長文 7.2週
1. 【1】「そこをなんとか」という言い方はきわめてあいまいである。「そこ」とは何をさすのか。「なんとか」とはどういうことなのか。おそらく、これをそのまま外国語に翻訳ほんやくしたら、まったく意味をなさないだろう。【2】いや、意訳いやくしても通じまい。だいいち、意訳いやくのしようがない。強いて説明するなら、「あなたはそのような理由で拒絶きょぜつなさるが、その理由をもう一度考え直して、わたしの要求に応じおう てくださるまいか」とでも言うほかあるまい。
2. 【3】しかし、外国人が理由をあげてたのみを断ることわ 場合は、「だから、わたしはあなたの願いをお引き受けするわけにはいかない」という確固たるかっこ  立場を表明しているわけで、したがって、もうそれ以上いくらたのんでも、応じおう てくれる余地よちはない。【4】相手の要求をいれる余地よちがないからこそ、当人は断っことわ たのである。
3. ところが、日本人は義理ぎり人情にんじょうにからまれて、どんなに明白な拒絶きょぜつの理由があろうと、相手に熱心にたのまれたら、それをむげに断ることわ のは、何か気がひけるように思ってしまう。【5】われわれはそれを「義理ぎり人情にんじょう」のせいにするが、もともと義理ぎり人情にんじょうとは、正反対の概念がいねんなのである。「義理ぎり」とは、正当な理のことであり、「人情にんじょう」とは、その理を解きほぐすと    じょうを意味する。【6】このように、正反対のものを一緒いっしょにし、折衷せっちゅうして、日本人はそこに独特どくとく判断はんだん領域りょういき設定せっていするのだ。それは、別言すれば「情状じょうじょう酌量しゃくりょう」といってもよい。【7】つまり、一切のことがらは、それ自体完結しているのではなく、時と場合に応じおう て、伸縮しんしゅく自在じざいの形をとっているわけである。
4. 【8】だから、日本人のノーは、けっして絶対ぜったい的な否定ひていではなく、その一部にイエスを含みふく 、イエスは、その中にノーの要素ようそをあわせ持っている。【9】「日本人の不可解ふかかいな笑い」といわれるものは、その時その時の、こうした判断はんだんから生まれているようにわたしには思われ∵る。それを勘案かんあんするあいだ、日本人は微笑びしょうしているのである。とうぜん、外国人には、それが狡猾こうかつなごまかしのように映るうつ 。【0】けれど日本人は、これこそが人情にんじょう、すなわち、もっとも人間的な対応たいおうとみなすのだ。
5. じっさい、「そこをなんとか」という表現ひょうげんの中には、日本人のものの考え方が、じつによくあらわれている。その考え方とは、すべては完全ではない、ということだ。そこで、たのむほうも、たのまれるほうも、いくばくかの部分が必ず保留ほりゅうされていることを前提ぜんていに話し合う。したがって、あと、どのくらい可能かのうせい余地よちがあるか、その「残された部分」を両者は見きわめようとし、この言葉が頻出ひんしゅつするわけである。
6. 日本の絵画の特質とくしつに「余白よはく」の美というのがある。それに対してイスラムの芸術げいじゅつは、まったくぎゃくで、空白への恐怖きょうふとも思えるほど、びっしりと空間をうめつくす。モスクの絢爛けんらんたる装飾そうしょくに、それがよく現れあらわ ている。
7. もともと砂漠さばくの民であるアラブ人は、けっして妥協だきょう余地よち認めみと ない。それが、こうした芸術げいじゅつ性格せいかくにも表現ひょうげんされているのではなかろうか。
8. ところで、日本人の好む「余白よはく」だが、これは言うまでもなく、可能かのうせいを意味する。画家は、そこに何かを描こえが うと思えば、いくらでも描きえが 足すことができるのだ。しかし、かれ描かえが ない。描かえが ないことによって、鑑賞かんしょう者にその部分をあずける。「余白よはく」は画家と鑑賞かんしょう者の共有の空間なのである。そして「余白よはく」をそれぞれが、想像そうぞうによってどのようにうめるか、当の作品は作者と鑑賞かんしょう者、双方そうほうの「せめぎあい」にかかっている、といってもよかろう。「そこをなんとか」することにより、日本の芸術げいじゅつも、その価値かちを決められるわけである。

9.(森本哲郎てつろうの文章による)