長文集  9月4週  ○「ただいま」  ni-09-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2021/10/15 17:26:11
「ただいま」
「ゆたか、ちょっときなさい」
 お帰りの返事もなく、呼びつけたお父さん
の声は、いつもより強かった。
「お前か、猫をひろってきたのは」
 居間にはいるなり、耳につきつけられた言
葉に足がすくんだ。
「カラスが狙っていたから……。食べられち
ゃうから……」
「今から、もどしてきなさい。元のところへ
……」
「……」
 いやだと思った。それでも口にはだせなか
った。
「お父さんは、猫の毛アレルギーなの。子供
のころ、ぜんそくをわずらったことがあるの
、それ、猫の毛が原因かもしれないんだっ 
て」
「友だちで、飼ってくれる人さがすから……

「いなかったらどうするの」
 そう言った、お母さんの脇で、お父さんが
こっちを見ていた。にらまれているようで、
目をあげられなかった。
「それまで、納屋で飼うから、自分で生きて
いかれるようになったら、のら猫にするから

「聞き分けのないやつだなあ、のら猫を増や
してどうするんだ。のら猫のせいで迷惑こう
むっている人間のことは、どうなるんだ」
「……」
「とにかく、うちじゃ飼えないから、元のと
ころにもどしてきなさい。お前が悪いんじゃ
ない、最初にすてた人間が悪いんだ。うちで
育てて、のら猫を増やしたら、うちが悪者に
される。分かるな… …」
「……」
 もう口ごたえはできなかった。
「今からいってきなさい」
「だれか、猫の好きな人がひろってくれるか
もしれないでしょ」
 そう付け加えたお母さんの言葉は、声だけ
やさしかった。ゆたかは、言葉をうしなった
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ままに立ち上がった。∵
「待ちなさい。これミルクとお皿。ひろって
くれる人があらわれるまでに、死んじゃうと
困るから……」
 お母さんが差しだした、牛乳パックとプラ
スチックの皿を受け取り、ゆたかは納屋に歩
いた。歩きながら、こうなることは、初めか
ら分かっていたような気がした。
 納屋に入ると、その気配を感じたのか、子
猫たちが鳴きだした。納屋の電灯をつけると
、けんめいに伸び上がって、愛を求める子猫
たちの姿があった。たった二つの、こんな小
さな命でさえ、まもってやることのできない
自分のことが、みじめでならなかった。大き
くなって、自分で働きだしたら、ぜったい、
お父さんの言うこと も、お母さんの言うこ
とも聞かない。そう思いながら、子猫の入っ
た箱にふたをした。子猫たちが、キーキー鳴
きながら、助けてよ と、うったえかけるよ
うに箱の中を動きまわった。
 公園から見える入り江に街灯の光がゆれて
いる。古本屋のおじいさんの家に、明かりの
気配はなく、廃屋が、自分のしでかした罪の
きずあとのようにたたずんでいた。
 ゆたかは、指にミルクをつけて子猫たちの
口にもっていき、立ち去れない思いのままに
時間を過ごしていた。子猫は、ミルクのつい
た指にしゃぶりついて、けんめいに吸い込も
うとする。そのざらついた舌の感触が、指先
に心地よい。
(中略)
 生きようとしている子猫たちを見つめてい
るうちに、ゆたかは、どうしても助けてやり
たくなった。ここに放っておけば、明日の朝
にはカラスがくるだろうと思った。頭の中で
は、子猫たちをかくしておける安全な場所を
さがしまわっていた。自分の家で、見つから
ない場所は、もうなかった。あそこ、ここと
思いをどんなにめぐらせても、人の目のない
ところは思い当たらなかった。

(笹山久三「ゆたかは鳥になりたかった」)