長文集  3月4週  ○ぼくは子どものころ、  ne-03-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/12/14 12:52:00
 ぼくは子どものころ、弱虫だったので、ど
ちらかというと、いじめられる側だった。そ
れでも、ぼくよりもっといじけた子にたいし
て、いじめなかったかというと、そうも言い
きれない。いま考えると、そのぼくは、とて
もみじめだ。
 たとえば、近所に鬼がわらのような顔の子
がいて、「鬼の子」とはやして、いじめたこ
とがあった。そこへ、その子の母親が涙を流
して飛びだしてきたとき、まったくびっくり
した。いじめている側は、ことの重要さを理
解していないことが多い。
 いじめている人間が、強いわけではない。
抑圧されている人間 は、いじめる相手を探
しがちなものだ。上級生が下級生をいじめる
学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだ
って、リベラル(自由主義的)な雰囲気のあ
るところだと、上級生も下級生も友だちづき
あいしている。いじめている人間はたいてい
、体制によっていじめられている、弱い人間
なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、す
る必要がない。
 ときには、だれかをいじめているという、
加害意識のないことも多い。その集団が、い
じめを作っている。いじめられるほうにして
みれば、そのほうがつらい。罪の意識なしに
悪いことをするほど、困ったことはない。
 それでも、やがて、もしもまともに成長す
れば、そのときの自分が、こうした状況に強
制されて、罪の意識なしに、だれかをいじめ
ていた事実に気がつく。たいてい、そのとき
には、もう過去をとりもどすことができない
。しかも、その自分は、そうした状況のなか
で、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんな
ことをしていたことがわかる。
 こうした、みじめな気持ちを持つようには
、ならぬほうがよい。いじめられている子も
みじめだろうが、あとになって考えてみる 
と、いじめたほうだって、それに劣らず、み
じめなものだ。
 とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、
いじめ方があるらし い。彼もしくは彼女が
、存在しないように扱う。顔を合わさず、声
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をかわさず、存在自体を無視してしまう。こ
れは、一種の精神的殺∵人である。暴走より
も、万引きよりも、もっとひどい、最大級の
非行だと思う。
 ときに、いじめの計画者がいないことさえ
ある。集団自体が、いじめ存在になる。ちょ
っと怪談じみたこわさがある。こうしたと 
き、みんな普通の中学生で、だれも、いじめ
ているという意識のないことがある。これは
、なおこわい。いじめていないつもりで、い
じめてしまっている、このこわさの感覚は、
怪談の感覚である。
 ときには、いじめられている子までが、そ
れを意識していないこともある。こうなると
、最高にこわい。意識していなくても、いじ
めは存在している。意識にのぼらない魂の底
で、一種の夢魔の世界で、だれかがだれかを
いじめている。
(中略)
 中学生の間で、いじめが増えているという
のを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わ
ない。いじめっこも、たいていは、普通の子
だと思う。いまの中学生の状況が、そうした
弱い部分を作っているのだとは思う。
 それでも、もしきみが、よく考えてみて、
だれかをいじめているとしたら、すぐにやめ
たほうがよい。あとでかならず、それはきみ
にとって、とてもみじめな思いになる。相手
にたいしてだけでな く、きみ自身の未来の
ために、すぐにやめたほうがよい。
 だれかをいじめたくなるには、きみのおか
れている空気があろ う。それはわかる。で
も、そのために、だれかをいじめるとした 
ら、それはきみの弱さだ。人間というものは
、弱いもので、ぼくは人間の弱さを、むしろ
いとおしむほうだが、この場合だけは、い 
や、この場合こそ、きみに強くなってほしい

 やる気を出せとか、根性でがんばれとか、
そんな声にのっかっ て、強くなれというの
は、ぼくの趣味ではない。それより、どんな
状況にしろ、状況に負けて、他人をいじめる
ことで心のバランスをとったりしないような
、自分自身の心の強さがほしい。

(森毅「まちがったっていいじゃないか」)