長文集  9月1週  ★時間はしばしば流れとして(感)  nngi2-09-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】時間はしばしば流れとして語りださ
れる。未来から現在 へ、現在から過去へと
流れる水のように。しかしこれは正しくな 
い。そのように時間を流れとして語りだして
いる者は、そういう時間の外で時間について
語っているからだ。【2】不在の未来(まだ
ない)もそのようなものとして語られるかぎ
りで現在のなかにあるし、おなじように不在
の過去(もうない)もそのようなものとして
語られるかぎりでたしかに現在のなかにある
。つまりは現在と現在と現在。だから、そこ
に時間は流れない。むしろ流れは隠されてし
まう。
 【3】それは時間を時間の外から眺めてい
るからだ。もし時間が流れると言うのなら、
そのように語る者自身が流れのなかにあるこ
とが数え入れられているのでなければならな
い。【4】流れている者が流れのなかで流れ
るままにそれを流れとしてとらえ、ひるがえ
っておのれをも流れるものとしてとらえる。
そのような時間の意識のしくみが問いたださ
れねばならない。【5】そのような意識にた
いしてはじめて流れは流れとして見え、旋律
は旋律として聴こえてくる。言葉について語
るということにも、おなじようなことが言え
る。考えるということについて考えるという
こととおなじく。
 【6】わたしたちは何ものかについて言葉
で考え、語りだす。そして次に、その言葉が
、事態を正しくとらえているかどうかを問 
う。あるいは、語られた事態がほんとうに存
在する事態とおなじかどうかを問う。【7】
その問いをシステマティックに緻密にするの
が「哲学」である。
 「哲学」においては、この問いは、観念(
や命題)と実在との一致・不一致というかた
ちで語りだされる。いわゆる真理の対応説で
ある。
【8】至極まっとうな問いのようにみえる。
しかしそこで、何と何とが引き較べられてい
るのか。観念と実在との一致というが、それ
はどのようにして確証できるのか。
 【9】観念と実在との一致とは、つまり語
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りと語られた事態との一致ということである
。では、語りが対応づけられるその語られた
事態は当の語りの外で、どのようにして問題
とされうるのか。【0】言及されることによ
って、つまり別のかたちで意識され、語りだ
されることによってである。けっきょく、対
応ということで問われているのは、ある語り
と別の語りとの対応ということだということ
になる。ある語りと別の語りとの整合性がそ
こでは問題となっているという∵ことになる
。こうして観念と実在の関係は、命題と命題
の関係に移される。対応説は整合説に移行さ
せられるのだ。
 が、問題は、そこで終わらない。観念と実
在との関係を問う「哲学」の場所はどこにあ
るのか、という問題がさらに別にある。語り
と語りの関係を語る語りとは何か、という問
題である。胃がよくはたらいているときは胃
の存在は意識されず、むしろその機能が不全
になってはじめてその存在が意識されるよう
に、哲学もまたそれが機能不全に陥ったとき
にみずからの媒体について思考をはじめる。
 それが端的に問題になるのは、わたしがわ
たし自身の存在に問いを向けるときである。
わたしがわたしを語る。そのときに、わたし
がわたしについてのそのわたしの語りについ
て語るというのはいったいどういうことなの
か(これは「哲学」では「自己意識」の問題
である)。
 わたしについてわたしが語るとき、その語
りによってはじめのわたしは規定される(ス
ピノザも書いていたように、規定するとは否
定すること、限定することにほかならないか
ら)。その限定されたわたしと限定している
わたしの関係についてさらに言葉をくわえる
ことは、わたしとわたしとのその関係をさら
に別なかたちで限定することである。時間を
流れとしてとらえる意識が時間そのもののな
かにあったように、わたしの自己意識の構造
を問題とするわたし自身もそういう自己意識
のなかにあるわけである。
 ここではけっきょく、わたしがわたし自身
を三重に限定していることになる。そういう
メタにメタをくわえる事態についていまここ
で語っているわたしは、その三重の限定にさ
らにメタ次元から介入していって、限定を重
ねているわけだ。
 あるものを限定するというのは、それを変
形することである。デフォルマシオン、歪め
ること。それはしかし、なにかある原型のデ
フォルマシオンではない。すでに確認したよ
うに、原型はなんらかのデフォルマシオンの
なかでしか現れえないのであるから、時間に
おいても「わたし」においてもそうだったが
、みずからについて語るというのは、変形に
変形をくわえることなのである。そして、そ
の変形のやり方自体を、ときに論理的に、と
きに倫理的に問うのが「哲学」というもので
ある。