長文 1.1週
1.【1】「うーん、どう書こうかなあ」
2.
私にとって、毎年の
年賀状作りは大変なものだ。なぜかというと、ついつい
凝りすぎてしまうからである。やはり
年賀状は手書き、手作りがいちばんだと思う。【2】父はパソコンで
年賀状を印刷しているが、
私は
断固として手作りにこだわっている。一
枚一
枚、
感謝の思いを
込めながら、
宛名を書く。もちろん、
裏面だってすべてオリジナルの
構図を考えて作っていく。
3. 【3】今年の
年賀状では、いも
判に
挑戦してみた。サツマイモを輪切りにして、
彫刻刀で
削ってハンコにするのだ。かなり大変だったが、
干支である「
卯」や、「
賀正」という文字を
彫った。
4. 【4】そんなふうに手をかけるので、出来上がった
年賀状を出すのはいつもぎりぎりだ。
分厚い年賀状の束をポストに
押し込んで、
私はようやく、安心してお正月を
迎えられる。
5. 【5】しかし、
私の
年賀状作りは、年が明けてもまだ終わらない。毎年必ず、
私が出さなかった意外な人から
年賀状が
届くからだ。こういう
驚きがあることも、新年の楽しみの一つだろう。【6】けれども、もらった
年賀状には返事を書かなければいけない。そうして
私は、またまた
机に向かう羽目になる。
6. 今年のお正月、そんなときに
事件は起きた。
7.【7】「いも
判がない!」
8.
私が
叫ぶと、こたつでくつろいでいた家族が、
一斉にこちらを見た。
一生懸命作ったいも
判が、いつの間にかなくなっていたのだ。これでは返事を書くことができない。
9. 【8】家族を無理やり起こして、こたつ
布団を引きはがしてまで
探した。まるで、去年やり
忘れた大
掃除を今ごろやっているかのようなありさまだった。しかし、それでも見つからない。∵
10. 【9】
私がしょげていると、
飼い犬のユメが足元に
寄ってきた。
慰めてくれるのかと感動したが、よく見ると、その口あたりの毛が赤くなっている。
私はハッとした。
11.「
犯人は、おまえだな!」
12. 【0】そう。なくなったいも
判は、今はユメのお
腹の
中。材料がおいもだっただけに、置いておいたものをユメがぺろりと食べてしまったのだ。
13.「では、おまえをいも
判の代わりに」
14.
私はユメをつかまえると、その肉球に
朱肉をつけて、返事の
年賀状にペタン、と
押した。いも
判ならぬ「いぬ
判」というわけだ。自分のしたことが分かっていないのか、ユメはうれしそうにしっぽを
振っていた。
15.「えーと、
干支じゃないけどごめんね。」
16.
戌年ならよかったのに、と
私は心の中でつぶやいた。だが、これはこれでかわいらしくて、いいかもしれない。
17.「
災い転じて福となす」ということわざもある。こだわって作るのもいいが、とっさにひらめくアイデアで
対処することも大切だ、とわかった気がした。
18.「うん、これでよし!」
19.
私は笑顔で、ユメと顔を見合わせた。
20.(言葉の森長文作成委員会 ι)
長文 1.2週
1. 【1】
そっ啄の機という言葉がある。得がたい好機の意味で使われる。
比喩であって、もとは、
親鶏が、
孵化しようとしている
卵を外からつついてやる、それと
卵の中から
殻を
破ろうとするのとが、ぴったり
呼吸の合うことをいったもののようである。
2. 【2】もし、
卵が
孵化しようとしているのに
親鶏のつつきが
遅れれば、中で
雛は
窒息してしまう。
逆に、つつくのが早すぎれば、まだ
雛になる
準備のできていないのが生まれてくるわけで、これまた死んでしまうほかはない。
3. 【3】早すぎず
遅すぎず。まさにこのときというタイミングが
そっ啄の機である。
4. 自然の
摂理はおどろくほど
精巧らしいから、ほかにもいろいろな形で
そっ啄の機に相当するものがあるに
違いないが、かえる
卵はもっとも
劇的なものといってよかろう。
5. 【4】われわれの頭に
浮かぶ考えも、その初めはいわば
卵のようなものである。そのままでは
雛にもならないし、飛ぶこともできない。温めてかえるのを待つ。
6. 時間をかけて温める必要がある。だからといって、いつまでも温めていればよいというわけでもない。【5】あまり長く放っておけばせっかくの
卵も
腐ってしまう。また反対に、
孵化を急ぐようなことがあれば、
未熟卵として生まれ、たちまち生命を失ってしまう。
7. ちょうどよい時に、
卵を外からつついてやると、
雛になる。【6】たんなる思いつきが、まとまった思考の
雛として生まれかわる。
8. われわれはほとんど毎日のように、何かしら新しい考えの
卵を頭の中で生み落としている。ただそれを自覚しないだけである。これがりっぱな思考に育つのは、
実際にごくまれな
偶然のように考えられている。
9. 【7】
卵はおびただしく生まれているのに、
適時に
殻を
破ってくれるきっかけに
恵まれないために、
孵化することなく、
闇から
闇へ
葬り去られているのであろう。∵
10.
逆に、外から
適当な
刺激が
訪れて、
破るべき
卵の
殻がありさえすれば、
孵化が起こるのにと思われるときもすくなくなかろう。【8】ところがそういう時に
限って、皮肉にも頭の中にちょうどその
段階に達している
卵がない、ということが多い。せっかく、ついばむ力が外から加わっているのに、こうしてむなしく機会を
逸してしまうことになる。
11. 【9】頭の中に
卵が温められていて、まさに
孵化しようとしているときなら、ほんのちょっとしたきっかけがあれば、それで
雛がかえる。この千に一番のかね合いが
難しい。それで
そっ啄の機が
偶然の
符合のように思われるのである。【0】古来、天来の
妙想、インスピレーション、
霊感などといわれてきたのも、それがいかに
稀有のことであるかを物語っている。
12. たとえ
稀有だとしても、起こることは起こっているのである。人間ならだれしも
霊感のきっかけの
訪れは受けるはずで、それをインスピレーションにするか、流れ星のようなものにしてしまうかの
違いにすぎない。これには運ということもある。いくら努力してみても運命の女神がほほえみかけてくれなければ、着想という
雛はかえらないであろうと思われる。もっともどんなに運命が味方してくれても、もとの
卵がないのでは話にならない。人事を
尽くして天命を待つ。
偶然の
奇蹟の起こるのを
祈る。
13. すこし話が
神秘的になってきた。もっと
日常的な次元で考えてみよう。
14. 何でもない人間と人間とが、たまたま知り合いになる。
互いに不思議な
感銘を
与え合って、それがきっかけになって、めいめいの人生がそれまでとは
違ったものになるということがある。出会いである。一期一会だという。
15. ほかの人たちとどれほど親しく交わっていても得られなかったものが、何気ない出会いで
与えられる。ここにも
そっ啄の機が
認められる。われわれはそれと気付かずに、そういう
偶然を一生さがし求∵めつづけているのかもしれない。
16. それにめぐり会えたとき、
奇蹟が起こるというわけだ。
17.
難解な本は一度ではよくわからない。それに
絶望しないで、くりかえし読んでいると、そのうちに
理解できるようになる。読書百
遍意おのずから通ず。古人はそう教えた。思考も同じことで、初めから全体がはっきりすることはすくない。何度も何度も考えているうちに、自然に形をあらわしてくる。
18. 人間にとって
価値のあることは、大体において、時間がかかる。
即興に生まれてすばらしいものもときにないではないが、まず
普通はじっくり時間をかけたものでないと、長い生命をもちにくい。
寝させておく。温めておく。そして、決定的
瞬間の
訪れるのを待つ。そこでことはすべて一挙に
解明される。
19. 『
論語』の
冒頭にある
一句「学ビテ時ニ
之ヲ習フ、
亦説バシカラズヤ」も読書百
遍と同じように考えることができるかもしれない。勉強したことを機会あるごとに
復習していると、
知識がおのずからほんものになって身につく。それが
愉快だというのである。学んで時にこれを習う、
そっ啄の機はいつやってくるかしれない、折にふれて立ち返ってみる必要がある、と教えているのであろうか。
長文 1.3週
1. 【1】ソクラテス(紀元前四七〇
~三九九年)は、おそらく
哲学の歴史をつうじてもっとも
謎めいた人物だろう。ソクラテスはたったの一行も書かなかった。なのにヨーロッパの思想に最大級の
影響をおよぼした一人とされている。【2】ソクラテスがとんでもなくみっともない男だったことはたしかだ。チビで、デブで、目つきが
陰険で、はなは空を向いていた。けれども心は「
金無垢のすばらしさ」だったという。ソクラテスの母親はお
産婆さんだった。【3】そしてソクラテスは自分のやり方を
産婆術にたとえていた。たしかに
子供を産むのは
産婆ではない。
産婆はただその場に立ち会ってお産を手伝うだけだ。ソクラテスは、自分の仕事は人間が正しい
理解を「生み出す」手伝いをすることだ、と思っていた。【4】なぜなら本当の知は自分のなかからくるものだからだ。他人が
接ぎ木することはできない。自分のなかから生まれた知だけが本当の
理解だ。(
中略)
2. 【5】ソクラテスはソフィストたちの同時代人だった。ソフィストたちと同じようにソクラテスも人間と人間の生活を
論じ、自然
哲学者たちの問題にはかかわらなかった。(
中略)【6】けれどもソクラテスは重要なところでソフィストたちとはちがっている。ソクラテスは、自分は
知識(ソフォス)のある人間やかしこい人間ではないと考えていた。だからソフィストたちとは反対に教えてもお金を取らなかった。【7】そうではなくてソクラテスはことばの本当の意味で自分は
哲学者(フィロソフォス)だと名乗ったんだ。フィロソフォスとは「
知恵を愛する人」ということだ。
知恵を手に入れようと努力する人のことだ。(
中略)【8】
哲学者は自分があまりものを知らないということを知っている。だからこそ
哲学者は本当の
認識を手に入れようといつも心がけている。ソクラテスはそういうめったにいない人間だった。ソクラテスは自分は人生や世界について知らない、とはっきり自覚していた。【9】そしてここが大切なところだよ、自分がどれほどものを知らないかということでソクラテスはなやんでいたのだ。
哲学者とは自分にはわけのわからないことがたくさんあることを知っている人、そしてそのことになやむ人だ。だから
哲学者はひとり合点の
知識でもってはな高だかの
半可通よりもずっとかしこいのだ。∵【0】「もっともかしこい人は自分が知らないということを知っている人だ」とはもう言ったよね。ソクラテスはこういう言い方もしている。わたしは自分が知らないというたった一つのことを知っている、とね。このことば、メモしておくこと。なぜなら
哲学者たちのあいだでもこんな告白はめったにないからだ。さらにはこんなことをおおっぴらに言うのは、命にかかわるたいへん
危険なことでもあった。いつの世にも
疑問を投げかける人はもっとも
危険な人物なのだ。答えるのは
危険ではない。いくつかの問いのほうが千の答えよりも多くの
起爆剤をふくんでいる。『
裸の王様』の話は知っているよね? 本当は王様はまっ
裸なのに家来のだれ一人そう言う勇気がなかった。ふいに子どもがさけぶ。王様は
裸だ、と。勇気ある子どもだね、ソフィー。これと同じようにソクラテスは人はどれほどものを知らないかをはっきりさせた。
裸だということをつきつけた。つまりこういうことだ。ぼくたちはふさわしい答えがおいそれとは見つからないような重要な問いをつきつけられる。ここから先、道は二つある。一つは自分と世界を全部ごまかして、知る
値打ちのあることはすべて知っているみたいなふりをする道。もう一つは大切な問いには目をつぶって前に進むことをすっかりあきらめるという道。とまあ人間は二種類に分かれるんだね。少なくとも人間は思いこみが強くてかたくなか、どうでもいいや、と思っているかのどちらかだ。これはトランプのカードが分けられるようなものだ。黒のカードはこっちの山に、赤のカードはそっちの山にと積みあげていく。ところがジョーカーが出てくる。これはハートでもクラブでもないし、ダイヤでもスペードでもない。ソクラテスはアテナイのジョーカーだったんだ。
彼は思いこみが強くてかたくなでもなかったし、どうでもいいと思ってもいなかった。ソクラテスは自分は知らないということを知っていただけだ。そしてそのことを思いつめていた。それでソクラテスは
哲学者になったのだ。あきらめない人、
知恵を手にいれようとあくことなく努める人に。
3.(ヨースタイン・ゴルデル)
長文 1.4週
1. ぼんゴロ二つをだしただけで、ぼくらはアオたちを無得点におさえ、なんなく一回表をおえた。てんで気をよくしちゃったぼくらは、いきおいにのって
攻撃にうつった。
2.「小細工よりも、じゃかすか、かっとばしなさい。むこうのボールは、内角低めをねらってるだけだから、バットを短めに持ってあわせていくのよ。」
3. キリコがしんけんな目つきで、ぼくらに作戦をあたえてくれる。いまじゃキリコはぼくらの
監督けんコーチで、ぼくらに負けないくらい試合に身を入れてくれるんだ。こいつはいっそうぼくらをはりきらせた。
4. 試合は五回戦だけど、やつらもなかなかねばる。それに四回戦になると、暑さのせいか、ジックのボールのスピードがおちた。こいつをばちばちひっぱたかれて、
二塁打一つ、
三塁打二つを取られちまった。得点は八-六と、まだリードしてたけど、ジックはすっかりくさり、くさったとこへ、アオのやつが、みんなをあおりたててやじりはじめた。ジックは完全にダウンだ。コントロールまでみだれちゃって、
暴投を二度もやり、四球やエラーを続出させた。
5. どうにか
守備陣がそれをカバーして、とにかく四回の表はおわらせたけど、結果はさんたんたるもので、八-十とひどい
逆転をやられちまった。
6. ベンチにもどると、ジックはグローブを力いっぱい地面にたたきつけた。
7.「おれは、もう、野球をやめた!」
8. そうとう頭にきちゃったらしくて、ぼくやキリコがいくらなだめても、ますますかっかっしちゃうばかりなんだ。ぼくもすぐ頭にきちゃうほうだけど、ジックのはちょっと特別
製なんだ。
9. ミツコやデッコが、景気づけのために、みんなをリードして、いせいのいい歌をうたってくれたりしたけど、ぼくらはしょぼくれちまって、戦意もだんだん遠のいてくんだ。
10.「おどろいた子たちね。わたしがいつもいってるでしょ。『勝ち』『負け』で、なんでもわりきっちゃおうとするから、そんなことになるのよ。さあ、負けるとわかっても、戦うだけは戦わなければいけないわ。どんなはめになったって、その中でせいいっぱいの努力をするのよ。」∵
11. キリコはバッターに立つ者ひとりひとりのしりを、大きな手で、ぴしゃぴしゃひっぱたいては元気づけた。が走者、一、
三塁のチャンスもむなしく、無得点におわっちまった。
12. まだふてくされているジックをとりまいて、
守備につく気にもなれず、ぼくらは、タイムを要求して、ぶらぶらしていた。
13. 六組のきたないやじは、ますますさかんになってくる。ミツコやデッコたちが、負けずにやりかえすのだけど、それもなんだかしだいにいきがさがる。ぼくも最初のうちは、みんなとどなったりしていたんだけど、ジックのがんこさにあきれ、ジックにはらをたてた。
14.「じゃあ、おまえは、この試合を不戦敗にしようってのかい。」
15. ぼくはジックをにらみつけた。けど、ジックのやつグローブをひっぱたくばかりで、さっきからなにもいわないんだ。
16. ピッチャーはジックしかいないから、ぼくらはもうどうしようもないんだ。ほかのやつに投げさせれば、もっともっとわるい結果になるのはわかりきっている。それでここんとこは、どんなことしたって、なんとかジックに投げてもらわなけりゃならない。とぼくは決心した。
17.「あ、あのサブちゃん――。」
18. そのとき、おずおず横のほうから、ぼくに話しかけたやつがいた。
19.「なんだ。うるさいな。」
20. ふりむいてぼくはそいつをにらみつけた。すっかりいらいらしてたんだな。
21. 立っていたのは
金井だった。みんながなにごとかというふうに、
金井のまわりに集まってきた。さじを投げたように、遠くのベンチからぼくらをながめていたキリコも、立ちあがってこっちを見てる。
22.「ぼくに、投げさせて、みてよ。」
23. ひとつひとつのことばを、くぎるように、
金井ははっきりいった。
24.「なんだって!」
25. ぼくはじぶんの耳をうたがった。もやしのうまれかわりみたいにひょろひょろして、おまけに、いままでだって野球をしてるのなんか見たこともないやつなんだから、それもむりないというもんだ。∵
26. ところが
金井のやつ、よっぽど心をきめてるらしく、もいちどはっきり、
27.「ぼくに投手をやらせてよ。」
28.といったんだ。ぼくは思わずわらっちまった。でも、
金井の顔は
真剣なんだな。
奥歯をぎゅっとかみしめて、まともにぼくを見つめるようすにあっとうされて、ぼくらはだまりこんじまった。
29.「よし!」と、ぼくは
金井の上気した顔にむかっていた。「投げてみろ。」
30. みんながざわめいた。ベンチにいたジックが、なにかいいたそうだったけど、ぼくはかまわずみんなにかたを組ませ、「いくぞっ!」とさけんだ。みんなもさけんだ。ぼくらは七度さけんだ。ミツコやデッコたちみんながかん声をあげ、
拍手し、ぼくらをはげました。ジックがベンチでそわそわしてた。キリコがぼくらにウインクを送ってよこした。
31.
金井はファーストミットを取った。
32.「おまえはピッチャーをやるんだろ。」
33.と、ぼくはすこしあきれていった。みんながわらった。
34.「これが使いなれてるんだ、ごめんよ。」
35.
金井はわらい、それから、ベンチに取り残されたようにすわり、しりをもぞもぞ動かしているジックのところにかけていった。
36.「いっしょうけんめい投げてみるから、そのあいだにちょうしをなおしといてよね。」
37.
金井はそれだけいいおわると、ひどくはずかしいことをしたかのように走ってマウンドにのぼった。
38. ぼくら九人は顔を見あわせ、ちょっとくちびるをかんでわらった。やれるとぼくらは思った。そうさ、六組になんか、負けてたまるもんか! ぼくは、ジックにしかめっつらを作っておどけてみせ、みんなといっしょに、声をだしあいながらポジションについた。
39.
金井は左だった。うまいというほどではなかったけど、コントロールがきいたから、左だというだけで、けっこう六組の
攻撃をおさえることができた。それでもその回で二点入れられた。∵
40. スコアは八-十二だ。だけど、それぐらいはものの数ではなかった。やる気じゅうぶんのいま、四点ぐらい、なんなくとりもどせると思えた。自信は前からあったんだ。ただ、くさっちまって、やる気をなくしてただけなのさ。
41.「お天気屋さんたち、がんばるのよ。野球は最終回の
裏からよ。」
42. キリコは
金井の頭に手をおいて、ぼくらをはげました。
43.
金井はジックにむかって、
44.「打つほうはてんでだめだから。」
45.と、バッターをゆずった。ジックだって、いつまでもぐずぐずしてるやつじゃない。
46.「すまん。」と、
金井を見ていい、「さっきはわるかったな。」
47.と、ぼくらにいった。ぼくらはジックをひやかしてわらった。
48.「ほんとに、ありがと。」と、ジックはもいちど
金井にいった。
49.
金井はまっかになってうつむき、しきりと二点入れられたことを気にした。ぼくらは
金井のせなかやかたや、頭をたたき、「気にするな。」「ドンマイ。」「ドンマイ。」
50.といった。クラスのみんなが、いせいのいい歌をうたう中で五回の
裏、ぼくらは最後の
攻撃をかけた。
51.(
後藤竜二「天使で大地はいっぱいだ」)
長文 2.1週
1.【1】「今年の
恵方は、南南東だから、
窓の方を向いて食べるのよ。」
2.そう言って、母は、
恵方巻きを家族みんなに配った。父は、
3.「
恵方だか
阿呆だか知らないけど、昔は、こんなことはやらなかったなあ。」
4.などとぶつぶつ
文句を言っている。【2】そんな父を横目で見ながら、母は、
5.「さあ、始めるわよ。用意、スタート。」
6.と、
威勢のいいかけ声をかけた。そのかけ声に
後押しされるようにみんなで
恵方巻きを食べ始める。
恵方巻きを食べるときには笑ってはいけない。【3】「笑う門には福が来る」ということわざも、節分には通用しないらしい。
7.
私はいつも、なぜか笑いをこらえきれなくなり、くすくすと笑ってしまう。だから、今年こそは、最後まで笑わずに食べようと決心していた。しかし、スタートと同時に、もう笑いが
込み上げてくる。【4】しばらくは、必死にその笑いをこらえていたが、こらえればこらえるほど、おかしさがつのり、
私は思わず
吹き出してしまった。それをきっかけに、姉が笑い出し、
私たちを横目で見ていた父の
表情も
崩れた。気づくと、父は、目に
涙を
浮かべながらくっくっくっと笑いをこらえている。【5】そんな中、ただ一人冷静なのは、母だ。顔色一つ変えず、南南東を向いて、
黙々と恵方巻きを食べている。姉も
私も、母の、この
強靭な
精神力を
受け継がなかったようだ。
8.
恵方巻きを食べた後は、これも
恒例の豆まきだ。【6】父も、豆まきには積極的に参加する。いちばん大きな声を
張り上げているのは父だ。
我が家では、毎年「
鬼は外、福は内」と言いながら豆をまくが、地方によっては、「
鬼は内」とかけ声をかけるところもあるそうだ。【7】
私は、みんなの幸せを願う節分の日に、
鬼だけ外に追い出すという発想に、かねてから
疑問を
抱いていた。
鬼も幸せになれば悪さをしないと思うからだ。だから、「
鬼は内」とかけ声をかけるように父に
提案してみた。【8】父は、∵
9.「昔から、
鬼は外、福は内と決まっているんだ。
鬼はお庭にお
逃げなさいってなもんだ。」
10.と取り合ってくれない。
習慣とは
恐ろしいものだ。仕方がないので、
私は、心の中で「
鬼は内、福も内」と言いながら豆まきをした。
11. 【9】豆をまいた後は、みんなで年の数だけ豆を食べるのだが、姉も
私も年の数だけでは足りず、年の数の何倍も豆を食べてしまう。年の数以上の豆を食べるとどうなるのか心配だったので、調べてみると、自分の年の数より一つ多く食べると、体が
丈夫になって、
風邪をひかないという説もあることを知り、ほっとした。【0】年の数の何倍も食べれば何倍も
丈夫になるに
違いない。さらに調べてみると、豆は「
魔滅」に通じ、
鬼に豆をぶつけて、
邪気を
追い払うという意味があるらしい。
私は、ますます
鬼がかわいそうになった。せめて、豆をぶつけた後は、家に入れて、
介抱してあげてもよいのではないだろうか。
12. 節分のような日本
独特の行事は、そのいわれを正しく
理解し、後世に伝えていくことも大事だが、それ以上に大切なのは、家族そろって季節ごとの行事を楽しみ、温かい時間を
過ごすことだと思う。
13.「しょうがない。
鬼も中に入れてやろう。
鬼は内、福も内。」
14.父の声が
響いている。
15.(言葉の森長文作成委員会 Λ)
長文 2.2週
1. 【1】チョウチンアンコウには、
上唇のすぐ上に
背びれから変わったイリシウムと
呼ばれるただ一本のアンテナがある。
2. イリシウムの
先端には、エスカという丸いふくらみがあり、この部分が発光するのでチョウチンアンコウの名がある。【2】世界的に有名な深海魚である。チョウチンアンコウの最初の記録は一八三七年であるから、もう一五五年も昔から
大勢の学者の
興味を引いていた。しかし生きたチョウチンアンコウがどのようにして光るのかは、長らくだれも知らなかった。【3】一九六七年、日本の水族館においてそれが
確かめられた。
3. その年の二月二〇日、
鎌倉の海岸の
波打ち際で一ぴきのチョウチンアンコウが海岸に遊びに来ていた
一般の人に拾われた。【4】これは
珍しい魚だということで、そのチョウチンアンコウは、
段ボール箱に入れられて、八キロ
離れた
江ノ島水族館に運ばれ、海水に
戻したところ元気を
取り戻し、八日間生きた。わが国での、そして、たぶん世界でのチョウチンアンコウの最長
生存記録である。
4. 【5】
連絡を受けて
逗子の
自宅からかけつけた
横須賀市自然博物館の羽根田博士は、チョウチンアンコウが
水槽の中で発光する様子をくわしく観察されて
学術報告を書かれ、後日、
私にもそのいきさつを
直接話して下さった。【6】
温厚な博士が、その時の思い出話をして下さっているうちに、だんだん
興奮されるのを見てびっくりした。そんなにもたいへんなことだったのだと、
再確認した。
5. 【7】生きているチョウチンアンコウのイリシウムの
先端には、小さなザクロの実のように丸くふくらんだエスカがあり、
乳白色半
透明の上に銀色と
淡紅色のリングがあって、暗いところで青白く光って見えた。魚をつついて
刺激すると、イリシウムを立て、エスカから明るく光る発光
液を前方に向けて
噴出した。【8】エスカの左右にある
肉質突起の
先端で
真珠のような白い小球が光を放ち、エスカから
垂れ下がる黒くて細長いフィラメントの
先端にも小さな発光器∵があって、魚がイリシウムを
振り動かすと、これもキラキラと美しく光った。
6. 【9】「この生きたチョウチンアンコウは、今までのいろいろな
謎をといてくれた。このような機会はおそらくもうないであろう」と、
横須賀市自然博物館の
報告に
書き添えられた羽根田博士にとって、あの日は一生で一番幸せな日だったことであろう。
7. 【0】もっとも、深海魚の発光が水族館で観察された例は、これが初めてではない。
8. ずっとさかのぼって、イタリアのナポリ水族館では、一八九九年に生きたダルマザメの発光がガラス
越しに観察されている。このサメは長くは
生存しなかったらしいが、これがたぶん、生きた発光魚を水族館で観察した、最古の観察記録ではないだろうか。ナポリ水族館は、一八七四年にオープンした海洋研究所の
附属水族館で、サンタルチアの海岸に面して建ち、とくにわが国の大学
臨海実験所のモデルにされてきた水族館である。
9. また
駿河湾に話を
戻すと、ここにはツラナガコビトザメという世界一小さなサメがいる。成長のいい
個体でも二五センチ止まり、ふつうは一二、三センチの小さなサメで、頭が大きく三等身なので、ツラナガの名がある。体の下半分一面に小さな発光器が
散在し、
尾びれと腹びれの一部に白い部分があって、ここがとくに強く光る。羽根田博士はツラナガコビトザメの発光が発光ザメの中で、最も美しく見事であると
太鼓判を
押している。
10. ツラナガコビトザメは、
駿河湾ではサクラエビといっしょに海面近くまで
浮上し、サクラエビの
網に入る。
個体数は多くもないがまれでもない。
駿河湾でとれる深海の発光ザメは、ツラナガコビトザメ以外にも、フジクジラ、カラスザメ、カスミザメと、数多い。サメばかりではない。
駿河湾は発光生物の
宝庫なのだ。発光しない深海生物ならば、その種類はもっと多い。
11. ところが、そのことごとくがまだ水族館では
飼えないでいる。東海大学海洋科学博物館では、一九八九年以来生きた化石といわれるラブカを中心に、
駿河湾の深海魚の
飼育に
挑戦してきた。しか∵し、正直いって、
前途遼遠である。ラブカやギンザメもメンダコも、ようやく一〇日間
程度は生かしつづけることはできたが、それは残念ながら
飼育したというよりも
生存していたという方がふさわしい。
12. 深海魚が水族館で
飼えないのは、それが深海に
棲んでいるという事実よりも、深海に
棲んでいるために
皮膚や
内臓が
傷つきやすい、体がもろくてこわれやすい、
環境の変化に弱いという理由の方が大きいようだ。水族館では、
傷つき弱って入ってきた魚の健康を
回復させることがほとんどできないので、そこが一番弱い。それでも、
駿河湾の海岸に建っている水族館に
勤務する一人として、いつかは発光魚を
含む深海生物が水族館で生きているのを見たい、見せてあげたいと思う。水温も、
比重も、
水質も、明るさも、
自在に調節できるようになった
現在の水族館で、
未解決の課題として
挑戦するのにふさわしい相手であろう。
長文 2.3週
1. 【1】島に住む動物と大陸に住む動物とでは、体の大きさが
違う。ゾウのような大形のものを
比べると、島のものは大陸のものより、体が小さくなる
傾向がある。島はせまい。小さな島で物が小さくなっていくのはもっともな話のようだが、
事態はそう
単純ではない。【2】ネズミやウサギのような小形のものを
比べると、こちらは島のほうが大陸より、ずっと大きい。
2. 島では大きいものは小さくなり、小さいものは大きくなる。島に
隔離された動物に見られる、このような体のサイズの変化の方向
性が「島の
法則」と
呼ばれるものだ。【3】変化の方向
性は、いま
現に生きているものだけを見ているより時間を追って化石を調べていったほうが、はっきりする。大
氷河時代には海面が下がり、多くの島が大陸とつながったが、深い海でへだてられていたもの(セレベス、地中海の島々、西インド
諸島など)は島として残り、そこではゾウ・カバ・シカ・ナマケモノなどが小形化していった。
3. 【4】もっともあざやかなのはゾウの例だ。ゾウはだんだんと小さくなり、ついには
成獣になっても
肩までの高さが一メートル、
仔牛ほどしかないものが
出現した。大陸では
巨大なマンモスがのし歩いていたのである。【5】一方ネズミを見てみると、島のネズミは大きくなり、ネコほどもあるものが
出現した。
4. なぜ島では動物のサイズが変化するのだろうか? 一つの
要因は
捕食者であろう。島という
環境は、
捕食者のすくない
環境である。【6】
一般的に言って、
捕食者が生きていくには、自身の十倍以上のえさになる動物を必要としている。島という
限られた面積の中では、えさになる動物の数もたかがしれてくるわけで、そのくらいの数では
捕食者は生きて行けなくなり、島では
捕食者がほとんどいない、もしくはまったくいないという
状況が
出現する。【7】こういう
状況下ではゾウは小さくなり、ネズミは大きくなっていく。
5. ゾウはなぜ
巨大なのか? それは大きな図体で
捕食者を
圧倒しようとしているからだ。あれだけ
巨大ならばトラもライオンも歯がた∵たない。ネズミはなんであんなに小さいのか? 【8】小さければ
捕食者の目につきにくいし、小さな
穴やものかげにすばやくかくれることもできる。ゾウやネズミはだてに大きかったり小さかったりしているわけではない。
6.
巨大であることや
矮小であることは、それなりの
代価を
支払わねばならぬことである。【9】たとえば
巨大な体を
支える骨格系にはかなりの無理がかかっているようで、ゾウは
骨折などせぬよう、一歩一歩
慎重に足をはこんでいく。ネズミの場合にはエネルギー上の問題がある。体の小さいものほど、体重の
割には体の表面積が大きい。【0】熱は表面からどんどん
逃げていくから、体温を一定に
保とうとおもったら、小さい動物は、体重あたりにして、大きいものよりずっとたくさん食べて熱をつくりださねばならない。体重は半分でも、食料は半分というわけにはいかないのである。
7. ゾウの
巨大さは
畏敬の念を引きおこすものだ。しかしゾウにしてみれば、大きいからみんなハッピー、というものでもなく、できれば「ふつうの動物」にもどりたいのであろう。ネズミにしたってそうだ。だからこそ、
捕食者のいない
環境に置かれると、大きいものは小さく、小さいものは大きくなって、
ほ乳類として無理のないサイズにもどっていく――これが島の
法則の一つの
解釈である。
8. しばらくアメリカの大学で
過ごす機会を得た。あちらの
教授陣の中にはおそれいるばかりの
偉人がいて、これでは太刀打ちできないなと、すっかり思い知らされたが、一歩大学の外に出ると、スーパーのレジにしても、自動車
修理工にしても、あきれるほど
対応がのろいし
不適切。
一般の日本人の
有能さに、いまさらながら気づかされた。日本という島国では、エリートのスケールは小さくなり、ずばぬけた
巨人とよびうる人物は出て来にくい。
逆に小さい方、つまり
庶民のスケールは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。大きいものは小さくなり、小さいものは大きくなる――島の
法則は人間にも当てはまりそうだ。
9.
獰猛な
捕食者に
比せられる様々な思想と戦い、きたえぬかれた大∵思想を、大陸の人々は生み出してきた。
偉大なこととして
尊敬したい。しかしこれらの大思想は、人間が取り組んで幸福に感ずる思考の
範囲を、はるかにこえてしまっているのかもしれない。動物に無理のない体のサイズがあるように、思想も人類に
似合いのサイズがあるのではないか。日本よりさらに小さな島にいて、大思想を持たないしあわせと、いくばくかの
劣等感とを、日々あじわっている。
10.(本川
達雄「島の
法則」)
長文 2.4週
1. 「
飽和化市場」という言葉がある。いろいろな商品の
普及率がもう
限界のところまできている消費市場をあらわす言葉だ。たいていのモノはひととおり行きわたった、という
状態である。
2.
飽和化市場の
特徴は、いままでもっていた
製品から新しいものに買いかえていく
需要は多いが、市場全体が成長していく力はもう
限界のところまできている、という点だ。
3. そのため、売り手側としても、いままでと同じような売り方では商品が売れない。そこで、それぞれ
独自の商品を開発したり、新しい売り方を考えたり、これまでとはちがった分野へ進出したりと、あらゆる手を試みる。ここまでに
紹介した
販売方法の工夫だとか、競合商品にはない
独自の
機能やデザインの開発などといったことも、こうした市場があふれている。
4. たとえばモノ。すでに
述べたように、ヘッドホン・ステレオ一つ取りあげても、
似かよった商品がたくさんのメーカーから発売されている。たくさんの商品のなかから、きみは一つの商品を選んで
購入するわけだ。そのためにカタログを取りよせたり、お店の人の話を聞いたりして
情報を集め、
比較した上で決める。
5. つまり、きみの前には、とてもたくさんのメニューがあり、そこからある一つを
選択するというわけだ。
6. サービスという商品を
購入する場合も同じだ。
7. 外食の代表といえるファースト・フード。あるチェーン店で新しいハンバーガーが登場したと思ったら、すぐに別のチェーン店にも
似たようなメニューがつけ加えられる。もちろん、「一味ちがった」商品としてだ。
8. ここでもきみは、さまざまなお店のさまざまなメニューのなかから一つのサービスを
購入するための
選択をすることになる。
9. 新しい商品やサービスが市場にでるまでには、売り手側の「商品差別化
戦略」がおこなわれている。消費者側の
情報を得るための
調査、その
情報をすぐに利用できるように
蓄積したデータベースの作成、テレビやイベントをとおしての
宣伝・広告・商品を
効率よ∵く売るための
仕掛けなど、売り手側の努力はこれまでみてきたとおりだ。
10. だから、きみは、売り手側の商品差別化
戦略という大きな「
仕掛け」をかいくぐって、たくさんのメニューから一つを決め、
選択するのである。これは、とてもたいへんなことなのだ。
11. たしかにメニューはたくさんある。
12. だが、それは、メニューがいまほど多くなかったときにくらべて、よりよい
選択ができるということなのだろうか?
13. ちがいをうたって登場した商品は、すぐに
似た商品が登場することで、ちがいの部分がなくなってしまう。きみの「ステイタス」にふさわしいはずの
独自の商品が、すぐにその
独自性を失ってしまう。イタチごっこみたいなもので、ちがいはますます細分化し、たいした意味をもたなくなってくる。
14. たいした意味のない「ちがい」を選ぶためにたくさんの商品が用意されているのが、はたしてほんとうに
豊かなことなのだろうか。わたしたちは、そんな「幸せ」を求めてきたのだろうか。何度でも自問してみる必要がありそうだ。
15. おびただしい商品にかこまれて毎日
暮らしているわたしたち。わたしたちが生活すること=消費することである。
住宅、家具、食品、衣服、電気
製品、新聞、
書籍、日用
雑貨といったモノから、電気、ガス、交通
手段をはじめとするサービス
財まで、日々消費しつづけているのだ。
16. そのわたしたちの多様な消費が、ふたたび多様な生産を
促す。
17. そして新しく生産された生産物が、消費者であるわたしたちに、また新たな
欲望をひきおこす。
18. こうして生産と消費が
循環しながらふくらんでいくのである。しかも、売り手と買い手のどちらも、先がみえていないときているのだ。
19. こうした生産と消費のくりかえしのなかで、地球
資源は
減少をつづけ、生産にともなう
排出物や消費生活からでる
廃棄物などによって、
環境汚染がすすんでいる。それも、地球的な
規模でおこ∵っているのである。
20. 気をつけなくてはいけないのは、地球
環境を
汚染しているのは、生産をしている
企業側だけではない、ということだ。
汚染に
責任があるのは、買い手であるわたしたちも同じだ。生産をささえている消費者側の
責任も大きい。
21. つまり、わたしたちは他人とのちがいを
示すために地球
資源をつかい、
環境汚染物質を
排出しつづけている
可能性をもっているわけだ。もしそうだとしたら、わたしたちは、自分たちの消費のあり方そのものを問いなおさなくてはいけない。
22. たとえば、わたしたち日本人がふだん食べているエビ。
23. 日本人のエビ消費は、この三十年間に六倍以上になり、売り上げは一兆円をこえたそうだ。世界最大のエビ消費国だ。そのほとんどは東南アジアからの
輸入によっている。エビの
稚魚は、東南アジア各地にひろがる広大なマングローブの
沼地で育っており、そのエビを
捕獲するために大型船もはいっている。そのためエビ
資源はしだいに少なくなり、マングローブの
沼地も
荒らされているのだそうだ。
24. 日本人が
直接荒らしまわっていないにしても、わたしたちのエビ消費が、結果としてマングローブを
枯らすことになっているのは
否定できない。
25. これは一つの例であって、わたしたちの生活が、このように
間接的に
環境を
破壊していることは、じつに多い。わたしたちがおびただしい消費を重ねることが、考えてもみないようなところに
悪影響をあたえ、
傷つけることになっているわけだ。
26. そうした
直接みえない他人や世界へ、どこまで
想像力をはたらかせることができるかが、これからますます問われることになるだろう。もちろんこれは大人だけの問題としてでなく、きみたち一人一人がこれから考えなければならない問題だと思う。
27.(児玉
裕「あなたは買わされている」)
長文 3.1週
1.【1】「あれ? おかしいなあ。」
2.トースターの中には、ほかほかに温まったコロッケが入っているはずだった。
確かに、コロッケは入っていたのだが、コロッケを乗せたトレイは、まるで
蜂蜜のようにとろりと
溶け出し、ほとんど原型をとどめていなかった。【2】やはり、トレイごと入れてはいけなかったのだ。今ごろになって気づいても後の祭りだ。トースターに入れる
瞬間、このまま入れても
大丈夫なのだろうかと不安がよぎったが、上にかかっているラップだけを取れば
大丈夫だろうと
安易に
判断したのが
間違いだった。
3. 【3】
私は、とても
お腹がすいていたが、当然のことながら、コロッケは
諦めなければならなかった。しかも、母が帰ってくる前に、トースターの中で
溶けているトレイを
取り除かなければならない。
空腹の
私にとって、それは
非常に
過酷な労働に思えた。【4】でも、母に見つかったら
叱られるに
違いない。
私は、急いで
布巾を
濡らし、トースターの中の形のないトレイを
取り除こうと、手をつっこんだ。
4.「あちっ。」
5.
私は、思わず手を
引っ込めた。トースターの中はまだ熱かった。冷ましてからでないと作業ができない。【5】でも、時間がない。仕方がないので、うちわを持ってきて思い切り
仰いでみた。すると、トースターの底の方に残っていたパンくずが
舞い上がり、さらに大変なことになりそうだったので、すぐにやめた。
私は、ただ
布巾を手に、付近をうろうろするしかなかった。【6】そうこうしているうちに、母が帰ってきてしまった。トースターを見た母は、すべてを
悟り、あきれたようにため息をついた。
6. 結局、トースターは、母が
掃除をしてくれた。
一段落したところで、
私は母に、料理で失敗したことがないかどうか聞いてみた。【7】母は、中学生のころ、家族のために野菜
炒めを作ったことがあるそうだ。フライパンで野菜を
炒め、味つけをする
際、
勢いよくコショウを
振っていたら、ビンのふたが取れて、一ビン分のコショウが∵野菜にかかってしまったらしい。【8】母は、くしゃみを連発しながらも、とっさに、野菜をザルに
移し、ジャージャーと水をかけて
洗ったそうだ。母の
素早い判断が功を
奏し、野菜
炒めは無事に出来上がり、家族全員がおいしいと言って食べたという。水で
洗った野菜
炒めがおいしいわけはないだろうと思ったが、口には出さなかった。【9】母は、
7.「料理に失敗はつきものよ。でも、終わりよければすべてよし。」
8.と笑った。
9.
私の場合は、スーパーで買ってきたコロッケを温めようとしただけなので、料理の失敗とは言えないが、そのおかげでトースターがきれいになったので、やはり、終わりよければすべてよしなのだと思いたい。【0】失敗したからこそわかることもある。
私は、もう二度と同じ失敗を
繰り返さないだろう。失敗は、決して悪いことばかりではないということがわかった。
10.「あれ? おかしいなあ。」
11.台所から
お鍋のこげるにおいがしている。
12.(言葉の森長文作成委員会 Λ)
長文 3.2週
1. 【1】レオナルド・ダ・
ヴィンチの「モナリザ」は、先にもあとにも
誰にもかけなかった
傑作です。心をやわらげてくれるかとおもうと、
胸がきりっとなるモーツァルトの音楽は、ただすばらしいとしかいいようがなく、あれだけの音楽はやはりモーツァルトにしか作曲できなかったでしょう。【2】アインシュタインは空間は四次元だと、それまで
誰も考えなかったことをみちびきだしました。
2. まったく新しいすばらしいものをうみだす「
創造」の
秘密はどこにあるのでしょうか。【3】
創造はあまりにも
謎めいているので「天才」にだけできることとかたづけてしまいがちです。しかし、天才だから
創造できたといってしまうと、「
創造」を説明したことにならないでしょう。【4】それでは「人間のすばらしさ」とはなにかを考えるのをなげだしてしまうことになります。
3. まったく新しいものといっても、人間はなにもないところから、
魔法の力でそれをうみだすのではないわけです。そのもとになるものがあったのです。【5】ただし、それまであったままだと、
創造にはならないので、それまであったものをいろいろ組みあわせて、そのできたいくつもの新しい組みあわせの中から、美しいもの、心にうったえるもの、正しく自然を説明できるものをえらびだし、世の中の人達がその
価値をみとめたものが
創造です。【6】ここで「組みあわせ」のかわりに「変化させて」といわれたほうがわかりやすいとおもう人は、そういいかえてもよいでしょう。
4. かんじんなのは、それまでほかの人がやらなかった組みあわせをこころみるか、こころみないかです。【7】それまであったものを少し変化させるか、させないかです。それをためしてみなければ、
創造はおこらなかったのです。ためしに組みあわせてみたり、変化させてみるのですから、だめでもあたりまえです。ですから、だめでもともととおもって、ためしてみるしかないのです。
5. 【8】第一に、
創造のきっかけがあまりにも小さな、なんでもないようなことだったのと、第二に、最初のきっかけのあと、ためすのをくりかえした組みあわせや変化の努力があまり大きかったので、第三に、実はあまりにも長い時間がかかっているために、【9】最初のこころみと最終の成果との間があまりにへだたっているので、どうやってそれが
創造されたのか、それを
創造した本人にもおもいだせず∵わからなくなって、
突然ひらめいたかのように
創造がおこったと考えられたり、説明されてしまうのではないでしょうか。
6. 【0】こう考えてくると、だめでもともとだとおもって試してみるかどうか、よいとかんじたらそれをくりかえしつみかさねるかどうか、それが
創造にたどりつくかどうかの
境目になります。(中略)
7.
創造が人間にふさわしい仕事であることは、
脳の
構造と働きからも説明できます。
創造とは、人間が意味があり、
価値があるとおもう新しい組みあわせですから、ふたつ以上のいろいろなことがらが同時に
脳の中に
存在しなくてはならないでしょう。
脳の中ではさまざまな働きに関係する
細胞が、あちらでもこちらでも
興奮したり
抑制されたりしています。いわば、
大脳はいつもいろんなことがらを組みあわせ、組みかえているわけです。つねに
大脳は
創造ばかりやっているようなものではないでしょうか。
8.
大脳の中の
神経細胞のネットワークは、
刺激や学習によって別の
神経ネットワークに変化をもたらします。それはたとえるならば、ことがらに新しい光をあて、てらしだすことになります。ことがらに新しい
解釈をほどこすことになります。おなじことがらでも、それを位置づける
背景や
脈絡がかわることにあたります。これを心理学や言語学などでは、「新しい文脈のもとで、意味が変化する」といいます。
9. たとえば「タイム」といっても、
状況によって「
経過した時間の長さ」であったり、午後三時といったような「
時刻」であったり、日本人の間ならば「ちょっと待ってほしい」という意味であったりします。それを人間は正しく
解釈します。このような
大脳の働きがつみあげられて、ダ・
ヴィンチやモーツァルトやアインシュタインの「
創造」をうみだしたのです。このような
脳の働きを役だて、
創造のために「こころみ」をつみかさねないのは、まったく人間らしくないことになります。
10.(赤木昭夫の文章による)
長文 3.3週
1. 【1】月ができた
原因については、進化
論で有名なダーウィンの息子のジョージ・ダーウィンという人が考え出した説が学会で
認められていました。それによると月は地球の一部がちぎれて飛び出してできたものだが、面白いことに太平洋は月が飛び出した
跡だという説を立てたのです。【2】ジョージ・ダーウィンという人は、たいへんあたまのいい人で、この月の
成因説は、ただの思い付きというわけではなくて、
推論にいろいろな
根拠があげられているのです。たいへんうまい説明なので当時は
反論する学者もいなくて、それが決まった学説となってしまいました。【3】ですから、
私たちは学生の時にこういう説を教わったわけなのですが、こんな説は今ではすっかり消えてなくなってしまいました。
2. 【4】地球の
成因の方は、四十年
程前に、ドイツのワイッゼッカーという人が、
惑星は太陽から飛び出したのではなくて、昔、
太陽系をおおっていたガス体から固体の
粒だけが残って、それが太陽の周りをぐるぐる回っているうちに
衝突し合ってだんだんに成長して、いくつかの
惑星になったという説を立てました。【5】それで、ビュッフォンの説は消えてしまったのです。そのワイッゼッカーの学説もその後十年ほどたって、アメリカのユレーという人と、ソ連のシュミットという人が
修正して、地球や木星などの
惑星のもとになった
粒というのは、
太陽系をおおっていた
粒ではなくて、太陽の引力によってつかまえられた
宇宙塵、つまり
隕石ということになったわけです。
3. 【6】そして、月の方も、ダーウィンの説ではなく、地球のできる時に同じような
現象で地球と
一緒になってできたものだという説が、今日、定説となって、月は地球の兄弟だと考えられるようになったわけです。
4. 【7】だが、こういった学説も月ロケットで、人間が月から石のサンプルを持ち帰ったり、ロケットの
観測機が火星や土星まで飛んでいって、
情報を送ってきたりすると、古い説では
解釈がつかないことだらけで、また、いずれ新しい学説が
誕生することになるわけです。∵
5. 【8】こういうことは天文学、あるいは地学などに
限らず、いろいろな科学の
領域で起こってもふしぎはないわけです。まだ、本当は科学は何もかも知っているわけではなくて、ほんの自然の
姿の一部をかじっているにすぎないのですから、いろいろと角度を変えて自然を見ているとつぎつぎと新しい発見が生まれてきます。【9】そしてそこから新しい学説が
発展し、それをもとにしてまたすぐれた
技術が
誕生するといったことがこれからも続いていくはずです。
6. 【0】今までのでき上がった科学の
理論とか
解説とかにこだわりすぎてすべてをそれにのっとって(=
基準として
従って)考えるという
傾向が強すぎますと、新しい
発展が起こらなくなります。古いものにとらわれずに新しい見方をする、あるいは
逆転の発想という言葉がありますが、そういう考え方をしていると、案外そこから面白い
発展が起こるのです。
7. これは科学者でなくても、
一般の方々が広く
眺めている観察、あるいは考え方からもみな同じ
事情が生まれるはずですし、そういう点からも
皆さんが
日常観察しているものから、新しい科学の目が生まれる、ということも十分にあり得ることだと思います。
8. 昔、ウェーゲナーという学者が大陸
移動説を
提唱しました。この人は、
地質学とか物理学とかの
理論に
基づいて考えていたわけではなく、世界地図を見ておりましたらいろいろな大陸の形が、ちょうどジグソーパズルの
切れ端のように、
寄せ集めると一つになってしまいそうな感じがしたことから大陸
移動を考えたのです。なるほど合わせてみると、南米とアフリカとは
一緒になりそうですし、アメリカ大陸もユーラシア大陸も、南極大陸もみんな一つに組み合わされそうに見えます。
9. そういうところからウェーゲナーは大陸は昔は一つになっていたのが、ある時から分かれて
移動したのではないだろうか、地球の内部が
融けた
液体でその上に固体の大陸が
浮かんでいる、それがちぎれて、だんだん地球全体に分散したのではないだろうかと考えて、∵大陸
移動説という学説を立てたのでした。
10. たいへん面白い説ですが、当時の学界では、それは単なる思いつきだということで
黙殺されてしまったのです。
近頃になって、いろいろな
観測の
技術が進みますと、どうやらウェーゲナーの学説が本当であったらしいということで、プレート・テクトニクスという学説(=地球の
皮膚を形づくる
厚さ一〇〇キロの岩板の動きを研究する学説)ができて、
実際に大陸が
移動するのだということが、事実として
認められるようになったのです。そこでウェーゲナーは今たいへん高く
評価されるようになっておりますが、こういう、こだわらない自由な心で科学を
論じるというのも一つの進歩の道だと言えるわけです。
11. そういう意味でも、
皆さんの自由な観察力や、考え方から思いついたことをどんどん科学者や科学界にぶつけていきますと、それは
皆さんにとってもたいへん楽しいことですし、科学者にとっても楽しいことになるはずです。そして、そこから、思いがけない科学の進歩も生まれるということになりますと、なんともすばらしいことであるに
違いありません。
12.(
崎川
範行「科学ってこんなに面白い」による)
長文 3.4週
1. ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
2. たとえば、近所に
鬼がわらのような顔の子がいて、「
鬼の子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親が
涙を流して飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを
理解していないことが多い。
3. いじめている人間が、強いわけではない。
抑圧されている人間は、いじめる相手を
探しがちなものだ。上級生が下級生をいじめる学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだって、リベラル(自由
主義的)な
雰囲気のあるところだと、上級生も下級生も友だちづきあいしている。いじめている人間はたいてい、
体制によっていじめられている、弱い人間なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、する必要がない。
4. ときには、だれかをいじめているという、加害
意識のないことも多い。その
集団が、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。
罪の
意識なしに悪いことをするほど、
困ったことはない。
5. それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした
状況に
強制されて、
罪の
意識なしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう
過去をとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした
状況のなかで、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
6. こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに
劣らず、みじめなものだ。
7. とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、いじめ方があるらしい。
彼もしくは
彼女が、
存在しないように
扱う。顔を合わさず、声をかわさず、
存在自体を
無視してしまう。これは、一種の
精神的殺∵人である。
暴走よりも、万引きよりも、もっとひどい、最大級の
非行だと思う。
8. ときに、いじめの計画者がいないことさえある。
集団自体が、いじめ
存在になる。ちょっと
怪談じみたこわさがある。こうしたとき、みんな
普通の中学生で、だれも、いじめているという
意識のないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの感覚は、
怪談の感覚である。
9. ときには、いじめられている子までが、それを
意識していないこともある。こうなると、最高にこわい。
意識していなくても、いじめは
存在している。
意識にのぼらない
魂の底で、一種の
夢魔の世界で、だれかがだれかをいじめている。
10.(
中略)
11. 中学生の間で、いじめが
増えているというのを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わない。いじめっこも、たいていは、
普通の子だと思う。いまの中学生の
状況が、そうした弱い部分を作っているのだとは思う。
12. それでも、もしきみが、よく考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな思いになる。相手にたいしてだけでなく、きみ自身の未来のために、すぐにやめたほうがよい。
13. だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている空気があろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみの弱さだ。人間というものは、弱いもので、ぼくは人間の弱さを、むしろいとおしむほうだが、この場合だけは、いや、この場合こそ、きみに強くなってほしい。
14. やる気を出せとか、
根性でがんばれとか、そんな声にのっかって、強くなれというのは、ぼくの
趣味ではない。それより、どんな
状況にしろ、
状況に負けて、他人をいじめることで心のバランスをとったりしないような、自分自身の心の強さがほしい。
15.(森
毅「まちがったっていいじゃないか」)