ゲンゲ2 の山 2 月 1 週 (5)
★(感)しかし、ここで面白いのは   池新  
 【1】しかし、ここで面白いのは「やりたいこと」とか「好きなこと」といっていても、それをいう自我主体に多少とも疑いを抱き始めているということである。【2】本当は何が好きなのか、何をやりたいかわからないから、肉体的「行動」を、ともかくもおこし、そこで味わえるはずの未知の経験から得られるであろう感覚、感情に身をゆだねようということになるのである。【3】これはまあ、いわばよく解釈した場合ではあるが、そして今の若ものたちの流行のなかには、すべてとはいわないまでもこういう要素がふくまれていると見てよいだろう。ところがこの方向をまともにやって行こうとするなら、これはいわばニヒリズムを方法として用いるということであるから、かなりの精神的緊張を必要とする。【4】何が好きかわからない、何をやりたいかつかめないという状態を肯定せず、むしろ否定的にとらえ、本当に好きなものを発見するという態度のなかでの、実験的一方法が、行動による偶然を通じての自己発見というものだろうから。
 【5】しかし、何が好きかわからないためにやむを得ずする行動を「好き」といってしまっては、短絡という以外いいようがない。これでは、「社会心理学」などでいう、集団的な反社会的行動への逃避などといわれてしまってもしかたない。
 【6】また、たとえばサーフィン。これはやれば面白いだろうと思う。ゴルフだってやれば面白いだろうが、すこし違うかもしれない。両方やったことがないのだから、無責任な話だが、しかし板を手で持つ波乗りぐらいはしたことがある。【7】波という自然の大きな、しかしじつに微妙なリズムに、己れの肉体のリズムがぴったり合一した時の快感、これにつきるのだと思う。ボートのエイトならエイトで、八人の漕ぎ手のオールさばきが、見事に水をとらえて、ふねと漕ぎ手と水との不思議な一体感のなかで陶酔する時、もっともスピードが出ている(これは体験だ)ということと似ていると思う。【8】官能の喜びではある。この直接的な官能性はこたえられないということはあるだろう。サーフィンが流行る根底にはこれがあるわけだが、実際に流行るプロセスでは、その体験は一種の神話的雰囲気という枠と化してしまっている。【9】波の来ない海岸にサーファーが集まり、それどころか、シティ・サーファーとかいう始めか∵ら海岸に行く気はないのに、車の天井にサーフ・ボードを乗せ、顔には日焼けクリーム(日焼け除けではない)を茶色に塗るという流行は一体何なのであろうか。【0】ここに軽薄な心理を見出すことはたやすい。わたしはここにむしろ軽いシニシズムがあると思う。官能の体験は淡い神話と化してそれにこの半分腐ったような傲慢で半ちくな自己韜晦とが結びついて、今日の「流行」の原型をみせているのである。

(小野二郎の文章による)