長文集  7月4週  ○久助君の身体のなかに  ni-07-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2021/10/15 17:26:11
 久助君の身体のなかに漠然とした悲しみが
ただよっていた。
 昼のなごりの光と、夜のさきぶれの闇とが
、地上でうまくとけあわないような、妙にち
ぐはぐな感じのひとときであった。
 久助君の魂は、長い悲しみの連鎖のつづき
をくたびれはてなが ら、旅人のようにたど
っていた。
 六月の日暮の、微妙な、そして豊富な物音
が、戸外にみちてい た。それでいて静かだ
った。
 久助君は目を開いて、柱にもたれていた。
何かよいことがあるような気がした。いやい
やまだ悲しみはつづくのだという気もした。
 すると遠いざわめきのなかに、一こえ仔山
羊のなき声がまじったのをききとめた。久助
君はしまったと思った。生まれてからまだ二
十日ばかりの仔山羊を、ひるま川上へつれて
いって、昆虫を追っかけているうちついわす
れてきてしまったのだ。しまった。それと同
時に、仔山羊はひとりで帰ってきたのだと確
信をもって思った。
 久助君は山羊小屋の横へかけ出していった
。川上の方をみた。
 仔山羊は向こうからやってくる。
 久助君にはほかのものは何も眼にはいらな
かった。仔山羊の白いかれんな姿だけが、―
―仔山羊と自分の地点をつなぐ距離だけがみ
えた。
 仔山羊は立ちどまっては川縁(かわっぷち
)の草をすこし喰( は)み、またすこし走
っては立ちどまり、無心に遊びながらやって
くる。
 久助君はむかえにいこうとは思わなかった
。もうたしかにここまでくるのだ。
 仔山羊は電車道もこえてきたのだ。電車に
もひかれずに。あの土手のこわれたところも
うまくわたったのだ。よく川に落ちもせず 
に。
 久助君は胸が熱くなり、なみだが眼にあふ
れ、ぽとぽとと落ち た。
 仔山羊はひとりで帰ってきたのだ。
 久助君の胸に、今年になってからはじめて
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の春がやってきたよ∵うな気がした。
 久助君はもう、兵太郎君が死んではいない
、きっと帰ってくる、という確信を持ってい
たので、あまりおどろかなかった。
 教室にはいると、そこに――いつも兵太郎
君のいたところに、洋服に着かえた兵太郎君
が白くなった顔でにこにこしながら腰かけて
いた。
 久助君は自分の席へついてランドセルをお
ろすと、眼を大きく開いたまま、兵太郎君を
みてつっ立っていた。そうすると自然に顔が
くずれて、兵太郎君といっしょに笑い出した

 兵太郎君は海峡の向こうの親戚の家にもら
われていったのだが、どうしてもそこがいや
で帰ってきたのだそうである。それだけ久助
君は人からきいた。川のことがもとで病気を
したのかしなかったのかはわからなかった。
だがもうそんなことはどうでもよかった。兵
太郎君は帰ってきたのだ。
 休憩時間に兵太郎君が運動場へはだしでと
び出していくのを窓からみたとき、久助君は
、しみじみこの世はなつかしいと思った。そ
してめったなことでは死なない人間の生命と
いうものが、ほんとうに尊く、美しく思われ
た。

(新美南吉「川」)