ニシキギ の山 8 月 2 週 (4)
○私の好きな遊び   池新
 水と緑と土は

 水と緑と土は、もともと一つでした。なぜなら「水のないところ」といえば、どこでしょうか。さばくや、はだかの岩山ですね。そこには緑も土もありませんね。では「緑のないところ」はどこでしょう。やはりさばくやはだかの岩山ですね。そこには水も土もありません。「土のないところ」といってもおなじです。水と緑と土は、そんなかんけいにあったのです。
 土があってこそ、そこから緑がはえました。緑がはえれば、木や草の根は、土をしっかりと大地につなぎとめました。木の葉も枝も、土に返されて、土があつくなりました。土があつくなれば、そこからもっとたくさんの緑が、大地をおおうようになりました。緑がゆたかになれば、それはまた土に返されて、いよいよ土をあつくさせました。森の中でくらす動物たちも、みんな土になりました。土から生まれたものが土に返されて、いよいよ土はあつくなり、それがさらに、あたらしい生命をはぐくみました。
 そうした自然のじゅんかんが、きちんとくりかえされてこそ、土は、雨や風にはぎとられることもなく、大地につなぎとめられて、たっぷりと、水をすいこんでくれたのです。水をすいこんだ土は、もっとたくさんの緑をそだてました。
 エジプトやメソポタミアに、大むかし、文明がさかえたのも、そこにゆたかな緑があり、土があり、水がながれていたからです。その文明がほろびていったのも、土をうしなったからでした。水をうしない、食糧をうしなって、人間は生きていけなくなったからでした。
 土をやしなうということは、なんとたいせつなことでしょう。ふった雨も、土からもらったものも、土に返すということは、なんとたいせつなことでしょう。
 土をそまつにしてきたわたしたちの社会は、いま、いっぽうで水をあばれさせ、いつぽうで水がたりなくて、こまっています。いまのこのしゅんかんも、こうずいはつくりだされています。森林をあれさせたり、山の手入れをしなかったり、水田をつぶしたり、道路をほそうしたり、下水で雨水をすてたりすることが、みんなこうずいにつながっているのです。そのぶんだけわたしたちの国土は、かわいていきます。そのぶんだけわたしたちは、水をうしなっていくのです。

「川は生きている」(富山和子)より抜粋編集