長文集  7月2週  ★現代の日本で、翻訳者の(感)  nngi2-07-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】現代の日本で、翻訳者の社会的な地
位が低い理由のひとつは「独創性」が重視さ
れていることにある。独創性がある仕事は価
値が高く、独創性がない仕事は価値が低いと
されている。【2】翻訳は、実態はともかく
、世間の認識では独創性がない仕事だとされ
ている。物書きの世界で、一流の翻訳よりも
三流の執筆の方が尊敬されるのも、このため
だ。
 【3】考えてみれば、これは不思議な話だ
。翻訳はたとえば、演奏に似ているともいえ
るし、演劇に似ているともいえる。音楽な 
ら、作曲家が五線譜に書いた「原作」を、演
奏家や歌手が音に「翻訳」して聴衆に届ける
。【4】演劇なら、脚本家が脚本として書い
た「原作」を、役者が演技の形で「翻訳」し
て観客に届ける。原著者が外国語で書いた「
原作」を、日本語に「翻訳」して読者に届け
る翻訳と、どこが違うのかと思いたくなる。
【5】流行歌の世界なら、誰がうたったのか
は誰も知っている曲でも、誰が作曲したのか
は知られていないことが少なくない。脚本家
はどちらかといえば裏方で、俳優の方が脚光
を浴びる。【6】これに対して翻訳では、原
著者には独創性があるが、翻訳者には独創性
がないとされる。
 もちろん、翻訳とは解釈であり、解釈であ
る以上、おなじ原作を十人が訳せば十通りの
訳ができる。【7】だから、演奏家や歌手が
独創的でありうるように、翻訳者は独創的で
ありうる。この点に は、翻訳者の立場から
は疑問の余地はない。しかし、独創性を崇め
る風潮は一種の病気のようなものだ。【8】
翻訳を職業とする者がこの風潮にひれ伏す理
由はない。また、独創性を競ったところで、
原著と比較されれば翻訳にはどうみても勝ち
目はない。翻訳にも独創的な面がないわけで
はないことを認めさせても、意味があるとは
思えない。
 【9】独創性がもてはやされる世の中で軽
視されがちな翻訳を職業とする者は、独創性
とは何なのか、じっくりと考えておかなけれ
ばならない。一般には、独創性とは、「他人
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の真似をするのではなく、∵自分ひとりの考
えで何かを作りだす能力」だとされている。
ほんとうにそうなのだろうか。
 【0】少し考えてみればわかることだが、
他人を模倣するのではなく、自分ひとりで他
人とは違う考えを編み出せたと思ったとき、
それがほんとうに独創的であるケースはめっ
たにない。他人の真似をするつもりはなくて
も、他人がすでに考えてきたのと同じ考えに
たどりついただけになるのが通常であり、こ
の場合は、独創的だとはいえない。無知だっ
ただけだ。これまでだれも考えていなかった
ことだとしても、あまりに幼稚な考えだから
かもしれないし、あまりに突拍子もない誤り
だからかもしれないし、あまりに現実を無視
しているからかもしれない。他人とは違う考
えだとしても、それがほんとうの意味で独創
的である場合はきわめて少ないはずだ。
 では、どういう条件があれば独創性がある
といえるのだろうか。おそらくは、人類が蓄
積してきたものを十分に吸収したうえで、新
しい考え方を生み出すことが、ひとつの条件
だろう。つまり、独創性とは学習と継承を前
提としたものであり、学習と継承がなければ
独創性はないといえるのではないだろうか。
(中略)
 歴史上に残る発見や発明をみていくと、ほ
ぼおなじ時期にそれぞれ独自に、おなじこと
を考えた人が他にもいたケースがきわめて多
い。何人かがほぼ同時におなじことを発見・
発明し、そのなかでとくに厚かましかった人
の名前だけが歴史に残っているケースすら少
なくないのだ。発見や発明が継承を基礎にし
たものだと考えれば、なぜこのようなケース
が多いのかも、すぐに理解できる。独創性だ
けをもてはやすのがいかに危ういかも、理解
できるはずである。学習と継承がなければ、
独創性も生まれない。
 こう考えたとき、独創性に対する翻訳者の
立場ははっきりする。翻訳という仕事にも独
創性があると主張する必要はないし、独創性
を誇る人たちに引け目を感じる必要もない。
翻訳とはあらゆる独創性の基礎になり、それ
どころか、社会や文化や技術や経済など、人
間のあらゆる活動の基礎になる学習と継承を
担っているのである。

(山岡洋一『翻訳とは何か』)