
隆盛の一つの現れであろうか。
5. 【4】ただ、私が、そういった場で子供たちに感じ取ってもらいたいことは、表現の技術よりも、「他者と出会うことの難しさ」だった。どうすればコミュニケーション能力が高まるかではなく、自分の言葉は他者に通じないという痛切な経験を、まず第一にしてもらいたいと考えてきた。
6. 【5】高校演劇の指導などで全国を回っているといつも感じるのは、生徒創作の作品のそのいずれもが、自分の主張が他者に「伝わる」ということを前提として書かれている点だ。
7. 【6】私は、創作を志す若い世代に、演劇を創るということは、ラブレターを書くようなものだと説明する。「
俺は、おまえのことがこんなに好きなのに、おまえはどうして
俺のことが分かってくれないんだ」という地点から、私たちの表現は出発する。【7】分かり合えるのなら、ラブレターなんて書く必要はないではないか。
8. 日本はもともと、流動性の低い社会のなかで「分かり合う文化」を形成してきた。【8】
誰もが知り合いで、同じような価値観を持っているのならば、
お互いが
お互いの気持を察知して、小さな共同体がうまくやっていくための言葉が発達するのは当然のことだ。それは日本文化の
特徴であり、それ自体は、
卑下すべきことではない。
9. 【9】明治以降の近代化の過程も、価値観を多様化するというよりは、大きな国家目標に従って価値観を一つにまとめる方向が重視され、教育も社会制度も、そのようにプログラミングされてきた。【0】均質化した社会は、短期間での近代化には好条件だ。日本は明治の∵近代化と、戦後復興という二つの
奇跡を
成し遂げた。
10. しかし、私たちはすでに大きな国家目標を失い、個人はそれぞれの価値観で生き方を決定しなければならない時代に
突入している。このような社会では、価値観を一つに統一することよりも、異なる価値観を、異なったままにしながら、その価値観を
摺り合わせ、いかにうまく共同体を運営していくかが重要な課題となってくる。
11. いま、あらゆる局面で、コミュニケーション能力が重視されるのは、ここに原因がある。「分かり合う文化」から、「説明し合う文化」への
転換を図ろうということだろう。
12. だが、ここに一つの落とし穴がある。
13. 表現とは、単なる技術のことではない。
闇雲にスピーチの練習を
繰り返しても、自己表現がうまくなるわけではない。
14. 自己と他者とが決定的に異なっている。人は一人ひとり、異なる価値観を持ち、異なる生活習慣を持ち、異なる言葉を話しているということを、痛みを
伴う形で
記憶している者だけが、本当の表現の領域に
踏み込めるのだ。多くの優れた芸術家は、自分の中にその断念、その絶望を持っている。ひとは幼少期、自分のことを決して受け入れてくれない他者の存在を発見する。その
哀しみを忘れない者だけが、芸術家という名に値する。(中略)
15. 私たちがこれから作っていく成熟社会の
緩やかな
絆は、
お互いが分かり合えないという絶望から出発する。この絶望の中にのみ希望はある。だとすれば、分かり合えないことを、その存在の
根拠とする芸術の役割は小さくないだろう。学校や家庭や社会の中で、子供たちに、その発達過程に合わせて、「伝わらない」という切実な体験をさせる、そんな芸術教育のプログラムが、いま必要とされているのではないか。
16.(「新世紀の思考」(平田オリザ)より)
長文 9.4週
1. 【1】ところが、ある日、ハッと気がつく。からだの中は、まったくなにもレッテルがはってない。まだ、まっ白ではないか。そこで、からだの中身に名前をつけていく。
解剖しなくても、ある程度はわかる。【2】大ケガをした人や、死んだ人を見ていれば、からだの中について、いくらかの知識が得られる。そこで、からだの中にある「構造」に、名前をつけることをはじめる。
2. 名前をつけるとは、どういうことか。ものを「切ること」である。【3】エッ。名前と、「切ること」とは、なんの関係もないじゃないか。
3. 名前をつけることは、ものを「切ること」なのである。なぜなら、「頭」という名をつければ、「頭でないところ」ができてしまう。「頭」と「頭でないところ」の境は、どこか。
4. 【4】だから、「頭」という名をつけると、そこで「境」ができてしまうのである。「境ができる」ということは、いままで「切れていなかった」ものが「切れる」ということである。国境が変わったとしよう。【5】昨日まで、自分の国だったから自由に行けたはずの町が、今日からは簡単に行けなくなる。それは、日本では起こったことがないが、大陸の国では、しばしばあったことである。
5. 【6】地面はずっと続いているのに、「中国」と「インド」という国ができると、「境」つまり国境ができる。つながっているはずの地面が、「切れてしまう」ではないか。
6. でも、国は人間が勝手に決めた。からだは自然にできたのではないか。【7】だから、言ったでしょう。自然に起こることは、たとえ生死であっても、その境は、簡単には決められませんよ、と。
7. それを簡単に「切ってしまう」のは、だれか。「ことば」である。名前である。ことばができると、つながっているものが切れてしまう。【8】ことばには、そういう性質がある。
8. 人のからだに、名前をつける。名前がついた部分は、ほかの部分とは、頭のなかでは「切れて」しまう。頭、首、
胴体、手、足。その「境」を、きちんと言えるだろうか。【9】そんなことは、だれも言えないのである。なぜかって、「一人の」、そのなかに、境はない。ただ、人の「部分」に、手だの足だのという「名をつける」と、人が「切れて」、バラバラになってしまうのである。【0】もちろん、実際にバラバラになるわけではない。「ことばの中では」である。でも、人はほとんど「ことばの世界」に暮らしている。だから、やっぱり、「切れた」と言っていいのである。
9. これが
解剖のはじまり。なぜなら、ことばの中、すなわち頭の中で、からだがまず切れてしまうから、実際に「切る」ことになるの∵である。
10. そんなバカな。頭のなかで「切れる」のと、実際に「切る」のとは、
違うでしょうが。それは、
違う。でも、頭の中で「切る」から、やがては実際に「切る」ことになる。頭の中で、車というものが考えられたから、やがて実際に車が作られるようになったのである。車というものができたおかげで、車を考えついたわけではない。新しい車を作るなら、まず設計図を引かなくてはならない。車ばかりではない。頭のなかで、家の設計図がまずできるから、家がたつ。人のからだを「ことばにしよう」とするから、
解剖がはじまるのである。なぜなら、ことばには「モノを切る」性質があるからである。
11. ああ、難しかった。そうでもないでしょう。ことばには、ものを切る性質がある。人間は、頭で考えたことを、外に実現する
癖がある。この二つのことを知っていれば、
解剖のはじまりがわかるのである。
12.(養老
孟司『
解剖学教室へようこそ』による)