ギンナン2 の山 8 月 2 週 (5)
★自己表現の意欲は(感)   池新  
 【1】自己表現の意欲は、言葉あるいは文字として表してみて、初めて具体性を帯びる。自発的にものを考えるようになって、人は初めて自分の言葉を発する。言葉に対して自覚的になると言ってもよいでしょう。【2】言葉なくして、考え、迷い、一念を生じ、邂逅することはあり得ないのです。
 ところが、このとき間髪を入れず、言葉の不自由、その障害に突き当たるという事実を見逃すわけにはゆきませぬ。【3】例えば我々が平生使っている思想や文学上の用語、精神とか知性とか主体性とか実存とか、なんでもいい、その一つ一つを取り上げて、これを厳密に検討してごらんなさい。一つとして曖昧ならざるものはない。【4】各人によってさまざまの解釈や定義やニュアンスを生じ、それをまた一つ一つ解釈し定義して行かねばならぬといったような、途方もない迷路に入り込んでしまいます。
 【5】言葉というものは、おそろしく不完全なものだと悟ります。実に曖昧です。そういう言葉をさまざまに組み合わせつつ、かろうじて自分が言いたいと思っている思想的イメージに近づいてゆく。【6】それは依然として不完全ではあるが、この不完全の自覚が、我々の考える力を更に押し進める原動力ともなるのです。精神の問題は、幾何学の公理のように割り切れない。【7】しかし、幾何学の公理のように、その一つ一つの正確さを目ざすことは大切で、この無限の正確さへの意志が、言葉を開拓して行くともいえましょう。言葉を使用するとは、開拓して行くことと同義なのです。そこに精神としての「自己」が存在するわけです。【8】言葉の不自由な性質そのものが、言葉の生命だといっていいかもしれませぬ。
 言葉のかような性質が、逆に我々をして、考えさせ、迷わせ、一念を生ぜしめ、邂逅を促すといってもいい。【9】言葉に翻弄される自己を見いだすでありましょう。翻弄に翻弄を重ねて、さて、その極限に見いだすものは何か。我々は、初めて「沈黙」の意義を知るのです。例えば非常にうれしいとき、悲しいとき、感動したり、さまざまに思い惑うとき、どんな現象が起こるか。言葉を失っている自∵己を見いだすでありましょう。【0】心の中であれこれと思い巡らしてみるが、さて表現となると、どう言っていいかわからぬ。たちまち言葉につまって、沈黙せざるを得なくなる。恋愛がその端的な例です。恋する男女は、恋することによって言葉を失うものです。
 かかる時機を、重視しなければなりませぬ。なぜなら、言葉を失うことは、心の充実を意味するからであります。言うに言われぬ思い、そこに人間の真実がある。しかし、あえて表現しなければならぬ。その苦しさにおいて、我々は言葉の障害と格闘し、開拓し、換言すれば精神は自己を形成しようとしてもがくわけで、言葉の困難の自覚が、そのまま人間生成の陣痛ともなるわけです。
 こう考えるなら、自分の言葉を持つということが、いかに至難か明白でありましょう。我々はつい有り合わせの言葉を用います。世間一般が用いたり、その時々の流行語となっている言葉を、無批判に使用します。どんな結果が生ずるか、申すまでもありますまい。精神はここに感化されることによって死に瀕するのであります。
 自分の言葉を持つということは自分が生まれるということです。「はじめに言葉ありき。」という一句が聖書にありますが、私はここでいちおう聖書から離れて、人間生成の一条件として考えてみます。初めて発した自己コユウの言葉は、その人の生命のあけぼのであるということを。「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなわち新しき生涯なり。」──これは若き島崎藤村(しまざきとうそん)が、その最初の詩集に記した序文の一節です。自分の言葉を持つこと、すなわち自分の生涯の始まりなのであります。
 そうあるためには、私がさきに述べた「沈黙」を重視し、これに耐えねばなりませぬ。この沈黙とは、正確さへの意志と言ってもよい。沈黙は意志の強さの尺度であります。多くの沈黙に耐えた人の言葉ほど美しい。言葉の芸術である文学は、根本においてこれを目ざすものなのであります。多くの言葉を重ねながら、結局言うに言われぬ思いという沈黙を創造し、ここに恨みを宿すものなのであります。
──亀井勝一郎「人間生成」──