ニシキギ の山 7 月 3 週 (4)
○暑い日の思い出   池新
 明治にはいると

 明治にはいると、日本は外国の文化をとりいれて、近代国家としての道をあゆみはじめました。そのさいしょのしごとが、やはり治水でした。でもそれは、むかしのような治水ではありませんでした。川に高い堤防をきずき、どこまでもつなげていったのです。
 人びとはもう、洪水(こうずい)といっしょにくらすことに、うんざりしていました。大雨のたびに水につかったり、船でにげたりするのでは、たまらないと思うようになりました。台風の年でも、お米はたくさんとりたいと考えました。雨のたびに水たまりのできるじめじめした土地も、なんとかしてかわかしたいと考えました。どろんこ道もいやでした。ふった雨を、とにかく早く、海へすててしまいたいと思ったのです。
 堤防で川をしめきってしまえば、もう安全です。ふった雨は、その川の中におしこめて、海へつきだしてしまえばよいのです。川をしめきれば、人間は川のすぐそばに住むこともできます。土地はたくさんつかえます。そして、そのころにはもう、日本人は機械をつかって、長い長い堤防をきずいていくことが、できるようになっていたのでした。
 こうして大がかりな堤防工事が、下流からすすめられていきました。堤防で守られたところには、たくさんの人があつまってきました。家がたち、工場ができ、道路がつくられました。町はどんどん発展していきました。明治から大正へ。大正から昭和へ。あたらしい時代の日本は、この堤防に守られて建設されてきたのでした。
 「これで水害とはおわかれだ。」さいしょのうち、だれもがそう考えました。ところが、どうしたことでしょう。水害はまえよりもひどくなったのです。堤防をつくればつくるほど、洪水も、つぎにやってくるときには、もっと大きくなりました。水害のたびに堤防は高く、かさ上げされました。でも、何十年かすると、まえには、考えられなかったような大水害がおこったのです。まるでいたちごっこでした。
 どうしてそんなことになったのでしょう。
 堤防ができると、人びとは安心して、まわりの土地にあつまってきます。森林や水田がつぶされて、家や工場がたてられます。いままで水につかっていた土地にも、たてものがたてられます。そのぶんだけ水はいちどにどっと、川へおしよせることになりました。そのぶんだけ、川のこうずいがふえたのです。水のいきおいもましたのです。

「川は生きている」(富山和子)より抜粋編集