長文 7.1週
1.【1】「ドタッ、バタッ」
2. という音が聞こえ、
私は一体何が出てくるのだろうと、
嬉しいよりも
怖くなってしまった。
3. これまでで一番印象に残っているプレゼントは、七
歳の
誕生日のときのことだ。なにしろ、品物でも食べ物でもなく、生き物を
贈られたのだから。
4. 【2】両親が買ってきたのは、アメリカンショートヘアーの
子猫だった。
私を
驚かせようと直前まで
隠していたようだが、ハウスの中で元気よく動き回る音が、
廊下の向こうから
響いてきていた。
5. 【3】まだ小さかった
私にとって、それは未知の
存在に対する
恐怖となり、父が運んでくるころにはその不安は
頂点に達していた。喜ぶとばかり思っていた父は、
私が今にも泣きそうな顔になっているのを見て、
困ってしまったと言っていた。
6. 【4】ハウスから出てきた
子猫は、想像よりはるかに小さかった。まるで新しい住みかを確かめるかのように、まん丸の
瞳で周囲をきょろきょろと見回している。よちよちとテーブルを歩き回っては、こてんと転んだりする。【5】そのかわいらしい
姿を見て、
私は「この子の
面倒は
私が見てあげなきゃ」と決意した。
7. 「ロビン」という名前も、
私が
悩みに
悩んでつけたものだ。しかし、そんなロビンとの
暮らしは
波乱の連続で、
私は生き物を飼うことの大変さを知った。【6】食事やトイレのしつけはもちろんのこと、
壁紙をボロボロにされたり、お
風呂に入れるたびに
大騒ぎになったり、
脱走したまま二日間も帰ってこず、心配で
倒れそうになったこともある。
8. さらに、
抱っこしてやろうと手を
伸ばせば、するりと
逃げ出してしまうのだ。【7】いつでも手にとれるぬいぐるみとは
違うのだと
痛感させられる。それでいて、自分が
お腹が空いたときには体をこすりつけて
露骨に
甘えてくるのだから、なんとも
憎らしい。∵
9. 学校でも飼育係をした経験があるが、その仕事は気が向いたときにエサをやったり、先生の指示があったときに
水槽を
洗ったりする程度だった。
10. 【8】ロビンはもうすっかり、大切な家族の一員である。だが今にして思えば、あの七
歳の
誕生日に両親からプレゼントされたのは、もっと大きな
価値のあるものだったのかもしれない。
11. 【9】つまり、生き物を世話することでたくさんの思い出や教訓を得る、という機会だ。こうした自分の人生に生きてくるものこそ、人間にとって本当にありがたいプレゼントなのではないかと思った。【0】
12.(言葉の森長文作成委員会 ι)
長文 7.2週
1. 【1】「そこをなんとか」という言い方はきわめてあいまいである。「そこ」とは何をさすのか。「なんとか」とはどういうことなのか。おそらく、これをそのまま外国語に
翻訳したら、まったく意味をなさないだろう。【2】いや、
意訳しても通じまい。だいいち、
意訳のしようがない。強いて説明するなら、「あなたはそのような理由で
拒絶なさるが、その理由をもう一度考え直して、
私の要求に
応じてくださるまいか」とでも言うほかあるまい。
2. 【3】しかし、外国人が理由をあげてたのみを
断る場合は、「だから、
私はあなたの願いをお引き受けするわけにはいかない」という
確固たる立場を表明しているわけで、したがって、もうそれ以上いくらたのんでも、
応じてくれる
余地はない。【4】相手の要求をいれる
余地がないからこそ、当人は
断ったのである。
3. ところが、日本人は
義理人情にからまれて、どんなに明白な
拒絶の理由があろうと、相手に熱心にたのまれたら、それをむげに
断るのは、何か気がひけるように思ってしまう。【5】われわれはそれを「
義理と
人情」のせいにするが、もともと
義理と
人情とは、正反対の
概念なのである。「
義理」とは、正当な理のことであり、「
人情」とは、その理を
解きほぐす情を意味する。【6】このように、正反対のものを
一緒にし、
折衷して、日本人はそこに
独特の
判断領域を
設定するのだ。それは、別言すれば「
情状酌量」といってもよい。【7】つまり、一切のことがらは、それ自体完結しているのではなく、時と場合に
応じて、
伸縮自在の形をとっているわけである。
4. 【8】だから、日本人のノーは、けっして
絶対的な
否定ではなく、その一部にイエスを
含み、イエスは、その中にノーの
要素をあわせ持っている。【9】「日本人の
不可解な笑い」といわれるものは、その時その時の、こうした
判断から生まれているように
私には思われ∵る。それを
勘案するあいだ、日本人は
微笑しているのである。とうぜん、外国人には、それが
狡猾なごまかしのように
映る。【0】けれど日本人は、これこそが
人情、すなわち、もっとも人間的な
対応とみなすのだ。
5. じっさい、「そこをなんとか」という
表現の中には、日本人のものの考え方が、じつによくあらわれている。その考え方とは、すべては完全ではない、ということだ。そこで、たのむほうも、たのまれるほうも、いくばくかの部分が必ず
保留されていることを
前提に話し合う。したがって、あと、どのくらい
可能性の
余地があるか、その「残された部分」を両者は見きわめようとし、この言葉が
頻出するわけである。
6. 日本の絵画の
特質に「
余白」の美というのがある。それに対してイスラムの
芸術は、まったく
逆で、空白への
恐怖とも思えるほど、びっしりと空間をうめつくす。モスクの
絢爛たる
装飾に、それがよく
現れている。
7. もともと
砂漠の民であるアラブ人は、けっして
妥協の
余地を
認めない。それが、こうした
芸術の
性格にも
表現されているのではなかろうか。
8. ところで、日本人の好む「
余白」だが、これは言うまでもなく、
可能性を意味する。画家は、そこに何かを
描こうと思えば、いくらでも
描き足すことができるのだ。しかし、
彼は
描かない。
描かないことによって、
鑑賞者にその部分を
預ける。「
余白」は画家と
鑑賞者の共有の空間なのである。そして「
余白」をそれぞれが、
想像によってどのようにうめるか、当の作品は作者と
鑑賞者、
双方の「せめぎあい」にかかっている、といってもよかろう。「そこをなんとか」することにより、日本の
芸術も、その
価値を決められるわけである。
9.(森本
哲郎の文章による)
長文 7.3週
1. 【1】あれは小学校三年の
頃だったと思うが、手作りの虫かごの中で、アオムシがキャベツの葉をすさまじい
勢いで食べながら、ポトリポトリと緑色のまるい大きな
糞を落としていくのを、感心しながらながめていた
記憶がある。【2】消化されないセルロース(せんい
素)をあれだけ食べれば、
立派な
糞をどんどんと出していかなければならないのだろう。葉を食べるということは、ずいぶん
効率の悪いことなのである。
2. 【3】ふつう草食の
哺乳類でサイズの小さいものは、葉だけを食べるということはせず、もっと栄養のつまっている果実や種子や
貯蔵根(いも)を食べる。【4】小さい
哺乳類は、体重あたりで
比べれば、
非常に多くの食べ物を必要とするから、栄養
価の低い葉っぱだけで生きていくことはむずかしいのだろう。
3. 【5】サイズの大きな
哺乳類でも、草に
含まれている
細胞質だけから栄養をとることはせずに、もっと
優れた方法をあみだしたものが
繁栄している。ウシやヤギのような反すう動物である。【6】かれらはいくつもの部屋に分かれた大きな
胃袋をもち、この中に
単細胞生物やバクテリアを共生させている。これらの共生
微生物にセルロースを
分解させて、それを自分の栄養にする。【7】だから、同じ草を食べるといっても、
細胞質だけ食べてあとは
捨てるのとは
状況がまったく
違う。反すうなどという芸当ができるのも、
巨大な
胃袋をもてるだけ、体のサイズに
余裕があるからだろう。
4. 【8】ほとんどの鳥は葉っぱは食べない。ハクチョウなどの大形のものをのぞき、草食
性の鳥は果実か
穀物を食べる。これは飛ぶことと関係すると思われる。【9】葉をたべるということは、栄養
価の低いものを大量に
摂取することを意味している。これでは
胃袋ばかり重くなって、飛び回るには都合が悪い。
5. 【0】実は、同じことが
昆虫にもあてはまる。草を食うのは、飛ばない
幼虫の時代なのである。
変態して飛ぶようになったら、草は∵食べない。
蜜や
樹液を
吸う。これらは栄養の
水溶液、つまりドリンク
剤のようなものだから、
吸収がよく、重い
胃袋をかかえてよたよた飛ぶことにはならず、都合がいい。(
中略)
6.
昆虫の成功の
秘訣は、大量にありながらほかの動物たちがあまり手をつけなかった葉っぱという食物に目をつけたところにある。しかし、草を食うということは、重い
胃袋をかかえるわけで、
移動性を
犠牲にする。一本の草を一
匹の虫が食いつくしてしまったら、草も虫もおしまいであろう。イモムシのような動きののろいものが、草を食いつくしながら、新しい草を求めてはいまわるのは、
現実的でない。
昆虫の小さいサイズは、一本の草で満足できる
程度の、てごろなサイズだと思われる。
7. しかし、小さくてイモムシのようにはいまわっていては、ひろく子孫をばらまいたり、よい
環境を
探して
移動するには不利である。そこで、じゅうぶん草を食べて育ったら、変身して羽をのばして飛び回ることにした。どのみち成長の
過程でクチクラの
殻を
脱いで、新しい
殻を作らねばならないのだから、その
際、体のつくりも
大幅に変えてやるのは、そう
抵抗はないだろう。こうして羽を得た
昆虫は、広い
範囲を飛び回り、子どもがちゃんと生きていけそうな草を見つけて
卵を産む。
幼虫自身はあまり動きまわれず
環境を選ぶことはできないが、親がかわりに選んでくれるわけだ。
8.
昆虫は羽化を節目として食
性と運動法を
切り替える。
幼虫期は、あまり動かず、ひたすら食う。このときには
胃袋が重くてもいい。羽化して成虫になると、飛び回ることが最
優先になり、消化のいいものだけを食べる。なかには成虫になったらまったく食事をしないものもいる。このように
昆虫は
変態することにより、小さいサイズの短所を
解消した。
昆虫の生活は、まさにサイズと
密接にかかわっているものなのである。
9.(本川
達雄「ゾウの時間 ネズミの時間」による)
長文 7.4週
1.
久助君の身体のなかに
漠然とした悲しみがただよっていた。
2. 昼のなごりの光と、夜のさきぶれの
闇とが、地上でうまくとけあわないような、
妙にちぐはぐな感じのひとときであった。
3.
久助君の
魂は、長い悲しみの
連鎖のつづきをくたびれはてながら、旅人のようにたどっていた。
4. 六月の
日暮の、
微妙な、そして
豊富な物音が、戸外にみちていた。それでいて静かだった。
5.
久助君は目を開いて、柱にもたれていた。何かよいことがあるような気がした。いやいやまだ悲しみはつづくのだという気もした。
6. すると遠いざわめきのなかに、一こえ
仔山羊のなき声がまじったのをききとめた。
久助君はしまったと思った。生まれてからまだ二十日ばかりの
仔山羊を、ひるま川上へつれていって、
昆虫を追っかけているうちついわすれてきてしまったのだ。しまった。それと同時に、
仔山羊はひとりで帰ってきたのだと
確信をもって思った。
7.
久助君は山羊小屋の横へかけ出していった。川上の方をみた。
8.
仔山羊は向こうからやってくる。
9.
久助君にはほかのものは何も
眼にはいらなかった。
仔山羊の白いかれんな
姿だけが、――
仔山羊と自分の地点をつなぐ
距離だけがみえた。
10.
仔山羊は立ちどまっては
川縁の草をすこし
喰み、またすこし走っては立ちどまり、無心に遊びながらやってくる。
11.
久助君はむかえにいこうとは思わなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
12.
仔山羊は電車道もこえてきたのだ。電車にもひかれずに。あの土手のこわれたところもうまくわたったのだ。よく川に落ちもせずに。
13.
久助君は
胸が熱くなり、なみだが
眼にあふれ、ぽとぽとと落ちた。
14.
仔山羊はひとりで帰ってきたのだ。
15.
久助君の
胸に、今年になってからはじめての春がやってきたよ∵うな気がした。
16.
久助君はもう、
兵太郎君が死んではいない、きっと帰ってくる、という
確信を持っていたので、あまりおどろかなかった。
17. 教室にはいると、そこに――いつも
兵太郎君のいたところに、洋服に着かえた
兵太郎君が白くなった顔でにこにこしながら
腰かけていた。
18.
久助君は自分の席へついてランドセルをおろすと、
眼を大きく開いたまま、
兵太郎君をみてつっ立っていた。そうすると自然に顔がくずれて、
兵太郎君といっしょに笑い出した。
19.
兵太郎君は
海峡の向こうの
親戚の家にもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやで帰ってきたのだそうである。それだけ
久助君は人からきいた。川のことがもとで病気をしたのかしなかったのかはわからなかった。だがもうそんなことはどうでもよかった。
兵太郎君は帰ってきたのだ。
20.
休憩時間に
兵太郎君が運動場へはだしでとび出していくのを
窓からみたとき、
久助君は、しみじみこの世はなつかしいと思った。そしてめったなことでは死なない人間の生命というものが、ほんとうに
尊く、美しく思われた。
21.(新美
南吉「川」)
長文 8.1週
1. 【1】
紫色に
輝く大粒の果実が、目の前にいくつもぶら下がっている。その中の一つをもぎとって口の中に
放り込むと、みずみずしい
甘酸っぱさが一気に広がった。自分の手でブドウの実を
摘んで、その場で食べるなんて初めての体験だ。【2】
感激して後ろを
振り向くと、父も母もそれぞれ夢中でブドウを
頬張っていた。
2.
私たちは「旅行好き」、「
食いしん坊」という点が共通した家族である。
3. 父は仕事
一筋の働き者で、毎日
遅く帰ってきてはご飯を食べてすぐ
眠ってしまう。【3】
趣味らしい
趣味もないそうだが、旅行に出かけたときだけはニコニコしていて、
見違えるほどエネルギッシュである。
4. 母は母で、よく
同窓生と旅行に出かける。帰ってくる日の夕飯は、決まって地方の名物弁当だ。
5. 【4】朝早くに起きて、急な日帰り旅行に出発したことは数知れない。この日の目的地は、
山梨のブドウ畑だった。
6. 父と母は、どちらも車の
免許を持っている。運転が
交替できて楽なので、気軽に出かけられるということもあるだろう。【5】父は安全運転だが、母は極めて
危なっかしい。一度、赤信号に気がつかずスーッと通過しそうになったときには、
私が大声で注意しなければならなかった。
7.
山梨に着いたら、さっそくブドウ
狩りである。
8. 【6】
新鮮なブドウをたっぷり味わった後、ここが母の知り合いの畑だということを教えてもらった。母は
若いころにここへ旅行に来て、農家の人と仲良くなったのだという。
9. 旅をすることで、新しい出会いが生まれる。【7】両親と旅行をすると、ときどきこうした発見がある。
10. ブドウ畑の
隣には、ワインの
工房もあった。飲める人がいないのが残念だ……と思っていたら、気付いたときには母が真っ赤な顔をしていた。
11. 【8】帰りの運転は父が一人ですることになってしまった。∵
12. 「可愛い子には旅をさせよ」というが、
私の旅はたいてい両親と
一緒だ。しかし、ひとりで旅をするのとはまた
違う意味で、
私は旅からいろいろなことを学んでいる。【9】父と母を見ていると、大人になっても旅を楽しむ心を
忘れないことが人間には必要なのかもしれない、と感じるのである。【0】
13.(言葉の森長文作成委員会 ι)
長文 8.2週
1. 【1】花の絵を
描き始める時、心は画用紙のように真白でありたいと思っている。同じ名前がついている花でもよく見ると、一つ一つが人間の顔が
違うように、それぞれの
表情を持っているからである。【2】また同じ花でも、朝と昼ではほんのわずか色が変わっている場合が多い。
2. いくら見なれた花でも「この花はこういう形をしているんだ」などと先入観をもって
描き始めると、花にソッポを向かれてしまうことがある。【3】花屋さんでは、開きすぎたものは売り物にならないようだけれど、開きすぎて
雌蕊や
雄蕊がとび出したものも、時にはハッとするくらい美しい
表情を見せてくれることがある。【4】花びらが一、二
枚落ちてしまったのも、虫が食っているのもいいなあと思う。
咲き終わって花びらが茶色くなってしまったのも……、それは決して死んだ花ではなく
一生懸命生きて、いま実を結び始めた最もすばらしい時期を
迎えているのではないだろうか。
3. 【5】風で折れてぶらさがっているのもあれば、病気か何かでゆがんで
咲いているのもある。
日向で
勢いよく
咲いているのもあるが、根元の方では雨の日に土のはねかえりを受けて、うすぎたなくなったのもある。そういうのを見ていると、人間の社会と同じだなあと思ったりする。【6】頭の良いのもいれば、悪いのもいる。美しい人も、そうでない人も、病気の人も、健康な人も……、いろいろな人がいる。
4. しかし、
私自身、「あいつは、ああいうやつなんだ」とほんのわずかしか知らないうちに決めつけてしまうことが、なんと多いのだろう。【7】花の色が一日にして変化するのだから、まして心を持っている人を見るとき、自分のわずかな
秤で決めつけてしまうのなんて全く
間違っていると思う。
5. いま
私の前には、みごとな
菊の
大輪が
咲いている。【8】
菊は
比較的長い期間
咲いている花だけれど、それでも人にその花をほめられている時期はほんとうにわずかである。【9】花の下にある葉の一つ一つを、さらにその下にある土の中の根の美しさを、花びらの中に
描けるようになりたいと思っている。【0】
6.(『風の旅』星野
富弘著)
長文 8.3週
1. 【1】
国際人とは一体どんな人間のことなのか、わかっているようでわかりにくい。単に外国へ何度も行ったことがあるとか、西洋のマナーを身につけているとか、外国で知名度が高いなどということではないような気がする。【2】また、外国語に
堪能であるというだけでも
国際人とは
呼べないだろう。
2.
私なりの考えでは、「外国人を相手に自分の考えを伝えたり心を通わせることのできる人」というようなものではないかと思っている。【3】こう考えるとき、
国際人たるべき最も大切な
条件とは何だろうか。それは多分、「
論理的に思考し、それを
論理的に
表現する
能力を持つこと」ではないかと思う。【4】言語、
風俗、
習慣などは国によって
異なっていても、
論理なるものは万国共通だからである。日本人の
議論ベタは有名であるが、その
原因は日本人がこの
能力に欠けているからだと思われる。
3. 【5】なぜ、
論理的思考の訓練が
我が国では十分にされていないのだろうか。やはり教育が真先に頭に
浮かんで来てしまう。大学入試を目指して
階段を
駆け上がるような小・中・高の学校教育、しかもその中で
知識の
修得が
偏重されているということ。【6】このあたりに大きな
原因があるのではないか。
4. アメリカの大学初年生を日本の学生と
比べてみると、アメリカ学生の方が
知識量でははるかに
劣っている。びっくりするほど無知であると言ってもよい。【7】しかし
論理的に考え
表現し行動することにかけては、
彼らは十分な訓練を受けているから、
精神的には
成熟していて、
論争になったりした場合には日本人学生はとても太刀打ちできない。【8】一見アメリカの学校は生徒を自由に遊ばせているだけのように見えるが、そういった訓練はきちんとなされているのである。
5. 【9】たとえば小学生の宿題として「ピューリタン(キリスト教の∵
宗派の一つ)がアメリカに
移住した
頃の
服装について調べなさい」というようなものが出されるという。生徒はそれを調べるのに何をどんな
順序で実行すればよいかをまず考える。【0】そして、どこの図書館へ行けばよいのか、どんな本を読めばよいのか、どのようにしてその本を借出すのか、
誰に聞けば
有益な
情報を得られるか、などを考えることになる。
6. 一方の日本では、受験勉強のために、生徒たちは
知識やテクニックの
修得ばかりに追いまくられている。
論理的思考のために
適当と思われている数学でさえ、決まりきった
幾つかの公式のうちからどれをどの場合にあてはめるかというだけのものになっていて、この意味では単なる暗記科目と化している。
論理的思考の訓練はほとんど置き去りにされていると言えよう。
7. それでは、
論理的思考を育てるにはどうしたらよいだろうか。
普通まず数学教育が頭に
浮かぶが、これは
一般に信じられているほど
効果的とは思えない。数学は
確かに
論理の上に組み立てられているが、いわゆる
論理的思考に
最適の教材かどうか
疑わしい。
私にはむしろ、「言葉」を大切にすることが最も
効果的なように思われる。言葉というものは人間の思考と深く結びついている。言葉は単なる思想の
表現ではない。言葉によって思考する、という意味では言葉が思想を形作るとさえ言える。思考と言葉とはほとんど区別の出来ないほどに一体化している。この意味で、
論理的言葉を大事にするということは、
論理的思考を大事にすることに等しい。
8. このような観点から、国語教育を
充実させることが第一と思われる。
洞察力に
恵まれた日本人にとって意思の
疎通に言葉を必要としないことはしばしばある。しかし、
我々が
国際人として生きようとする
限り、
論理的言葉から
逃れられないことは明らかに思われる。
9.(
藤原正彦「数学者の言葉では」より)
長文 8.4週
1. イヌが喜びを
表現するときに
尾を
振ることはよく知られている。イヌの喜びが大きいときには、
尾を
激しく振り、体をくねらせる。耳は後方に
絞られるような形で
伏せている。いてもたってもいられぬように
跳びはねることもある。生後半年前後の
若い雌では、
嬉しすぎて
尿をもらす場合もある。
2. このような喜びを表すのは、たとえば、長い間、旅に出ていたご主人が帰ってきたようなときである。イヌは家族をひとつの
群れとして考えているが、
群にはひとりひとりに順位の
格付けがある。当然、順位の上の人に会えたときのほうが喜びの
表現も
激しくなる。人に対して喜んでいるときのイヌは、
年齢が
若いほど人の顔を
舐めたがるものである。
3. 犬種によって喜びの
表現に差があり、
一般に日本犬は洋犬ほどオーバーではない。洋犬でも小型の
愛玩犬種と、シェパード、シベリアン・ハスキーなど使役犬種との
比較では、
飼主と
居住区を同じにしている
愛玩犬種のほうが喜びの
表現は大きい。
4. イヌには人と共同作業をしてほめられたときも
嬉しくなる
習性がある。たとえば、ボールを投げての「持って来い」の訓練をさせると、イヌは
嬉々として投げたボールをくわえてきて
飼主に
渡すが、このときのボディランゲージは、「大喜び」とはやや
違う。「
上機嫌」あるいは「親愛」である。ボールを
渡した後、「よーし、よくやった」という
賞賛の言葉で
嬉しくなっている。
尾は
激しくは
振らず、ゆっくりと
振って、耳は後ろに
伏せている。ボールを主人に
渡した後、
脚側に
坐って待つ訓練までよくできているイヌは、首を
伸ばして主人がもう一度ボールを投げるのを待つ。ときには「わん、わん」と
催促することがある。
5. また、イヌは
叱られた後、
許しを
乞うために「
甘え」のボディランゲージを見せるが、そのときの
尾の位置は
催促のときとは
違っ∵て、下に向けている。つまり、
恐縮を
表現しながら、遊びに
誘い、なんとか
御主人に
機嫌をなおしてもらいたいという
魂胆である。
6. ただし、イヌがこういう様子を見せたからといって、
叱られた理由を
理解して二度と同じことをしないかといえばそうではない。
叱られて
懲りたときは、まず
恐怖を覚えるものである。
恐怖を覚えたときのイヌは、
尾を完全に
股間に
まるめ込み、耳を後方に
伏せてうずくまってしまう。まるめられた
尾は
振られることはない。
叱られても「
甘え」を見せるイヌには、
叱られた意味が分かっていないものである。
7. イヌが知らないイヌに出あって、
尾を上にあげて
小刻みに
振るときは、相手に
警戒心を持ったときである。同時に
攻撃すべきか
否かの
迷いがある。耳は前方に向けてしっかりと立てられている。
垂れ耳のハウンド種でも、耳の付け根が前向きになるので、
警戒心と
攻撃的な気持ちを
抱いたことが
判断できる。
8. この場合、
尾を高い位置で
振るイヌほど
気性が強い上位のイヌである。イヌが相手に
威圧感を覚えれば
尾を下げながら
振り、耳は後方に向けて
伏せていく。
9. したがって、イヌが
尾を
振っているから
喧嘩にはならないだろうと思ったら大
間違いである。
威圧されたイヌが
怯えながらも
敵意を表して
牙を見せたりすると、
尾を
振っていたほうがいきなり
攻撃をしかける場合もある。とくにテリア・グループは
反応が早いので注意する必要がある。
10.(
沼田陽一「イヌはなぜ人間になつくのか」)
長文 9.1週
1.【1】「ユウって本当にロマンがないね!」
2. 姉にそう言われて、
僕はぽかんと口を開けてしまった。姉のきつい言葉には慣れていたが、そんなことを言われるとはまったく予想していなかった。
3. それは去年、
双子の姉と二人で、夏休みの自由研究について相談していた時のことだ。【2】
僕たちは地元に伝わるおとぎ話について調べ、発表しようと考えていた。「キツネに化かされて田んぼに落っこちた」とか、「山で助けたサルがお返しに木の実を持ってきた」などという話に、姉は
胸をときめかせているようだった。
4. 【3】一方の
僕も、内心燃えていた。こういった話は研究のしがいがある。そう思って、「キツネやサルにそんな
知恵があるはずはないから、人間どうしの出来事をたとえた話ではないか」と自分の考えを話したのだ。そうしたら、姉はいきなり
怒り出してしまった。
5. 【4】姉によると、「ロマンがない」のが
僕の短所だという。せっかくかわいらしい動物たちの物語を想像しているのに水を差すな、というのである。しかし、そう言われても
納得はいかない。
僕にも意地があった。結局、
僕と姉はたもとを分かち、同じ題材で別々に発表をすることになった。
6. 【5】そして夏休みが終わり、自由研究を発表する日がやってきた。出番は姉が先だ。姉は自分で書いたイラストを見せながら、キツネやサルが主役のおとぎ話を
紹介していった。研究発表というより
紙芝居大会のようだったが、
悔しいけれど面白い内容になっていたと思う。
7. 【6】おかげで
僕はすっかり
尻込みしてしまった。今度は姉ばかりか、クラスのみんなに「ロマンがない」と言われるかもしれない……。だが、今さら
逃げ出すわけにはいかなかった。
8.
僕は勇気をふりしぼって、図書館で調べた話を発表していった。【7】昔は道路が
舗装されておらず、
酔った人が田んぼに転落するのはしょっちゅうだったこと。山を
挟んだ
隣の村から来た迷子を、送∵り返してあげた話があること……。発表が終わったあと、
担任の
城田先生はにっこり笑って、こう言ってくれた。
9.「とても面白かった。ユウくんの
探究心はすごいね。」
10. 【8】その言葉を聞いて、
僕はすっと
胸のつかえがとれたような思いがした。
11. 確かに、
僕は姉の言うように「ロマンがない」のかもしれない。しかしその代わりに、先生も
認めてくれた「
探究心」がある。それが
僕の長所だ。「短所をなくすいちばんよい方法は、今ある長所を
伸ばすことである」という言葉がある。【9】
僕は自信を持って、長所である
探究心を
伸ばしていきたい。
12. 人間にとって、自分の長所や短所に気付かされる経験は
貴重である。
指摘してくれる人がいるということも、ありがたいことだ。今では、
城田先生はもちろん、姉にも感謝している。【0】
13.(言葉の森長文作成委員会 ι)
長文 9.2週
1. 【1】イギリス人は犬を
躾けることが上手である。
私の家の前が英国大使館の
公邸で、三年ごとに
交替するどの家族も、必ず犬をつれてくる。もう七、八家族かわったと思うが、来る犬来る犬が実に見事と言う他ないほどぎょうぎがよい。
2. 【2】家の中で不必要にほえたてたり
騒いだりすることがないどころか主人と連れ立って散歩する時でも実におとなしい。よその犬と行き会っても、ほえもしなければ
駆け寄ることもしない。【3】主人の
傍らについて前を見てただ
黙々と歩いていく。むろん
引綱も
鎖もなしである。
3. これに
比べると日本人の犬は、こちらが
恥ずかしくなるほどめちゃめちゃである。
跳びかかったり、ほえたり、大きな犬の場合など主人が
押さえるのに苦労する。【4】犬に引かれて、小走りになる人も多い。
狭い道で犬をつれた日本人同士が出会う時がこれまた面白い。小さな弱そうな犬をつれた人は、横道にそれたり、引き返すことさえある。【5】女の人などは、つれている小さな犬をかばって
抱き上げ、足早に通りすぎて行くこともしばしばである。
4.(
中略)
5. このようなはっきりした
違いは一体何が
原因なのだろうか。【6】
私の考えでは人間と動物の
お互いの位置づけが、イギリス人と日本人ではまったく
異なることから出発していると思う。
6. 日本人は、犬、
猫そして馬のような
家畜を人間の完全な
支配下に位置するもの、人間に
従属する
存在とはみなしていない。【7】もちろんこのような動物を世話し、
餌をやり、利用するために殺すというような外見的な面では日本とイギリスでもさほど目立つ
相違はない。
7. 日本人にとって犬はそれ自体自由な
自律的な
存在なのである。【8】日本人のペットとか
家畜という考えは、このような
お互いに
独立した主体的な
存在としての人間と犬が交差したところに成立してい∵る。
実際ごく最近まで犬をつないでおくとか囲いに入れておくという
習慣は日本にはなかった。【9】犬はあたりを自由勝手に歩き回り残飯やごみをあさる。
8. 勝手口に
現れる犬に
餌を
与えているうちに、いつのまにかうちの犬になることもしばしばであった。二
軒以上の家で同じ犬をうちの犬だと思っていたなどということもあった。【0】また犬は家の人の知らぬ間に、
縁の下などで
子供を生む。これも犬の勝手である。ところが家人にとっては、いりもしない
厄介者を
しょい込むことは
困る。こんな場合に、犬を最も人通りの多い橋のたもとなどに
捨てに行くのだ。
9.
捨てる人は、いらぬ犬を自分の生活
圏から遠ざけて、不必要なかかわりを
絶つことだけが目的で、その犬を何も殺すことはないのである。人通りが多ければ、
誰か仔犬を
欲しい人がいて、拾って行くかも知れない。事実、多くの家で犬を
飼うようになるいきさつは、
子供が拾ってきたからしょうがなく、置いてしまったというのが多かった。
10. イギリス人は
家畜とは人間が完全に
支配すべき、それ自身は
自律性を持たない
存在と考えている。犬は人間が人間のために利用する
従属的な
存在であるから、
逆に一切を
面倒見る
責任が人間にある。不要な犬や、
回復の
難しい病気にかかった犬を、自分の手で殺すのは、生きるも死ぬも
支配者としての人間が決めてやるべきだという考えに
基づいている。
11. だから日本人のように、犬を
捨てたりすると、人間としての
責任をはたしていないと
非難するのだ。
従って彼らにとっては、犬を安楽死させることが正しい犬の
扱い方となる。一口に言えば、
徹底的な人間中心的動物観なのである。何が
残酷で何が
残酷でないかは人間のきめることなのだ。だから
一般にヨーロッパ人の
残酷という考∵えは温血動物止まりなのである。
12. そこで日本で犬が
捨てられるといって、犬のために悲しむイギリスの
婦人も、大正エビは生きたまま熱湯に
投げ込んで料理するのが一番よいと言って平然としている。また食べるためでなく、楽しむために魚を
釣るのも
残酷ではないのだ。大きなカジキマグロと何時間も海の上で全力を
尽くして戦うことは
素晴らしいスポーツなのであって、魚が苦しむだろうと考えないのも同じ理由である。
13. もちろんイギリス人でも日本人でも、
一般の人はいま
述べたような動物観、生命観をはっきり
意識しているわけではない。聞けばいろいろと
理屈づけはするだろうが、人々を
無意識に動かしている
基本的な
価値体系の
枠組みというものは、実は深くかくれているのである。
14. 日本の南極
観測隊が、氷にとじ
込められてヘリコプターでやっと
脱出した時、連れていった
樺太犬を置き去りにしてきたことがあった。この時も日本はむろん、外国からも
非難の声があがった。
15. 隊員たちは、ただ
可愛がっていた犬たちを殺すにしのびなかったのである。
誰も犬どもが
翌年まで生きのびようとは考えなかった。それでも殺す気にはなれないのだ。ところがどうであろう。
翌年観測隊が
再び昭和
基地を
訪れたとき、二頭が
生存していたのだ。殺さなくてよかったと隊員達は思ったに
違いない。人間本位、人間中心の
家畜の始末法とは
違い、ここでは日本人の動物
処理法の方が勝ったのである。少なくとも、犬の幸福を中心に考えればである。
長文 9.3週
1. 【1】人間および動物を通して、
広義のあいさつ行動は、一体どのような時に起こるものだろうか。第一に考えられるのは、
個体と
個体との出会いである。【2】
互いに見知らぬ者どうしが出会う時は言うまでもなく、すでに知り合っている者の間でも、出会いが
ある程度の
離別の後で起こった場合には、動物・人間を問わず
一般にあいさつ行動が見られる。
2. 【3】未知の者どうしの出会いでは、相手の
素性や気持ちがわからぬことからくる不安と
警戒の念が、特にあいさつ行動を要求するのである。【4】そこであいさつを行なうことによって、何よりもまず、相手に対して
敵意、害意のないことを
示し、同時に不安からくる相手の
攻撃本能の発動を
抑える、つまり、相手をなだめ、安心させるのである。
3. 【5】人間の場合、出会いのあいさつ
行為は、相手が以後仲よく共に行動してゆける仲間かどうかの、身元
確認にもつながっている。そのためには、あいさつがそれぞれの社会で、文化的に
慣習化されている一定の形式にしたがって行なわれることが必要となる。【6】この
性質を強くもった、やや
特殊なあいさつとしては、
仁義や
敵味方を
暗闇で
判別するのに用いられる合言葉などがあげられる。
4. 毎日
一緒に
暮らしている家族の場合でも、また同じ学校や
職場に通うものどうしでも、一夜明けた朝の出会いの時には、必ずあいさつをする。【7】社会生活を
営む人間にとって、別れて時を
過ごすということは、
私たちが思っている以上に、他者に対する言い知れぬ不安をつのらせるものらしい。
5. 【8】たしかに
誰かと
一緒にいるときは、その人の気持ちの変化についていきやすいし、同じ
状況の下にいるわけだから、自分と相手との
相互関係もわかっている。【9】ところがいったん
離れてしまうと、その間は、二人別々の
経験をすることになるため、気持ちのズレや考え方の
食い違いが生じてしまう
可能性がある。だからこそ∵
再び出会ったとき、両者の気持ちや関係が、別れる前と同じで変わっていないことを
確認したいのである。【0】このことは、なぜ人間は別れる時にもあいさつをするのかという問題にもつながっていく。
6.
私たちが別れの
際にあいさつをする理由は、
再び会う時まで、今別れる時と同じ親愛の気持ち、同一の
帰属感を相手が
抱き続けることを、あらかじめ
確認しておきたいのである。
7. このような
解釈が正しいと思われる理由は、次のような事実の意味を考えてみればわかる。人間でも動物でも、短い別れの後の出会いの
際のあいさつと、長い
別離の後に起こった
再会時のあいさつとでは、その入念さ、強さが
異なるのである。(
中略)
8. 動物の場合も同じで、旅行などで主人が長い間家をあけた後
帰宅したようなとき、
飼犬が喜びのあまり
飛び跳ねて主人を
迎えることは、犬を
飼ったことのある人なら
誰でも知っているとおりである。しかし毎日何度も主人の顔が見える時は、これほどの
大騒ぎはしない。人間と動物のあいさつ行動で大きく
違う点は、動物は先の
予測ができないため、
別離のあいさつがないことである。
9. さて長期間の別れの前後のあいさつは、いま
述べたように長く
複雑なものとなる上に、
餞別とかおみやげといった物的なしるしを
贈ることによって、さらなる
補強を受けることも多い。このように見てくると、
私たちにとって
互いに別れているということが、どれほど不安で心配なものなのかが、よく
理解できると思う。
10.(
鈴木孝夫の文章による)
長文 9.4週
1.「ただいま」
2.「ゆたか、ちょっときなさい」
3. お帰りの返事もなく、
呼びつけたお父さんの声は、いつもより強かった。
4.「お前か、
猫をひろってきたのは」
5.
居間にはいるなり、耳につきつけられた言葉に足がすくんだ。
6.「カラスが
狙っていたから……。食べられちゃうから……」
7.「今から、もどしてきなさい。元のところへ……」
8.「……」
9. いやだと思った。それでも口にはだせなかった。
10.「お父さんは、
猫の毛アレルギーなの。
子供のころ、ぜんそくをわずらったことがあるの、それ、
猫の毛が
原因かもしれないんだって」
11.「友だちで、
飼ってくれる人さがすから……」
12.「いなかったらどうするの」
13. そう言った、お母さんの
脇で、お父さんがこっちを見ていた。にらまれているようで、目をあげられなかった。
14.「それまで、
納屋で
飼うから、自分で生きていかれるようになったら、のら
猫にするから」
15.「聞き分けのないやつだなあ、のら
猫を
増やしてどうするんだ。のら
猫のせいで
迷惑こうむっている人間のことは、どうなるんだ」
16.「……」
17.「とにかく、うちじゃ
飼えないから、元のところにもどしてきなさい。お前が悪いんじゃない、最初にすてた人間が悪いんだ。うちで育てて、のら
猫を
増やしたら、うちが悪者にされる。分かるな……」
18.「……」
19. もう口ごたえはできなかった。
20.「今からいってきなさい」
21.「だれか、
猫の好きな人がひろってくれるかもしれないでしょ」
22. そう付け加えたお母さんの言葉は、声だけやさしかった。ゆたかは、言葉をうしなったままに立ち上がった。∵
23.「待ちなさい。これミルクとお皿。ひろってくれる人があらわれるまでに、死んじゃうと
困るから……」
24. お母さんが差しだした、
牛乳パックとプラスチックの皿を受け取り、ゆたかは
納屋に歩いた。歩きながら、こうなることは、初めから分かっていたような気がした。
25.
納屋に入ると、その気配を感じたのか、
子猫たちが鳴きだした。
納屋の電灯をつけると、けんめいに
伸び上がって、愛を求める
子猫たちの
姿があった。たった二つの、こんな小さな命でさえ、まもってやることのできない自分のことが、みじめでならなかった。大きくなって、自分で働きだしたら、ぜったい、お父さんの言うことも、お母さんの言うことも聞かない。そう思いながら、
子猫の入った箱にふたをした。
子猫たちが、キーキー鳴きながら、助けてよと、うったえかけるように箱の中を動きまわった。
26. 公園から見える
入り江に街灯の光がゆれている。古本屋のおじいさんの家に、明かりの気配はなく、
廃屋が、自分のしでかした
罪のきずあとのようにたたずんでいた。
27. ゆたかは、指にミルクをつけて
子猫たちの口にもっていき、立ち去れない思いのままに時間を
過ごしていた。
子猫は、ミルクのついた指にしゃぶりついて、けんめいに
吸い込もうとする。そのざらついた
舌の
感触が、指先に心地よい。
28.(
中略)
29. 生きようとしている
子猫たちを見つめているうちに、ゆたかは、どうしても助けてやりたくなった。ここに放っておけば、明日の朝にはカラスがくるだろうと思った。頭の中では、
子猫たちをかくしておける安全な場所をさがしまわっていた。自分の家で、見つからない場所は、もうなかった。あそこ、ここと思いをどんなにめぐらせても、人の目のないところは思い当たらなかった。
30.(
笹山久三「ゆたかは鳥になりたかった」)