長文集  9月4週  ○ところが、ある日  nngi2-09-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/06/14 15:32:15
 【1】ところが、ある日、ハッと気がつく
。からだの中は、まったくなにもレッテルが
はってない。まだ、まっ白ではないか。そこ
で、からだの中身に名前をつけていく。解剖
しなくても、ある程度はわかる。【2】大ケ
ガをした人や、死んだ人を見ていれば、から
だの中について、いくらかの知識が得られる
。そこで、からだの中にある「構造」に、名
前をつけることをはじめる。
 名前をつけるとは、どういうことか。もの
を「切ること」であ る。【3】エッ。名前
と、「切ること」とは、なんの関係もないじ
ゃないか。
 名前をつけることは、ものを「切ること」
なのである。なぜな ら、「頭」という名を
つければ、「頭でないところ」ができてしま
う。「頭」と「頭でないところ」の境は、ど
こか。
 【4】だから、「頭」という名をつけると
、そこで「境」ができてしまうのである。「
境ができる」ということは、いままで「切れ
ていなかった」ものが「切れる」ということ
である。国境が変わったとしよう。【5】昨
日まで、自分の国だったから自由に行けたは
ずの町が、今日からは簡単に行けなくなる。
それは、日本では起こったことがないが、大
陸の国では、しばしばあったことである。
 【6】地面はずっと続いているのに、「中
国」と「インド」という国ができると、「境
」つまり国境ができる。つながっているはず
の地面が、「切れてしまう」ではないか。
 でも、国は人間が勝手に決めた。からだは
自然にできたのではないか。【7】だから、
言ったでしょう。自然に起こることは、たと
え生死であっても、その境は、簡単には決め
られませんよ、と。
 それを簡単に「切ってしまう」のは、だれ
か。「ことば」であ る。名前である。こと
ばができると、つながっているものが切れて
しまう。【8】ことばには、そういう性質が
ある。
 人のからだに、名前をつける。名前がつい
た部分は、ほかの部分とは、頭のなかでは「
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
切れて」しまう。頭、首、胴体、手、足。そ
の「境」を、きちんと言えるだろうか。【9
】そんなことは、だれも言えないのである。
なぜかって、「一人の」、そのなかに、境は
ない。ただ、人の「部分」に、手だの足だの
という「名をつける」と、人が「切れて」、
バラバラになってしまうのである。【0】も
ちろん、実際にバラバラになるわけではない
。「ことばの中では」である。でも、人はほ
とんど「ことばの世界」に暮らしている。だ
から、やっぱり、「切れた」と言っていいの
である。
 これが解剖のはじまり。なぜなら、ことば
の中、すなわち頭の中で、からだがまず切れ
てしまうから、実際に「切る」ことになるの
∵である。
 そんなバカな。頭のなかで「切れる」のと
、実際に「切る」のとは、違うでしょうが。
それは、違う。でも、頭の中で「切る」か 
ら、やがては実際に「切る」ことになる。頭
の中で、車というものが考えられたから、や
がて実際に車が作られるようになったのであ
る。車というものができたおかげで、車を考
えついたわけではな い。新しい車を作るな
ら、まず設計図を引かなくてはならない。車
ばかりではない。頭のなかで、家の設計図が
まずできるから、家がたつ。人のからだを「
ことばにしよう」とするから、解剖がはじま
るのである。なぜなら、ことばには「モノを
切る」性質があるからである。
 ああ、難しかった。そうでもないでしょう
。ことばには、ものを切る性質がある。人間
は、頭で考えたことを、外に実現する癖があ
る。この二つのことを知っていれば、解剖の
はじまりがわかるのである。

(養老孟司『解剖学教室へようこそ』による