長文 1.2週
1. 【1】いつの時代でも、大人は子どもに対して、常に教育的関係を取り結んできている。先行世代が獲得かくとくした生活の技術を、後続世代に伝えることを怠るおこた なら、その種族は自然や他種族との厳しい戦いを戦い抜くぬ ことが出来ないからである。【2】動物を狩りか 魚介類ぎょかいるいを漁り、作物を育てるなど、すべて与えあた られた環境かんきょうのなかでよく生き抜くい ぬ ための知恵ちえであり、そのための技術に他ならない。【3】子どもたちは、大人とともにそれらの営みに参加することを通じて、それぞれの知識と技術を身につけ、成長とともにそれらに習熟して、生存に事欠かぬだけの知識・技術の持ち主であると認められたとき、一人前のしるし付与ふよされるのが常であった。
2. 【4】したがって、教育の成果とは、一人前になれるか否かで決まる。仮にそれぞれの技に優劣ゆうれつがあろうとも、その序列化にまして「一人前としての自立権の獲得かくとく」にこそ重きがおかれた。子どもたちは、自身の属する種の一員として生き抜くい ぬ ために、要求される技のあれこれを最低限度は獲得かくとくせねばならない。【5】それが、やすやすと取得された巧みたく な技であろうとも、また、ようやく身につけられた拙いつたな 技術であったにせよ、最低基準を満たしてしまえばそれでよい。つまりは、一種の資格試験であり、その最低ラインに到達とうたつするか否かは本人の努力次第ということになる。
3. 【6】たとえば、一人前のしるしとして、単独で一定期間内に、ある広さの畑を耕すという課題が与えあた られているとする。その場合、達者な農作業のうでを発揮して短時間で成し遂げよな と  うとも、あるいは、夜を徹してっ て働いてやっとぎりぎりに期限に間に合ったにせよ、課題が達成されていれば同等に扱わあつか れて、一人前の資格を与えあた てもらえる。【7】したがって、他者と比較ひかくしての技の巧拙こうせつ敏速びんそくさは、とりたてて問題とされず、結果として、教える側の大人の、教授者としての巧拙こうせつも、さほど問題とはなり得なかったのである。
4. 【8】しかし、文字文化の興隆こうりゅうによって「教師」という社会的身分が用意されると、文字を獲得かくとくした大人が単に既得きとくの技を伝えるだけ∵の役割を越えこ 、「教師」には、いかに巧みたく にいかに効率的に、未習得者にその技を伝え得るかが問われるようになる。【9】つまり、教授の仕方の巧拙こうせつが問題とされるのである。その結果、巧みたく に教える者が、「よき教師」として評価され、それなりの地位と財力を確保し得るのは当然であろう。「教師」あるいは「学者」という、知識を売る商売の発生である。【0】文字とその学習が身分と財力をもたらすとなれば、それは、おのずから、学ぶ者たちの上に新手の抑圧よくあつを用意する。よき学習者、すなわち、懸命けんめい励んはげ で他者を凌駕りょうがすることが、将来の地位や富を左右するとして、彼らかれ の現在の自由を束縛そくばくし始めたのであった。勉強時代の到来とうらいは、子どもたちを、文字による権力志向へと追い立て、「文字文化」という新しい抑圧よくあつ機構のなかに組み込んく こ だのである。
5. 文字文化がもたらした権力の構図は、教える大人を絶対の地位に置いた。文字は、字体にせよ文法にせよ、一定の規範きはんに従った文化であり、その規範きはんは一度獲得かくとくすれば生涯しょうがいにわたって有効に機能する。短期間に、全面的改定がなされて、既得きとくのものが通用しなくなる、などということはないのである。したがって、先に文字を身につけた大人は、後から学ぶ子どもに対して、常に、その優位性を誇るほこ ことが出来る。「教師」「学者」などと呼ばれる専門家に至っては、その権威けんいはゆるぎようもない。文字文化がもたらしたのは、こうした大人―子ども間の権力関係であった。
6. しかし、文字文化の絶対性が薄れうす 、新しいメディアが興隆こうりゅうしたことで、こうした子ども―大人関係は更改こうかい、もしくは逆転のときを迎えむか ている。「子どもが分からない」という嘆声たんせいは、この関係の変化を十分認識し得ぬ大人世代の繰り言く ごととも言えよう。しかも、この潮流は、ベビーブーム世代が漫画まんがに熱中し、漫画まんが文化に市民権を与えあた たとき、そして、先行する文字世代がその勢いを阻みはば 得なかったとき、すでに、今日に向かって流れ始めていたのであった。

7.(本田和子『変貌へんぼうする子ども世界』による)