1. 【1】「書物」とはいったい何だろうか! それを評価するとか、読むとかいうことは何を意味するのだろうか? それを売るとか買うとかいうことになるのは、何だろうか?
2. これらの問いに、もっとも近づきやすいのは、「書物」を人間からもっとも遠くにある観念の「人間」とみなすことである。
3. 【2】わたしたちは
誰でも、子どものころは親とか兄弟とか友人とか教師から、知識や判断力や書物にたいする習慣的な位置のとり方を習いおぼえる。そして青年期に足を
踏みこむと、しだいに親や兄弟や教師たちを、教え手としては物足りなく思いはじめ、
離反するようになる。【3】これは個人にとっては「
乳離れ」とおなじで必然的なものである。
4. しかし、わたしたちは
誰もここで
錯覚した経験をもっている。親や兄弟や教師などはくだらない存在であり、自分はかれらより優れてしまったし、かれらより
純粋であるし、かれらから学ぶものはなにもないというように思いはじめる。【4】こういう
思い込みが真実でありうるのは、半分くらいである。あとの半分では、青年期に達したとき、わたしたちは眼の前に何を
与えられてもくだらないし、何にたいしても否定したいという
衝動をもつようになる。
5. 【5】これは、自己にたいする不満の投射された病いにすぎない。つまり
誰もかれを満足させるものではなく、何を
与えても否定的であることの一半の原因は、対象の側にはなく自己の側にあるだけである。
6. 【6】この時期に、わたしたちは、じぶんを
充たしてくれるものとして、「書物」をもとめる。「書物」は周囲で眼に
触れる事柄や人間にすべて不満である時期に、いわば、「肉体」をもたない「親」や「兄弟」や「教師」の代理物としてあらわれる。
7. 【7】ほんとうは「書物」は、身近にいる「親」や「兄弟」や「教師」などよりつまらないものであるかもしれない。しかしわたしたちは青年期に足を
踏みこんだとき、「書物」には肉体や
性癖や生々しい
触感がなく、ただの「印刷物」であるということだけで、不満や否定から
控除するのだといってよい。∵
8. 【8】そこで「書物」は、身近にいる「親」や「兄弟」や「教師」などより格段に優れた「親」や「兄弟」や「教師」に思われてくる。つまり、遠くの存在だというだけで
苛立たしい否定の対象から
免れるのだ。
9. 【9】しかし、青年期にはいったときわたしたちは、さらに
錯覚する。こういう優れた「書物」を書いた著者は、人格も識見もじぶんの知っている「親」や「兄弟」や「教師」などより格段に優れており、
平凡な肉親や教師たちとちがった特異な生活をしているにちがいない、ぜひ一度会って、できるならばその生活ぶりも知りたいものだというように。
10. 【0】しかし、かれが実際に訪れてみると、その「書物」の著者は、すくなくとも
見掛けたところ、ごく
普通の生活をやっている
平凡な人物にすぎない。じぶんの「親」や「兄弟」や「教師」とおなじように、子どもを
叱りとばしたり、
女房と
喧嘩をしたり、くだらぬお説教のひとつも
喋言るありふれた人物である。
11.(
吉本隆明『読書の方法』より)