長文 3.4週
1. ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
2. たとえば、近所に鬼がわらおに   のような顔の子がいて、「おにの子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親がなみだを流して飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを理解りかいしていないことが多い。
3. いじめている人間が、強いわけではない。抑圧よくあつされている人間は、いじめる相手を探しさが がちなものだ。上級生が下級生をいじめる学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだって、リベラル(自由主義しゅぎ的)な雰囲気ふんいきのあるところだと、上級生も下級生も友だちづきあいしている。いじめている人間はたいてい、体制たいせいによっていじめられている、弱い人間なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、する必要がない。
4. ときには、だれかをいじめているという、加害意識いしきのないことも多い。その集団しゅうだんが、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。つみ意識いしきなしに悪いことをするほど、困っこま たことはない。
5. それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした状況じょうきょう強制きょうせいされて、つみ意識いしきなしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう過去かこをとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした状況じょうきょうのなかで、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
6. こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに劣らおと ず、みじめなものだ。
7. とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、いじめ方があるらしい。かれもしくは彼女かのじょが、存在そんざいしないように扱うあつか 。顔を合わさず、声をかわさず、存在そんざい自体を無視むししてしまう。これは、一種の精神せいしん的殺∵人である。暴走ぼうそうよりも、万引きよりも、もっとひどい、最大級の非行ひこうだと思う。
8. ときに、いじめの計画者がいないことさえある。集団しゅうだん自体が、いじめ存在そんざいになる。ちょっと怪談かいだんじみたこわさがある。こうしたとき、みんな普通ふつうの中学生で、だれも、いじめているという意識いしきのないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの感覚は、怪談かいだんの感覚である。
9. ときには、いじめられている子までが、それを意識いしきしていないこともある。こうなると、最高にこわい。意識いしきしていなくても、いじめは存在そんざいしている。意識いしきにのぼらないたましいの底で、一種の夢魔むまの世界で、だれかがだれかをいじめている。
10.(中略ちゅうりゃく
11. 中学生の間で、いじめが増えふ ているというのを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わない。いじめっこも、たいていは、普通ふつうの子だと思う。いまの中学生の状況じょうきょうが、そうした弱い部分を作っているのだとは思う。
12. それでも、もしきみが、よく考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな思いになる。相手にたいしてだけでなく、きみ自身の未来のために、すぐにやめたほうがよい。
13. だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている空気があろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみの弱さだ。人間というものは、弱いもので、ぼくは人間の弱さを、むしろいとおしむほうだが、この場合だけは、いや、この場合こそ、きみに強くなってほしい。
14. やる気を出せとか、根性こんじょうでがんばれとか、そんな声にのっかって、強くなれというのは、ぼくの趣味しゅみではない。それより、どんな状況じょうきょうにしろ、状況じょうきょうに負けて、他人をいじめることで心のバランスをとったりしないような、自分自身の心の強さがほしい。

15.(森あつし「まちがったっていいじゃないか」)