1. 【1】イギリス人は犬を
躾けることが上手である。
私の家の前が英国大使館の
公邸で、三年ごとに
交替するどの家族も、必ず犬をつれてくる。もう七、八家族かわったと思うが、来る犬来る犬が実に見事と言う他ないほどぎょうぎがよい。
2. 【2】家の中で不必要にほえたてたり
騒いだりすることがないどころか主人と連れ立って散歩する時でも実におとなしい。よその犬と行き会っても、ほえもしなければ
駆け寄ることもしない。【3】主人の
傍らについて前を見てただ
黙々と歩いていく。むろん
引綱も
鎖もなしである。
3. これに
比べると日本人の犬は、こちらが
恥ずかしくなるほどめちゃめちゃである。
跳びかかったり、ほえたり、大きな犬の場合など主人が
押さえるのに苦労する。【4】犬に引かれて、小走りになる人も多い。
狭い道で犬をつれた日本人同士が出会う時がこれまた面白い。小さな弱そうな犬をつれた人は、横道にそれたり、引き返すことさえある。【5】女の人などは、つれている小さな犬をかばって
抱き上げ、足早に通りすぎて行くこともしばしばである。
4.(
中略)
5. このようなはっきりした
違いは一体何が
原因なのだろうか。【6】
私の考えでは人間と動物の
お互いの位置づけが、イギリス人と日本人ではまったく
異なることから出発していると思う。
6. 日本人は、犬、
猫そして馬のような
家畜を人間の完全な
支配下に位置するもの、人間に
従属する
存在とはみなしていない。【7】もちろんこのような動物を世話し、
餌をやり、利用するために殺すというような外見的な面では日本とイギリスでもさほど目立つ
相違はない。
7. 日本人にとって犬はそれ自体自由な
自律的な
存在なのである。【8】日本人のペットとか
家畜という考えは、このような
お互いに
独立した主体的な
存在としての人間と犬が交差したところに成立してい∵る。
実際ごく最近まで犬をつないでおくとか囲いに入れておくという
習慣は日本にはなかった。【9】犬はあたりを自由勝手に歩き回り残飯やごみをあさる。
8. 勝手口に
現れる犬に
餌を
与えているうちに、いつのまにかうちの犬になることもしばしばであった。二
軒以上の家で同じ犬をうちの犬だと思っていたなどということもあった。【0】また犬は家の人の知らぬ間に、
縁の下などで
子供を生む。これも犬の勝手である。ところが家人にとっては、いりもしない
厄介者を
しょい込むことは
困る。こんな場合に、犬を最も人通りの多い橋のたもとなどに
捨てに行くのだ。
9.
捨てる人は、いらぬ犬を自分の生活
圏から遠ざけて、不必要なかかわりを
絶つことだけが目的で、その犬を何も殺すことはないのである。人通りが多ければ、
誰か仔犬を
欲しい人がいて、拾って行くかも知れない。事実、多くの家で犬を
飼うようになるいきさつは、
子供が拾ってきたからしょうがなく、置いてしまったというのが多かった。
10. イギリス人は
家畜とは人間が完全に
支配すべき、それ自身は
自律性を持たない
存在と考えている。犬は人間が人間のために利用する
従属的な
存在であるから、
逆に一切を
面倒見る
責任が人間にある。不要な犬や、
回復の
難しい病気にかかった犬を、自分の手で殺すのは、生きるも死ぬも
支配者としての人間が決めてやるべきだという考えに
基づいている。
11. だから日本人のように、犬を
捨てたりすると、人間としての
責任をはたしていないと
非難するのだ。
従って彼らにとっては、犬を安楽死させることが正しい犬の
扱い方となる。一口に言えば、
徹底的な人間中心的動物観なのである。何が
残酷で何が
残酷でないかは人間のきめることなのだ。だから
一般にヨーロッパ人の
残酷という考∵えは温血動物止まりなのである。
12. そこで日本で犬が
捨てられるといって、犬のために悲しむイギリスの
婦人も、大正エビは生きたまま熱湯に
投げ込んで料理するのが一番よいと言って平然としている。また食べるためでなく、楽しむために魚を
釣るのも
残酷ではないのだ。大きなカジキマグロと何時間も海の上で全力を
尽くして戦うことは
素晴らしいスポーツなのであって、魚が苦しむだろうと考えないのも同じ理由である。
13. もちろんイギリス人でも日本人でも、
一般の人はいま
述べたような動物観、生命観をはっきり
意識しているわけではない。聞けばいろいろと
理屈づけはするだろうが、人々を
無意識に動かしている
基本的な
価値体系の
枠組みというものは、実は深くかくれているのである。
14. 日本の南極
観測隊が、氷にとじ
込められてヘリコプターでやっと
脱出した時、連れていった
樺太犬を置き去りにしてきたことがあった。この時も日本はむろん、外国からも
非難の声があがった。
15. 隊員たちは、ただ
可愛がっていた犬たちを殺すにしのびなかったのである。
誰も犬どもが
翌年まで生きのびようとは考えなかった。それでも殺す気にはなれないのだ。ところがどうであろう。
翌年観測隊が
再び昭和
基地を
訪れたとき、二頭が
生存していたのだ。殺さなくてよかったと隊員達は思ったに
違いない。人間本位、人間中心の
家畜の始末法とは
違い、ここでは日本人の動物
処理法の方が勝ったのである。少なくとも、犬の幸福を中心に考えればである。