ギンナン2 の山 7 月 4 週 (5)
○「新しさ」が   池新  
 【1】「新しさ」がマイナス価値であった時代があった。新しさは奇を衒うもの、良き古き伝統を破壊するものだとして忌避されたのである。思想の面で新しいアイディアを提出するものは非難と告発を免れがたかった。【2】新しい思想家はどこでもいつでも、弾圧されたし、排除されたりしたものである。政治の場面でも、現存秩序を批判し、のりこえようとする運動は、いつでも新しい運動であったが、これも破壊的なものとして可能なかぎり抑圧される。
 【3】いつの時代でも、どんな社会においても、古さの方が価値的にプラスであって、新しさはつねにマイナス価値であった。新しいものは、古いものとの対決の中ではじめてエネルギッシュになり、前進のための生産力を獲得する。【4】したがって、物質的な力とも言うべき飛躍力と魅惑的力をもつ新しさの基本型は、現存秩序の体系または古い価値体系から脱出する批判的運動であるというべきであろう。
(中略)
 【5】圧倒的な力をもつモード的・記号的新しさによって隠されているが、決して消滅しそうもない批判的新しさもある。それはいろいろの形をとって現れるが、何よりも感情的・情緒的なものが基本であろう。【6】エルンスト・ブロッホが書きとめてくれた「小さな白昼夢」などはその典型である。小さな子どもの小さな夢は、憧憬とよぶべきもので、それはおとぎ話の形をとって未来へとはばたく。はかなさとこわれやすさを特徴とする白昼夢は、現在の世界からの前方への脱出願望である。【7】そこには、世界についての感情が世界を批判している。このままではいけない、別の良き世界があるのだと、理性的でなく情緒的に判断している。情緒・感情は批判力をもちうる。
 【8】感情や情緒は行為である。それは世界の中にあって世界を作り変える。まだないものを先取りし、この先取りによってすでに世界の外に出る。外に出ることで今の生活世界を批判する。【9】いっさいのユートピアは、基本的にはこの感情の行為的批判を出発点とし∵ている。
 前に、過去に埋もれた新しさがあると述べた。多くの可能性をもちながら、開花と現実化の条件を与えられないままに、歴史のほこりの堆積の下に埋もれた新しきものがある。【0】私たちは、願望夢のように前に眼を向けるばかりでなく、しばしばそれ以上に過去に眼を向ける。なぜ過去に眼を向けるのか。あるいはプロスペクティヴとレトロスペクティブとは互いに無縁なのであろうか。過去へふり向けられるレトロの眼は、単なる懐古趣味であってはならない。現在を永遠化し、その立場から過去をふりかえる眼は、保守的なレトロスペクティヴである。現在に安住し、過去を高見から眺めるのは、過去をダシにして現在を栄光化する態度だ。こういうレトロの眼はモードの眼である。記号は新しさの発掘源としてのみ過去を見る眼である。
 そうではなくて、過去の中に開花を待ちつつひそむ問題を探求することこそ、新しさの探求である。かつてワルター・ベンヤミンは、目ざめを待つ新しきものについて語った。可能的新しさを目ざめさせる眼こそ、真のレトロスペクティヴであり、それが同時にプロスペクティヴになる。レトロスペクティヴとプロスペクティヴとの有機的な連関を自覚的に行うことは、歴史学や歴史哲学の仕事である。これは、もはや現在の固定化でも栄光化でもなくて、現在を前へと超えていく作業である。過去の中で目ざめを待つ新しさは、未来において甦る新しさである。どれほど過去を調べてもこの新しさがなくなることはない。過去には無尽蔵の新しさがある。
 時間的最先端が新しいというのは、近代歴史意識の虚妄であろう。時間と歴史に病的なまでに固執する現代の歴史感覚をひっくり返さなくてはならない。最も古い層のなかに目ざめを待つ根源的新しさがあるという逆説的立場――これがベンヤミンの独創性である――は、近代という大いなる時代の本質を突く。新しさの考察は、こうして、近代性への根本的反省へと通じていくであろう。

(今村仁司『精神の政治学』による)