長文 2.4週
1. 【1】「書物」とはいったい何だろうか! それを評価するとか、読むとかいうことは何を意味するのだろうか? それを売るとか買うとかいうことになるのは、何だろうか?
2. これらの問いに、もっとも近づきやすいのは、「書物」を人間からもっとも遠くにある観念の「人間」とみなすことである。
3. 【2】わたしたちはだれでも、子どものころは親とか兄弟とか友人とか教師から、知識や判断力や書物にたいする習慣的な位置のとり方を習いおぼえる。そして青年期に足を踏みこむふ   と、しだいに親や兄弟や教師たちを、教え手としては物足りなく思いはじめ、離反りはんするようになる。【3】これは個人にとっては「乳離れちばな 」とおなじで必然的なものである。
4. しかし、わたしたちはだれもここで錯覚さっかくした経験をもっている。親や兄弟や教師などはくだらない存在であり、自分はかれらより優れてしまったし、かれらより純粋じゅんすいであるし、かれらから学ぶものはなにもないというように思いはじめる。【4】こういう思い込みおも こ が真実でありうるのは、半分くらいである。あとの半分では、青年期に達したとき、わたしたちは眼の前に何を与えあた られてもくだらないし、何にたいしても否定したいという衝動しょうどうをもつようになる。
5. 【5】これは、自己にたいする不満の投射された病いにすぎない。つまりだれもかれを満足させるものではなく、何を与えあた ても否定的であることの一半の原因は、対象の側にはなく自己の側にあるだけである。
6. 【6】この時期に、わたしたちは、じぶんを充たしみ  てくれるものとして、「書物」をもとめる。「書物」は周囲で眼に触れるふ  事柄ことがらや人間にすべて不満である時期に、いわば、「肉体」をもたない「親」や「兄弟」や「教師」の代理物としてあらわれる。
7. 【7】ほんとうは「書物」は、身近にいる「親」や「兄弟」や「教師」などよりつまらないものであるかもしれない。しかしわたしたちは青年期に足を踏みこんふ   だとき、「書物」には肉体や性癖せいへきや生々しい触感しょっかんがなく、ただの「印刷物」であるということだけで、不満や否定から控除こうじょするのだといってよい。∵
8. 【8】そこで「書物」は、身近にいる「親」や「兄弟」や「教師」などより格段に優れた「親」や「兄弟」や「教師」に思われてくる。つまり、遠くの存在だというだけで苛立たいらだ しい否定の対象から免れるまぬか  のだ。
9. 【9】しかし、青年期にはいったときわたしたちは、さらに錯覚さっかくする。こういう優れた「書物」を書いた著者は、人格も識見もじぶんの知っている「親」や「兄弟」や「教師」などより格段に優れており、平凡へいぼんな肉親や教師たちとちがった特異な生活をしているにちがいない、ぜひ一度会って、できるならばその生活ぶりも知りたいものだというように。
10. 【0】しかし、かれが実際に訪れてみると、その「書物」の著者は、すくなくとも見掛けみか たところ、ごく普通ふつうの生活をやっている平凡へいぼんな人物にすぎない。じぶんの「親」や「兄弟」や「教師」とおなじように、子どもを叱りしか とばしたり、女房にょうぼう喧嘩けんかをしたり、くだらぬお説教のひとつも喋言しゃべるありふれた人物である。

11.(吉本よしもと隆明たかあき『読書の方法』より)