1. 【1】
インフォームド・コンセントなる言葉がある。商品
販売者が、無知なる
顧客に対して、自己決定するのに必要な情報知識を
噛み砕いて説明した上で、同意を取り付ける義務を負うということである。【2】そして、
医療において提供されるべき情報知識は、
診断の内容、複数の
治療方針の利点と危険性、
治療しない場合の
症状の予想などであると語られている。正当な考え方だ。しかし専門家が、本当に情報知識を持っているのかと疑ってみる必要がある。
2. 【3】知人が医者に余命三
ヵ月かもしれないと告げられたことがある。正確には、簡単な所見から推すと、最悪の場合、末期
症状の可能性があり、
詳細な検査の結果として、予期される末期
症状であると判明すれば、余命は三
ヵ月程度である可能性があると告げられたことがある。【4】
誤診であった。正確には、当初の所見は可能性の
指摘としては論理的には正しかったが、当初の予期は確率以上の悲観性を
滲ませた点において道徳的に誤りだった。
3. 【5】ここで
指摘したいのは、これは情報知識の提供などという、代物ではないということである。たんなる
占いである。この場合、最低限提供すべき情報はこうなるだろう。所見の
根拠、推測の
根拠、確率計算の
根拠、予後の推定の
根拠である。これを示すために提供すべき情報はこうなるだろう。【6】過去に実際に
治療した
症例の
解析、過去の
症例と現在の
症例の
相違と類似性の評価の
根拠、当の
症例について報告する諸
文献の内容の
分析、
症例分析や
症例分類の
根拠と生存期間計算の
根拠などである。【7】ところが医者にこんな知識はない。なぜなら、
誰も持っていないからである。すると、どうなるのか。
4. 余命告知やリスク予知について、道徳的に論じたいのではない。
占いは、人生の指針として役立つことはあるからだ。【8】人間がなってないとは思うものの、医者を非難したいわけでもない。長くは持たないと経験的に分かることはあるからだ。
占いをめぐる問題は、∵各人の世間知を活用すれば済むことである。【9】病気の悲しみを
癒して死の
恐怖に
耐えるには、経験知で
充分足りる。ところが、悲しみを利用する連中は、
無駄な論議を交わし、無用の研究を積み重ねる。しかも余命を生きる力の不可思議に何の関心も
払わないのだ。
5. 【0】安楽死や尊厳死をめぐって人びとはこう信じているかのようだ。安楽に生きるより安楽に死ぬほうが大切だ。尊厳をもって生きるより、尊厳をもって死ぬほうが大切だ。最期だけは美しく死にたい。
誰にも
迷惑をかけずに、
後顧の
憂いなく死にたい。別の人びとはこう考えている。死の教育が大切だ。死ぬまで勉強だ。最期を看取るのも勉強だ。さらに別の人びとはこう考えている。制度設計が必要だ。素敵な死に場所を建築しよう。予算と人員が必要だ。子供も死に
触れて死を学ぶべきだ。子供にもメメント・モリ(死を想え)というわけだ。人びとは、「末期状態の
患者」や「植物状態の
患者」について第三者的にあれこれ想像しては、死を正面から
見詰めようと
喋り合っている。
6. 死ぬのは悲しい。苦しまずに死にたいと願うのは当然だ。最期だけは高貴でありたいと願うのもたぶん当然だ。
誰でも対処してきたことだし、時が来れば
誰でも対処することだ。議論や教育や勉強や制度の問題ではない。ところが死の悲しみを利用して
稼ぐ連中は、死ぬまで生きる力、生きて死なせる力に安楽と尊厳を感じることはない。「
誰も生きてはいない。
誰もが見せかけの生を送っている。死ぬことを
避けることしか考えていない。しかも人生全体が死の礼拝堂である」。そしてスピノザは書いていた。「自由な人間は何よりも死について考えることが少ない。自由な人間の
知恵とは、死の省察ではなく、生命の省察である」(『エチカ』)。
7.(小泉
義之『ドゥルーズの
哲学』)