ゲンゲ2 の山 1 月 3 週 (5)
★(感)ぼくの身体で   池新  
 【1】ぼくの身体でぼくがじかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、このぼくの身体って離れて見ればこんなふうに見えるんだろうな……という想像のなかでしか、ぼくの身体はその全体像をあらわさないと言っていいはずだ。【2】つまり、ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり「像」でしかありえないことになる。言いかえると、見るにしろ、触れるにしろ、ぼくらはじぶんの身体に関してはつねに部分的な経験しか可能ではないので、【3】そういうばらばらの身体知覚は、ある一つの想像的な「身体像」を繋ぎ目としてたがいにパッチワークのように繋がれることではじめて、あるまとまった身体として了解されるのだということだ。ぼくらが着る最初の服は、この意味で、「像」としてのからだの全体像なのだ。【4】そして、身体はその意味で想像の産物、解釈の産物でしかないからこそ、もろいもの、こわれやすいものなのだ。
 だから、他人に怪訝そうな表情で全身嘗めるように見回されるだけで、じぶんの抱いている身体像はとたんに揺らいでしまう。【5】あるいは、異性の服装をするよう強制されるだけで、たちまちそういう自己解釈によって成り立っているじぶんの同一性は危うくなる。
 そこでひとは、こうした「像」としての身体のもろさを補強するために、いろんな手段を編みだすことになる。【6】つまり、「わたし」というものの存在の輪郭を補強することで、じぶんのもろい存在が醸す不安をしずめようとする。そのために、たとえば皮膚感覚を活性化することで、見えない身体の輪郭を浮き彫りにしようとする。【7】熱い湯に浸かったり、冷水のシャワーを浴びたり、日光浴したり、スポーツで汗をかいたりする。あるいは、他人と身体を接触させたりする、あぐらを組む父親のふところに入る、異性と身体をふれあう……。
 【8】なぜこういう行為が心地よいかというと、たとえばお風呂に入ったりシャワーを浴びたりすると、湯や水と皮膚との温度差によって皮膚が刺激され、皮膚感覚が覚醒させられる。ふだん見えない背中∵や太股の裏の存在が、その表面のところでくっきり浮かび上がってくる。【9】視覚的には直接感覚することのできない身体の輪郭が、皮膚感覚というかたちでくっきりしてくるのだ。お父さんの膝のあいだに座ってもたれたときに背中で感じる温かい壁のような感触にひたって安心するというのも、心理的以外にこういう理由もあるのだろう。【0】激しい運動をして筋肉がこったり、汗をかいて肌がひんやりするのも、他人の手で身体をなでられるのも、お酒を呑むと血が皮膚の裏側ぎりぎりのところにまで押し寄せてくるような感覚があるのも、みな、身体のおぼろげなイメージ、たよりないイメージを補強する効果をもっているのだろう。それらがひとの存在に確かな囲いを与えてくれるのだ。
 服についても同じことが言える。服を着ると、身体を動かすたびに皮膚が布地に擦れる。身体の動きとともに、身体表面のそこかしこで身体と衣料との接触が起こるのだ。その接触感が、ふだんはじかには見えない身体のあやふやな輪郭を、くっきりと浮き立たせてくれるのだ。こういう感覚が、存在のベーシック・トーンとでもいうべきものとなって、ぼくらの気分をあるていど安定させているのだろう。
 ところで、「わたし」の輪郭を補強するには、皮膚感覚を使うこのようなフィジカルな方法のほかに、もう一つ別の方法がある。これまで、ぼくらの身体というものはイメージとしてしかとらえられないもの、つまり想像や解釈の対象でしかありえないということをみてきたのだけれど、そういうイメージとしてのじぶんの存在を、社会的な「意味」で何重にも包装し、強化していく方法だ。身体の表面にさまざまの意味を発生させ、増殖させることで、じぶんがだれかという、そういう意味づけをもっと細かく、そしてもっと多様なしかたで与えていくということ、要するに、じぶんの性別、あるいは性格、職業、ライフスタイルなどを、眼に見えるかたちで表現していくというやりかただ。

(鷲田清一の文による。一部改変)