1. ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
2. たとえば、近所に
鬼がわらのような顔の子がいて、「
鬼の子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親が
涙を流して飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを
理解していないことが多い。
3. いじめている人間が、強いわけではない。
抑圧されている人間は、いじめる相手を
探しがちなものだ。上級生が下級生をいじめる学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだって、リベラル(自由
主義的)な
雰囲気のあるところだと、上級生も下級生も友だちづきあいしている。いじめている人間はたいてい、
体制によっていじめられている、弱い人間なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、する必要がない。
4. ときには、だれかをいじめているという、加害
意識のないことも多い。その
集団が、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。
罪の
意識なしに悪いことをするほど、
困ったことはない。
5. それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした
状況に
強制されて、
罪の
意識なしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう
過去をとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした
状況のなかで、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
6. こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに
劣らず、みじめなものだ。
7. とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、いじめ方があるらしい。
彼もしくは
彼女が、
存在しないように
扱う。顔を合わさず、声をかわさず、
存在自体を
無視してしまう。これは、一種の
精神的殺∵人である。
暴走よりも、万引きよりも、もっとひどい、最大級の
非行だと思う。
8. ときに、いじめの計画者がいないことさえある。
集団自体が、いじめ
存在になる。ちょっと
怪談じみたこわさがある。こうしたとき、みんな
普通の中学生で、だれも、いじめているという
意識のないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの感覚は、
怪談の感覚である。
9. ときには、いじめられている子までが、それを
意識していないこともある。こうなると、最高にこわい。
意識していなくても、いじめは
存在している。
意識にのぼらない
魂の底で、一種の
夢魔の世界で、だれかがだれかをいじめている。
10.(
中略)
11. 中学生の間で、いじめが
増えているというのを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わない。いじめっこも、たいていは、
普通の子だと思う。いまの中学生の
状況が、そうした弱い部分を作っているのだとは思う。
12. それでも、もしきみが、よく考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな思いになる。相手にたいしてだけでなく、きみ自身の未来のために、すぐにやめたほうがよい。
13. だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている空気があろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみの弱さだ。人間というものは、弱いもので、ぼくは人間の弱さを、むしろいとおしむほうだが、この場合だけは、いや、この場合こそ、きみに強くなってほしい。
14. やる気を出せとか、
根性でがんばれとか、そんな声にのっかって、強くなれというのは、ぼくの
趣味ではない。それより、どんな
状況にしろ、
状況に負けて、他人をいじめることで心のバランスをとったりしないような、自分自身の心の強さがほしい。
15.(森
毅「まちがったっていいじゃないか」)