1.【1】「今年の
恵方は、南南東だから、
窓の方を向いて食べるのよ。」
2.そう言って、母は、
恵方巻きを家族みんなに配った。父は、
3.「
恵方だか
阿呆だか知らないけど、昔は、こんなことはやらなかったなあ。」
4.などとぶつぶつ
文句を言っている。【2】そんな父を横目で見ながら、母は、
5.「さあ、始めるわよ。用意、スタート。」
6.と、
威勢のいいかけ声をかけた。そのかけ声に
後押しされるようにみんなで
恵方巻きを食べ始める。
恵方巻きを食べるときには笑ってはいけない。【3】「笑う門には福が来る」ということわざも、節分には通用しないらしい。
7.
私はいつも、なぜか笑いをこらえきれなくなり、くすくすと笑ってしまう。だから、今年こそは、最後まで笑わずに食べようと決心していた。しかし、スタートと同時に、もう笑いが
込み上げてくる。【4】しばらくは、必死にその笑いをこらえていたが、こらえればこらえるほど、おかしさがつのり、
私は思わず
吹き出してしまった。それをきっかけに、姉が笑い出し、
私たちを横目で見ていた父の
表情も
崩れた。気づくと、父は、目に
涙を
浮かべながらくっくっくっと笑いをこらえている。【5】そんな中、ただ一人冷静なのは、母だ。顔色一つ変えず、南南東を向いて、
黙々と恵方巻きを食べている。姉も
私も、母の、この
強靭な
精神力を
受け継がなかったようだ。
8.
恵方巻きを食べた後は、これも
恒例の豆まきだ。【6】父も、豆まきには積極的に参加する。いちばん大きな声を
張り上げているのは父だ。
我が家では、毎年「
鬼は外、福は内」と言いながら豆をまくが、地方によっては、「
鬼は内」とかけ声をかけるところもあるそうだ。【7】
私は、みんなの幸せを願う節分の日に、
鬼だけ外に追い出すという発想に、かねてから
疑問を
抱いていた。
鬼も幸せになれば悪さをしないと思うからだ。だから、「
鬼は内」とかけ声をかけるように父に
提案してみた。【8】父は、∵
9.「昔から、
鬼は外、福は内と決まっているんだ。
鬼はお庭にお
逃げなさいってなもんだ。」
10.と取り合ってくれない。
習慣とは
恐ろしいものだ。仕方がないので、
私は、心の中で「
鬼は内、福も内」と言いながら豆まきをした。
11. 【9】豆をまいた後は、みんなで年の数だけ豆を食べるのだが、姉も
私も年の数だけでは足りず、年の数の何倍も豆を食べてしまう。年の数以上の豆を食べるとどうなるのか心配だったので、調べてみると、自分の年の数より一つ多く食べると、体が
丈夫になって、
風邪をひかないという説もあることを知り、ほっとした。【0】年の数の何倍も食べれば何倍も
丈夫になるに
違いない。さらに調べてみると、豆は「
魔滅」に通じ、
鬼に豆をぶつけて、
邪気を
追い払うという意味があるらしい。
私は、ますます
鬼がかわいそうになった。せめて、豆をぶつけた後は、家に入れて、
介抱してあげてもよいのではないだろうか。
12. 節分のような日本
独特の行事は、そのいわれを正しく
理解し、後世に伝えていくことも大事だが、それ以上に大切なのは、家族そろって季節ごとの行事を楽しみ、温かい時間を
過ごすことだと思う。
13.「しょうがない。
鬼も中に入れてやろう。
鬼は内、福も内。」
14.父の声が
響いている。
15.(言葉の森長文作成委員会 Λ)