長文集  1月3週  ★ソクラテス(感)  ne-01-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2013/12/11 13:37:02
 【1】ソクラテス(紀元前四七〇~三九九
年)は、おそらく哲学の歴史をつうじてもっ
とも謎めいた人物だろう。ソクラテスはたっ
たの一行も書かなかった。なのにヨーロッパ
の思想に最大級の影響をおよぼした一人とさ
れている。【2】ソクラテスがとんでもなく
みっともない男だったことはたしかだ。チビ
で、デブで、目つきが陰険で、はなは空を向
いていた。けれども心は「金無垢のすばらし
さ」だったという。ソクラテスの母親はお産
婆(さんば)さんだった。【3】そしてソク
ラテスは自分のやり方を産婆術にたとえてい
た。たしかに子供を産むのは産婆ではない。
産婆はただその場に立ち会ってお産を手伝う
だけだ。ソクラテスは、自分の仕事は人間が
正しい理解を「生み出す」手伝いをすること
だ、と思っていた。【4】なぜなら本当の知
は自分のなかからくるものだからだ。他人が
接ぎ木することはできない。自分のなかから
生まれた知だけが本当の理解だ。(中略)
 【5】ソクラテスはソフィストたちの同時
代人だった。ソフィストたちと同じようにソ
クラテスも人間と人間の生活を論じ、自然哲
学者たちの問題にはかかわらなかった。(中
略)【6】けれどもソクラテスは重要なとこ
ろでソフィストたちとはちがっている。ソク
ラテスは、自分は知識(ソフォス)のある人
間やかしこい人間ではないと考えていた。だ
からソフィストたちとは反対に教えてもお金
を取らなかった。【7】そうではなくてソク
ラテスはことばの本当の意味で自分は哲学者
(フィロソフォス)だと名乗ったんだ。フィ
ロソフォスとは「知恵を愛する人」というこ
とだ。知恵を手に入れようと努力する人のこ
とだ。(中略)【8】哲学者は自分があまり
ものを知らないということを知っている。だ
からこそ哲学者は本当の認識を手に入れよう
といつも心がけている。ソクラテスはそうい
うめったにいない人間だった。ソクラテスは
自分は人生や世界について知らない、とはっ
きり自覚していた。【9】そしてここが大切
なところだよ、自分がどれほどものを知らな
いかということでソクラテスはなやんでいた
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のだ。哲学者とは自分にはわけのわからない
ことがたくさんあることを知っている人、そ
してそのことになやむ人だ。だから哲学者は
ひとり合点の知識でもってはな高だかの半可
通よりもずっとかしこいのだ。∵【0】「も
っともかしこい人は自分が知らないというこ
とを知っている人だ」とはもう言ったよね。
ソクラテスはこういう言い方もしている。わ
たしは自分が知らないというたった一つのこ
とを知っている、とね。このことば、メモし
ておくこと。なぜなら哲学者たちのあいだで
もこんな告白はめったにないからだ。さらに
はこんなことをおおっぴらに言うのは、命に
かかわるたいへん危険なことでもあった。い
つの世にも疑問を投げかける人はもっとも危
険な人物なのだ。答えるのは危険ではない。
いくつかの問いのほうが千の答えよりも多く
の起爆剤をふくんでいる。『裸の王様』の話
は知っているよね? 本当は王様はまっ裸な
のに家来のだれ一人そう言う勇気がなかった
。ふいに子どもがさけぶ。王様は裸だ、と。
勇気ある子どもだね、ソフィー。これと同じ
ようにソクラテスは人はどれほどものを知ら
ないかをはっきりさせた。裸だということを
つきつけた。つまりこういうことだ。ぼくた
ちはふさわしい答えがおいそれとは見つから
ないような重要な問いをつきつけられる。こ
こから先、道は二つある。一つは自分と世界
を全部ごまかして、知る値打ちのあることは
すべて知っているみたいなふりをする道。も
う一つは大切な問いには目をつぶって前に進
むことをすっかりあきらめるという道。とま
あ人間は二種類に分かれるんだね。少なくと
も人間は思いこみが強くてかたくなか、どう
でもいいや、と思っているかのどちらかだ。
これはトランプのカードが分けられるような
ものだ。黒のカードはこっちの山に、赤のカ
ードはそっちの山にと積みあげていく。とこ
ろがジョーカーが出てくる。これはハートで
もクラブでもないし、ダイヤでもスペードで
もない。ソクラテスはアテナイのジョーカー
だったんだ。彼は思いこみが強くてかたくな
でもなかったし、どうでもいいと思ってもい
なかった。ソクラテスは自分は知らないとい
うことを知っていただけだ。そしてそのこと
を思いつめていた。それでソクラテスは哲学
者になったのだ。あきらめない人、知恵を手
にいれようとあくことなく努める人に。
(ヨースタイン・ゴルデル)