ギンナン2 の山 7 月 2 週 (5)
★現代の日本で、翻訳者の(感)   池新  
 【1】現代の日本で、翻訳者の社会的な地位が低い理由のひとつは「独創性」が重視されていることにある。独創性がある仕事は価値が高く、独創性がない仕事は価値が低いとされている。【2】翻訳は、実態はともかく、世間の認識では独創性がない仕事だとされている。物書きの世界で、一流の翻訳よりも三流の執筆の方が尊敬されるのも、このためだ。
 【3】考えてみれば、これは不思議な話だ。翻訳はたとえば、演奏に似ているともいえるし、演劇に似ているともいえる。音楽なら、作曲家が五線譜に書いた「原作」を、演奏家や歌手が音に「翻訳」して聴衆に届ける。【4】演劇なら、脚本家が脚本として書いた「原作」を、役者が演技の形で「翻訳」して観客に届ける。原著者が外国語で書いた「原作」を、日本語に「翻訳」して読者に届ける翻訳と、どこが違うのかと思いたくなる。【5】流行歌の世界なら、誰がうたったのかは誰も知っている曲でも、誰が作曲したのかは知られていないことが少なくない。脚本家はどちらかといえば裏方で、俳優の方が脚光を浴びる。【6】これに対して翻訳では、原著者には独創性があるが、翻訳者には独創性がないとされる。
 もちろん、翻訳とは解釈であり、解釈である以上、おなじ原作を十人が訳せば十通りの訳ができる。【7】だから、演奏家や歌手が独創的でありうるように、翻訳者は独創的でありうる。この点には、翻訳者の立場からは疑問の余地はない。しかし、独創性を崇める風潮は一種の病気のようなものだ。【8】翻訳を職業とする者がこの風潮にひれ伏す理由はない。また、独創性を競ったところで、原著と比較されれば翻訳にはどうみても勝ち目はない。翻訳にも独創的な面がないわけではないことを認めさせても、意味があるとは思えない。
 【9】独創性がもてはやされる世の中で軽視されがちな翻訳を職業とする者は、独創性とは何なのか、じっくりと考えておかなければならない。一般には、独創性とは、「他人の真似をするのではなく、∵自分ひとりの考えで何かを作りだす能力」だとされている。ほんとうにそうなのだろうか。
 【0】少し考えてみればわかることだが、他人を模倣するのではなく、自分ひとりで他人とは違う考えを編み出せたと思ったとき、それがほんとうに独創的であるケースはめったにない。他人の真似をするつもりはなくても、他人がすでに考えてきたのと同じ考えにたどりついただけになるのが通常であり、この場合は、独創的だとはいえない。無知だっただけだ。これまでだれも考えていなかったことだとしても、あまりに幼稚な考えだからかもしれないし、あまりに突拍子もない誤りだからかもしれないし、あまりに現実を無視しているからかもしれない。他人とは違う考えだとしても、それがほんとうの意味で独創的である場合はきわめて少ないはずだ。
 では、どういう条件があれば独創性があるといえるのだろうか。おそらくは、人類が蓄積してきたものを十分に吸収したうえで、新しい考え方を生み出すことが、ひとつの条件だろう。つまり、独創性とは学習と継承を前提としたものであり、学習と継承がなければ独創性はないといえるのではないだろうか。(中略)
 歴史上に残る発見や発明をみていくと、ほぼおなじ時期にそれぞれ独自に、おなじことを考えた人が他にもいたケースがきわめて多い。何人かがほぼ同時におなじことを発見・発明し、そのなかでとくに厚かましかった人の名前だけが歴史に残っているケースすら少なくないのだ。発見や発明が継承を基礎にしたものだと考えれば、なぜこのようなケースが多いのかも、すぐに理解できる。独創性だけをもてはやすのがいかに危ういかも、理解できるはずである。学習と継承がなければ、独創性も生まれない。
 こう考えたとき、独創性に対する翻訳者の立場ははっきりする。翻訳という仕事にも独創性があると主張する必要はないし、独創性を誇る人たちに引け目を感じる必要もない。翻訳とはあらゆる独創性の基礎になり、それどころか、社会や文化や技術や経済など、人間のあらゆる活動の基礎になる学習と継承を担っているのである。

(山岡洋一『翻訳とは何か』)