長文 1.3週
1. 【1】ぼくの身体でぼくがじかに見たり触れふ たりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、このぼくの身体って離れはな て見ればこんなふうに見えるんだろうな……という想像のなかでしか、ぼくの身体はその全体像をあらわさないと言っていいはずだ。【2】つまり、ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり「像」でしかありえないことになる。言いかえると、見るにしろ、触れるふ  にしろ、ぼくらはじぶんの身体に関してはつねに部分的な経験しか可能ではないので、【3】そういうばらばらの身体知覚は、ある一つの想像的な「身体像」を繋ぎつな 目としてたがいにパッチワークのように繋がつな れることではじめて、あるまとまった身体として了解りょうかいされるのだということだ。ぼくらが着る最初の服は、この意味で、「像」としてのからだの全体像なのだ。【4】そして、身体はその意味で想像の産物、解釈かいしゃくの産物でしかないからこそ、もろいもの、こわれやすいものなのだ。
2. だから、他人に怪訝けげんそうな表情で全身嘗めるな  ように見回されるだけで、じぶんの抱いいだ ている身体像はとたんに揺らいゆ  でしまう。【5】あるいは、異性の服装をするよう強制されるだけで、たちまちそういう自己解釈かいしゃくによって成り立っているじぶんの同一性は危うくなる。
3. そこでひとは、こうした「像」としての身体のもろさを補強するために、いろんな手段を編みだすことになる。【6】つまり、「わたし」というものの存在の輪郭りんかくを補強することで、じぶんのもろい存在が醸すかも 不安をしずめようとする。そのために、たとえば皮膚ひふ感覚を活性化することで、見えない身体の輪郭りんかく浮き彫りう ぼ にしようとする。【7】熱い湯に浸かっつ  たり、冷水のシャワーを浴びたり、日光浴したり、スポーツであせをかいたりする。あるいは、他人と身体を接触せっしょくさせたりする、あぐらを組む父親のふところに入る、異性と身体をふれあう……。
4. 【8】なぜこういう行為こういが心地よいかというと、たとえばお風呂ふろに入ったりシャワーを浴びたりすると、湯や水と皮膚ひふとの温度差によって皮膚ひふ刺激しげきされ、皮膚ひふ感覚が覚醒かくせいさせられる。ふだん見えない背中∵や太股ふとももの裏の存在が、その表面のところでくっきり浮かび上がっう  あ  てくる。【9】視覚的には直接感覚することのできない身体の輪郭りんかくが、皮膚ひふ感覚というかたちでくっきりしてくるのだ。お父さんのひざのあいだに座ってもたれたときに背中で感じる温かいかべのような感触かんしょくにひたって安心するというのも、心理的以外にこういう理由もあるのだろう。【0】激しい運動をして筋肉がこったり、あせをかいてはだがひんやりするのも、他人の手で身体をなでられるのも、お酒を呑むの と血が皮膚ひふの裏側ぎりぎりのところにまで押し寄せお よ てくるような感覚があるのも、みな、身体のおぼろげなイメージ、たよりないイメージを補強する効果をもっているのだろう。それらがひとの存在に確かな囲いを与えあた てくれるのだ。
5. 服についても同じことが言える。服を着ると、身体を動かすたびに皮膚ひふが布地に擦れるす  。身体の動きとともに、身体表面のそこかしこで身体と衣料との接触せっしょくが起こるのだ。その接触せっしょく感が、ふだんはじかには見えない身体のあやふやな輪郭りんかくを、くっきりと浮き立たう た せてくれるのだ。こういう感覚が、存在のベーシック・トーンとでもいうべきものとなって、ぼくらの気分をあるていど安定させているのだろう。
6. ところで、「わたし」の輪郭りんかくを補強するには、皮膚ひふ感覚を使うこのようなフィジカルな方法のほかに、もう一つ別の方法がある。これまで、ぼくらの身体というものはイメージとしてしかとらえられないもの、つまり想像や解釈かいしゃくの対象でしかありえないということをみてきたのだけれど、そういうイメージとしてのじぶんの存在を、社会的な「意味」で何重にも包装し、強化していく方法だ。身体の表面にさまざまの意味を発生させ、増殖ぞうしょくさせることで、じぶんがだれかという、そういう意味づけをもっと細かく、そしてもっと多様なしかたで与えあた ていくということ、要するに、じぶんの性別、あるいは性格、職業、ライフスタイルなどを、眼に見えるかたちで表現していくというやりかただ。

7.(鷲田わしだ清一の文による。一部改変)