長文集  9月2週  ★私は何ものなのか?(感)  nngi2-09-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】「私は何ものなのか?」という問い
への答えは、二人称での語りかけと、三人称
での描写と、一人称での思いが、少しずつ重
なり合ってくることによってしか、与えられ
ない。【2】したがって、「まだ呼びかけう
るかも、なお応じうるかも……」という呼応
の可能性なしには、答えの探しようもない。
この呼応の可能性に支えられて、諸種の描写
が重なってくるにつれ、「どうやら私は……
らしい」という果実もみのる。【3】もちろ
ん、そうした果実の多くは、しばし甘美だっ
たとしても、「自己正当化ゆえのあまさにす
ぎなかったか……」という苦みをも残す。し
かし、そうした苦み は、さらなる呼応への
敏感さを養ってくれる。
 【4】呼応、つまり呼びかければ応答があ
るということは、人の間かつ時の間の、一回
的な出来事であり、したがって、一見ささい
な出来事である。しかし、私もあなたも、そ
うした呼びかけ・応答をつうじて、はじめて
、曲がりなりにも自分のかけがえのなさを確
認しえている。【5】あなたも私も乳児と親
の間柄からはじまっ て、呼応の可能性をた
よりにして、はじめて相手に向かって振舞う
ことができ、そうした相手との間で、自分の
かけがえのなさを、曲がりなりにも確認して
きた。【6】にもかかわらず、このナケなし
の呼応の可能性も、あまりにも当たり前であ
るがゆえに、あたかも空気のように、見過ご
されうる。
【7】たとえば、こうである。いわく「呼び
かけられうること、呼びかければ応じられう
ることは、なるほど幼児が自分を意識するよ
うになる過程では必要かもしれない。【8】
しかし、ひとたび自分を自覚するようになれ
ば、他人との呼応の可能性などは、登ってし
まえば無用になるハシゴのようなもので、べ
つになくなってもかまわない……」云々。【
9】とりわけ、どこへ行っても注目され、あ
るいは気をつかってくれる人に囲まれて、向
こうから声をかけてもらえるような立場にあ
る人は、えてして、こう考えやすい。
 【0】しかし、呼応の可能性の大切さを見
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切ってしまうのには、あまりにもありふれて
いるという以外にも、べつの原因もある。私
たちはそれぞれ自分の生活に忙しい。だから
、自分にとって必要でもないことにかんして
、あるいは直接に関係ないと思える人から、
呼びかけられても、いちいち応じてはいられ
ない。私たちはそう考えて、自分が応じる呼
びかけの範囲と種類を、自分のほうから限っ
て∵しまう。じじつ、そう限定しなければ一
日何時間あっても足りない。そこまで私たち
に向かって多種多様な呼びかけが発せられて
いる。のみならず、私たちが呼びかけとして
聞き分けていない声 は、さらに多種多様で
ある。したがって、自分が応じるいわれのあ
る呼びかけの種類と範囲を限定することは、
自分の生活がある以 上、やむをえない。
 こうした自己保身ゆえに呼応の可能性を切
り詰めると、「この眩(くるめ)きには応え
なくてもいいだろう」と見切った他人の呼び
かけを聞き流し、その切実な訴えを見殺しに
する。しかし、それだけではすまない。「も
ともと私は応える立場にはいないのだから…
…」と自分に言い聞かせて、聞き流したこと
を自己正当化することになる。そして、こう
した自己正当化は、もっとも身近な他者の聞
き取りにくい眩(くるめ)きさえも、たんな
る雑音として切り捨てることの正当化に連な
る。
 そのツケは、声の小さい者たちに回され、
彼・彼女らにおいて、「何ひとつ応答などな
かったではないか……」という苦い思いを生
み、「他人との呼応の可能性など、当てに出
来ない……」というシニシズムを生む。そし
て、このシニシズムとともに、もっとか細い
声への鈍感さが蔓延し、その結果、人は自分
に向けられている切実な呼びかけを自分が無
視しているという事実すら気づかないように
なる。そうなると、それだけいっそう、自分
が何であるかについても、不安になる。こう
して「私探し」がいたずらに加速される。
 もちろん、ひとくちに「私探し」といって
も、その実態も背景も多種多様であって、す
べてが、呼応の可能性の切り詰めに還元でき
はしない。しかし、もしあなたが、「呼応の
可能性など当てにできない……」という印象
をよすがとして、「他者にたいして特定の人
物であることなど、自分が自分であるために
は二次的・三次的なことだ……」と思いはじ
めているのなら、もう一度、考え直していた
だきたい。

(大庭健の文章による)