長文 7.1週
1. 【1】食べる。寝るね 。愛する。排泄はいせつする。そのつど、ただこの身体から湧きわ だし、自らを駆り立てるか た  生命の営みを、わざわざ欲望と名付け、「私」という主語を与えあた ているのは人間だけである。しかも、所有や支配の欲望になると、とたんに話は複雑になる。
2. 【2】持ち家がほしい。名声がほしい。力がほしい。そういう「私」は、はたしてどこまで「私」であるか。たとえば寸暇すんか惜しんお  で株に熱中する「私」を、「私」はどこまで「私」だと知っているか。【3】人間の欲望について考えるとき、まずはそう問わなければならないような世界に私たちは生きている。
3. たとえばある欲望をもったとき、私たちはそれをかなえようとする。【4】その段階で、私たちはなにがしかの手段に訴えうった ねばならず、そのために対外的な意味や目的への、欲望の読み替えよ か が行われる。健康のため。家族のため。生活の必要のため、などなど。【5】こうした読み替えよ か は、すなわち欲望の外部化であり、欲望は、この高度な消費社会では「私」から離れはな て、つくられるものになってゆく。
4. 【6】そこでは名声や幸福といった抽象ちゅうしょう的な欲望さえ、目と耳に訴えるうった  情報に外部化され、置換ちかんされるのが普遍ふへん的な光景である。たとえば、家がほしい「私」は、ぴかぴかの空間や家族の笑顔の映像に置換ちかんされた新築マンションの広告に見入る。【7】そこにいるのはうつくしい映像情報に見入る「私」であり、家族の笑顔を脳に定着させる「私」であって、たんに家がほしいばくとした「私」はずっと後ろに退いている。【8】代わりに、家族の笑顔を見たい「私」が前面に現れ、それは映像のなかの新築マンションと結びついて、欲望は具体的なかたちになるわけである。
5. けれども、こうしてかたちになった欲望は、ほんとうに「私」の欲望か。【9】「私」はたしかに家がほしかったのだけれども、その欲望は正しくこういうかたちをしていたのか。仮に、たしかに家族の笑顔を見たいがために家がほしかったのだとしても、家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別ものであり、これを一つにしたのは「私」ではない、広告である。
6. 【0】このように、消費者と名付けられたときから「私」はだれかがつくりだした欲望のサイクルに取り込まと こ れている。そこでは「私」は∵覆いおお 隠さかく れ、ただ大量の情報に目と耳を奪わうば れて思考を停止した、「私」ではない何者かが闊歩かっぽしている。
7. こうして、欲望から「私」が消え、おおよそ政治の権力闘争とうそうから一般いっぱんの消費生活まで、欲望のための欲望と化して、現代社会はある。欲望は「私」の外部で回転し、「私」を駆り立てるか た  。そこに明確な主体はおらず、従って欲望を止めるものはいない。個々の欲望の当否は、ほとんど損得に置き換えお か られ、損得もまた外部化されて新たな欲望になるだけである。
8. ところで有限の世界では、欲望のサイクルも有限になるはずだが、実際にはあたかも無限であるかのように回転し続け、そこここで、さまざまな悲喜劇を引き起こす。欲望は必ずしもかなえられないばかりか、ときには実質的な損害になって返ってくる。そのとき、これがサイクルであるがために悪者はすっきり定まらず、定まらないがために悪者探しは逆に苛烈かれつになる。
9. 「私」の欲望であれば、失意も損失も「私」が引き受けることで収まりがつくが、「私」の消えた現代の欲望は、始まりも終わりもない。破綻はたんしたら破綻はたんしたで、ともかく悪者を探して社会的な辻褄つじつまを合わせるだけである。一方、消費者という名の「私」はどこまでも無垢むくに留まるのだが、「私」が無垢むくでないことは、「私」が知っている。

10.(高村かおる「新・欲望論」二による)