長文 8.3週
1. 【1】インフォームド・コンセント            なる言葉がある。商品販売はんばい者が、無知なる顧客こきゃくに対して、自己決定するのに必要な情報知識を噛み砕いか くだ て説明した上で、同意を取り付ける義務を負うということである。【2】そして、医療いりょうにおいて提供されるべき情報知識は、診断しんだんの内容、複数の治療ちりょう方針の利点と危険性、治療ちりょうしない場合の症状しょうじょうの予想などであると語られている。正当な考え方だ。しかし専門家が、本当に情報知識を持っているのかと疑ってみる必要がある。
2. 【3】知人が医者に余命三ヵ月かげつかもしれないと告げられたことがある。正確には、簡単な所見から推すと、最悪の場合、末期症状しょうじょうの可能性があり、詳細しょうさいな検査の結果として、予期される末期症状しょうじょうであると判明すれば、余命は三ヵ月かげつ程度である可能性があると告げられたことがある。【4】誤診ごしんであった。正確には、当初の所見は可能性の指摘してきとしては論理的には正しかったが、当初の予期は確率以上の悲観性を滲まにじ せた点において道徳的に誤りだった。
3. 【5】ここで指摘してきしたいのは、これは情報知識の提供などという、代物ではないということである。たんなる占いうらな である。この場合、最低限提供すべき情報はこうなるだろう。所見の根拠こんきょ、推測の根拠こんきょ、確率計算の根拠こんきょ、予後の推定の根拠こんきょである。これを示すために提供すべき情報はこうなるだろう。【6】過去に実際に治療ちりょうした症例しょうれい解析かいせき、過去の症例しょうれいと現在の症例しょうれい相違そういと類似性の評価の根拠こんきょ、当の症例しょうれいについて報告する諸文献ぶんけんの内容の分析ぶんせき症例しょうれい分析ぶんせき症例しょうれい分類の根拠こんきょと生存期間計算の根拠こんきょなどである。【7】ところが医者にこんな知識はない。なぜなら、だれも持っていないからである。すると、どうなるのか。
4. 余命告知やリスク予知について、道徳的に論じたいのではない。占いうらな は、人生の指針として役立つことはあるからだ。【8】人間がなってないとは思うものの、医者を非難したいわけでもない。長くは持たないと経験的に分かることはあるからだ。占いうらな をめぐる問題は、∵各人の世間知を活用すれば済むことである。【9】病気の悲しみを癒しいや て死の恐怖きょうふ耐えるた  には、経験知で充分じゅうぶん足りる。ところが、悲しみを利用する連中は、無駄むだな論議を交わし、無用の研究を積み重ねる。しかも余命を生きる力の不可思議に何の関心も払わはら ないのだ。
5. 【0】安楽死や尊厳死をめぐって人びとはこう信じているかのようだ。安楽に生きるより安楽に死ぬほうが大切だ。尊厳をもって生きるより、尊厳をもって死ぬほうが大切だ。最期だけは美しく死にたい。だれにも迷惑めいわくをかけずに、後顧こうこ憂いうれ なく死にたい。別の人びとはこう考えている。死の教育が大切だ。死ぬまで勉強だ。最期を看取るのも勉強だ。さらに別の人びとはこう考えている。制度設計が必要だ。素敵な死に場所を建築しよう。予算と人員が必要だ。子供も死に触れふ て死を学ぶべきだ。子供にもメメント・モリ(死を想え)というわけだ。人びとは、「末期状態の患者かんじゃ」や「植物状態の患者かんじゃ」について第三者的にあれこれ想像しては、死を正面から見詰めよみつ  うと喋りしゃべ 合っている。
6. 死ぬのは悲しい。苦しまずに死にたいと願うのは当然だ。最期だけは高貴でありたいと願うのもたぶん当然だ。だれでも対処してきたことだし、時が来ればだれでも対処することだ。議論や教育や勉強や制度の問題ではない。ところが死の悲しみを利用して稼ぐかせ 連中は、死ぬまで生きる力、生きて死なせる力に安楽と尊厳を感じることはない。「だれも生きてはいない。だれもが見せかけの生を送っている。死ぬことを避けるさ  ことしか考えていない。しかも人生全体が死の礼拝堂である」。そしてスピノザは書いていた。「自由な人間は何よりも死について考えることが少ない。自由な人間の知恵ちえとは、死の省察ではなく、生命の省察である」(『エチカ』)。

7.(小泉義之よしゆき『ドゥルーズの哲学てつがく』)