1.「ただいま」
2.「ゆたか、ちょっときなさい」
3. お帰りの返事もなく、
呼びつけたお父さんの声は、いつもより強かった。
4.「お前か、
猫をひろってきたのは」
5.
居間にはいるなり、耳につきつけられた言葉に足がすくんだ。
6.「カラスが
狙っていたから……。食べられちゃうから……」
7.「今から、もどしてきなさい。元のところへ……」
8.「……」
9. いやだと思った。それでも口にはだせなかった。
10.「お父さんは、
猫の毛アレルギーなの。
子供のころ、ぜんそくをわずらったことがあるの、それ、
猫の毛が
原因かもしれないんだって」
11.「友だちで、
飼ってくれる人さがすから……」
12.「いなかったらどうするの」
13. そう言った、お母さんの
脇で、お父さんがこっちを見ていた。にらまれているようで、目をあげられなかった。
14.「それまで、
納屋で
飼うから、自分で生きていかれるようになったら、のら
猫にするから」
15.「聞き分けのないやつだなあ、のら
猫を
増やしてどうするんだ。のら
猫のせいで
迷惑こうむっている人間のことは、どうなるんだ」
16.「……」
17.「とにかく、うちじゃ
飼えないから、元のところにもどしてきなさい。お前が悪いんじゃない、最初にすてた人間が悪いんだ。うちで育てて、のら
猫を
増やしたら、うちが悪者にされる。分かるな……」
18.「……」
19. もう口ごたえはできなかった。
20.「今からいってきなさい」
21.「だれか、
猫の好きな人がひろってくれるかもしれないでしょ」
22. そう付け加えたお母さんの言葉は、声だけやさしかった。ゆたかは、言葉をうしなったままに立ち上がった。∵
23.「待ちなさい。これミルクとお皿。ひろってくれる人があらわれるまでに、死んじゃうと
困るから……」
24. お母さんが差しだした、
牛乳パックとプラスチックの皿を受け取り、ゆたかは
納屋に歩いた。歩きながら、こうなることは、初めから分かっていたような気がした。
25.
納屋に入ると、その気配を感じたのか、
子猫たちが鳴きだした。
納屋の電灯をつけると、けんめいに
伸び上がって、愛を求める
子猫たちの
姿があった。たった二つの、こんな小さな命でさえ、まもってやることのできない自分のことが、みじめでならなかった。大きくなって、自分で働きだしたら、ぜったい、お父さんの言うことも、お母さんの言うことも聞かない。そう思いながら、
子猫の入った箱にふたをした。
子猫たちが、キーキー鳴きながら、助けてよと、うったえかけるように箱の中を動きまわった。
26. 公園から見える
入り江に街灯の光がゆれている。古本屋のおじいさんの家に、明かりの気配はなく、
廃屋が、自分のしでかした
罪のきずあとのようにたたずんでいた。
27. ゆたかは、指にミルクをつけて
子猫たちの口にもっていき、立ち去れない思いのままに時間を
過ごしていた。
子猫は、ミルクのついた指にしゃぶりついて、けんめいに
吸い込もうとする。そのざらついた
舌の
感触が、指先に心地よい。
28.(
中略)
29. 生きようとしている
子猫たちを見つめているうちに、ゆたかは、どうしても助けてやりたくなった。ここに放っておけば、明日の朝にはカラスがくるだろうと思った。頭の中では、
子猫たちをかくしておける安全な場所をさがしまわっていた。自分の家で、見つからない場所は、もうなかった。あそこ、ここと思いをどんなにめぐらせても、人の目のないところは思い当たらなかった。
30.(
笹山久三「ゆたかは鳥になりたかった」)