a 長文 4.1週 na
 青い空をジェット機が飛んでいくのを見て、「樋口ひぐちさん、どうしているかなあ」と考える。
 樋口ひぐちさんが引っ越しひ こ ていったのは、つい先月のことだ。何度も同じクラスになった親友だから、一緒いっしょに卒業したかったけれど、それはできなかった。お父さんの仕事の都合で、ハワイに行ってしまったのだ。
 同じ日本の中ならともかく、海を越えこ た遠くにまで行ってしまうというのは、正直実感が持てなかった。驚きおどろ すぎて「ハワイってどこのハワイ?」などと言ってしまったほどだ。
 樋口ひぐちさんも不安でいっぱいだったようだ。
「言葉が通じないんだから、きっと新しい友達なんてできないよ……。」
 引っ越すひ こ 前、ふだんは明るい彼女かのじょがそんな弱音を吐いは ていたことが、今でも忘れわす られない。
 なんとか樋口ひぐちさんを元気づけたくて、わたしは自分がハワイに旅行したときのことを話してあげた。本当は、それはずっと小さいころの話で、記憶きおくはかなりあいまいだった。けれども、わたしはよいイメージばかりを思い浮かべおも う  て、明るく自信満々に次から次へと話をした。
 言葉は通じなくても、ハワイの人は「アロハ」の言葉ですぐに打ち解けう と てしまう。体も心も大きい人が多くて、すごく安心できる。それに食事がおいしい。ハワイの料理は、見た目も豪快ごうかい華やかはな  だし、飽きるあ  ことがない。何よりハワイは、日本の夏と違っちが て、じめじめ蒸しむ 蒸しむ しない。からっとしていてとても気持ちがよい。そんなところで、しかも、毎日きれいな海で泳げるなんて最高だ。
「それにね、ハワイでも日本語を勉強している人がいっぱいいるんだよ。」
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 とどめとばかりにわたしがそう言うと、ついに樋口ひぐちさんの顔色が明るくなった。わたしはそのとき、重く沈んしず 樋口ひぐちさんの気持ちを一本釣りいっぽんづ で引き上げたかのような晴れ晴れした気持ちになった。
 ハワイにいる日本の子供こどもたちが、故郷こきょうの言葉を忘れわす ないように熱心に日本語を学んでいるという話は、昔、先生から聞いたことがあった。そういう人がたくさんいるなら、きっとすぐに仲よくなれるし、助け合うことだってできるはずだ。だから、わたしがいなくても心配することなどないんだ……。
 わたし奮闘ふんとう甲斐かいあって、樋口ひぐちさんは元気にハワイへ旅立っていった。そろそろ最初の手紙が届くとど ころだと思う。新しい友達ができただろうか。それはどんな人だろうか。楽しみでもあり、ちょっぴり寂しいさび  ような思いもある。
 一緒いっしょにいることだけが友達ではない。離れ離れはな ばな になったとしても、何かをしてあげられることが大切なのだ。わたしは、そんなことが分かった気がした。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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a 長文 4.2週 na
 わたしは小さいころ、家の近くを流れる渡良瀬川わたらせがわから大切なことを教わっているように思う。
 わたしがやっと泳げるようになった時だから、まだ小学生のころだったろう。ガキ大将たいしょう達につれられて、いつものように渡良瀬川わたらせがわに泳ぎに行った。その日は、増水ぞうすいしていて濁っにご た水が流れていた。流れも速く、大きい人達は向こう岸の岩まで泳いで行けたが、わたしはやっと犬かきが出来るようになったばかりなので、岸のそばの浅い所で、ピチャピチャやって、ときどき流れの速い川の中心にむかって少し泳いでは、引き返して遊んでいた。ところがその時、どうしたはずみか中央に行きすぎ、気づいた時には速い流れに流されていたのである。元いた岸の所に戻ろもど うとしたが、流れはますます急になるばかり、一緒いっしょに来た友達の姿すがたはどんどん遠ざかり、わたしは、必死になって手足をバタつかせ、元の所へ戻ろもど うと暴れあば た。しかし、川は恐ろしいおそ   速さでわたし引き込みひ こ 、助けを呼ぼよ うとして何ばいも水を飲んだ。
 水に流されて死んだ子供こどもの話が、頭の中をかすめた。しかし、同時に頭にひらめいたものがあったのである。それはいつも眺めなが ていた渡良瀬川わたらせがわの流れる姿すがただった。深いところは青々と水をたたえているが、それはほんの一部で、あとは白いあわを立てて流れる、人のひざくらいの浅い所の多い川の姿すがただった。たしかに流されている所は、わたしよりも深いが、この流れのままに流されていけば、必ず浅いところに行くはずなのだ。浅いところは、わたしが泳いで遊んでいたあの岸のそばばかりではないと気づいたのである。
「……そうだ、何もあそこに戻らもど なくてもいいんじゃないか」
 わたしはからだの向きを百八十度変え、今度は下流に向かって泳ぎはじめた。すると、あんなに速かった流れも、わたしをのみこむほど高かった波も静まり、毎日眺めなが ている渡良瀬川わたらせがわ戻っもど てしまったのである。下流に向かってしばらく流され、見はからって、川底を探っさぐ てみると、なんのことはない、もうすでにそこはわたしももほど
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もない深さの所だった。わたしは流された恐ろしおそ  さもあったが、それよりもあの恐ろしかっおそ    た流れから、脱出だっしゅつできたことの喜びに浸っひた た。
 怪我けがをして全く動けないままに、将来しょうらいのこと、過ぎす た日のことを思い、悩んなや でいた時、ふと、激流げきりゅうに流されながら、元いた岸に泳ぎつこうともがいている自分の姿すがたを見たような気がした。そして、思った。
「何もあそこに戻らもど なくてもいいんじゃないか……流されているわたしに、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」
 そのころからわたし支配しはいしてた闘病とうびょうという意識いしきが少しずつうすれていったように思っている。歩けない足と動かない手と向き合って、歯をくいしばりながら一日一日を送るのではなく、むしろ動かないからだから、教えられながら生活しようという気持ちになったのである。
 東山魁夷かいい画伯がはくの書かれた本を読んでいた時、画伯がはくも少年のころ、海で波にさらわれ、たような体験をされたことを知り、非常ひじょう感激かんげきした。そして、なにげなく読みすごしていた聖書せいしょの一節が心にひびきわたった。
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実なかたですから、あなたがたを耐えるた  ことのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えるた  ことのできるように、試練とともに、脱出だっしゅつの道も備えそな てくださいます。」(コリント人への手紙第一 十章十三節)

(星野富弘とみひろちょ「四季 風の旅」より」
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a 長文 4.3週 na
 べつにすてきなものじゃないし、大したものでもない。何でもないものにすぎないが、どんなときにもなくてはかなわぬものとして子どものころからつねに身のまわりに、かならず手のとどくところにあって、とても親しい。ひとが人生で、そんなにも長く身近に付きあう家具はほかにないといっていいかもしれない。そうではあっても、だれにもとくに大切にされているというのでもない。
 くずかごはくずかごだ。いつもそこにあってそこに見えているのに、だれも見ていない。だれしもの人生のどんな一部を切りとっても日々の光景のどこかしらに、いつでもきまってくずかごが、きっと一つは置かれているはずなのに日々に欠かせぬ家具として重んじられているとはいえない。くずかごのないくらしはかんがえられないが、しかし、くずかごはやっぱりいつでもただのくずかごにしかすぎない。
 あってもなくてもどうでもいいものではないのだ。くずかごは、わたしたちとつねに、日々をともにしている。だが、どうしてだろうか。どうして、くずかごはまるで日のあたらない場所に置かれたまま、いつもあたかも「ないもの」のごとくにしかおもわれないのだろうか。どんなにすばらしい部屋であっても、くずかごはみすぼらしくてかまわない。そうであってすこしも奇妙きみょうにおもわれることがないということこそ、むしろ、奇妙きみょうなことではないだろうか。くずかごは、どうあれ、もっとも親しい毎日のくらしの仲間なのだ。
 わたしたちはどうかすると、くらしというのは、手に入れるものでつくられるのだとかんがえる。何かを手に入れることがくらしの物差しをつくるので、手に入れたものをどれだけいれられるか、その容積ようせきのおおきさがゆたかさの目安なのだ、と。そう期待して、いつのまにか身のまわりを手に入れたものでいっぱいにしてしまう。くずかごが片すみかた  に追いやられてわすれられるのも、むべなるかな(もっともなことの意)だ。そしてある日突然とつぜんとんでもないことに気づいて、びっくりする。そうやって手に入れたものが、日々に欠かせぬ必要なものどころか、そのおおくはどういうわけかすでに、ただのすてるにすてられないものばかりになってしまっている。
 そのときになってはじめて日々のくらしの姿勢しせいをつくるのは、何を手に入れるかではなくて、ほんとうは何を手に入れないかなのだということに、わたしたちは気づくのかもしれない。くらしにめりはりをつけるのは、何が必要かではない。何が不必要なのかと
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いう発見なのだ。あらためて身のまわりを見わたしてみて、何をすてるか、すてられるか、すてなければならないかに思いいたって、あまりもの不必要なものにとりかこまれた日常にちじょうの景色に、ほとんど呆然とぼうぜん してしまう。そして、ようやく部屋の片すみかた  に置きわすれられたままのみすぼらしいくずかごに目をとめて、どれほどこの日々に欠かせぬ仲間のことをないがしろにしてきたことか、いまさらのように思い知るのだ。
 日々のくらし方、ひとの住まい方ということをいうとき、まずかんがえるのは、くずかごのことだ。くずかごはおおきなくずかごがいい。くずかごのおおきさはそのひとのこころのおおきさに正比例せいひれいすると、勝手にそう決めている。部屋におおきなくずかごを一つ、こころのひろい友人として置くだけで、何かが変わってくる。くらしの姿勢しせいが、きっとしゃんとしてくる。

(長田ひろしの文より)
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a 長文 4.4週 na
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 いったい、ジャングルの破壊はかいは何が原因げんいんなのでしょうか。
 こうした地球的規模きぼの問題には、次にあげるふたつの大きな、根本的な原因げんいんがあると思います。ひとつは、ジャングルがある国はいずれも発展はってん途上とじょう国であり、貧しいまず  こと。もうひとつは、先進国のむだの多いライフスタイル(暮らしく  方)です。
 まず発展はってん途上とじょう国の場合は、人口増加ぞうかにともなって、ジャングルを大規模きぼに切り開いて農地にしたり、都市の人々を移住いじゅうさせたりしています。またたきぎ木の消費量が多くなり、森がどんどんへっているため、女性じょせいは何時間もかけて遠くの森までたきぎ木を拾いに行かなくてはならないような状況じょうきょうも生じています。たきぎ木が手にはいりにくくなったからといって、燃料ねんりょうをガスや電気にかえることもできません。こうした結果が、ジャングルの破壊はかいにつながっているケースもあります。
 また発展はってん途上とじょう国にとっては、ジャングルの木々が重要な資金しきんげんでもあります。ジャングルは自然がつくったものですから、新たに何かをつくり出す必要がなく、切って輸出ゆしゅつすればお金になります。マレーシア、インドネシア、フィリピンなど、ジャングルの破壊はかいが大きな問題になっている国では、いずれも木材の輸出ゆしゅつが国の経済けいざいの柱となっています。
 しかし発展はってん途上とじょう国の経済けいざい支えるささ  熱帯の木材も、価格かかくは今、戦後最低です。結局、今の世界全体の経済けいざい構造こうぞうそのものが、豊かゆた な先進国が動かしているような感じですから、いつも買いたたかれてしまうんです。安いから、いくら切って売っても、たいしてお金にはならなくなってしまっています。
 ただでさえ苦しい国の経済けいざい状況じょうきょうに加えて、外国からの借金も返さなくてはなりません。そのためには、ジャングルを伐採ばっさいするのもいたしかたない、伐採ばっさいをやめるわけにはいかないという事情じじょうがあるのです。
 そのいっぽう、豊かゆた な先進国では使い捨てつか す のものがふえるなど、
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むだの多い暮らしく  方が広まっています。これも、ジャングルを減少げんしょうさせているのです。
 たとえば、ファストフードの代表かくであるハンバーガー。とくに欧米おうべいのハンバーガーをつくるための安い牛肉は、中南米産がほとんどです。中南米のジャングルは、この肉牛用の大規模きぼな牧場建設けんせつのために、半分以上がなくなってしまったのです。
 豊かゆた な先進国では、ハンバーガーを食べなくても、他に栄養げんはいくらでもあります。木材にしても、なにも熱帯の木でなくてもかまわないでしょう。つまり、先進国の人々には選択せんたく余地よちがいくらでもあり、その暮らしく  方を少し変えさえすれば、ジャングルの減少げんしょう破壊はかいをくいとめられます。
 焼畑農業にしてもそうですが、これまでジャングルの伐採ばっさいに関する主だった研究は、先進国の人間によって行われてきました。出版しゅっぱんされた本も、先進国の立場から見たものが多かったのです。
 過去かこにこんな例がありました。先進国によってジャングルに木を植えるという試みが行われたのですが、木は育ったものの、ジャングルに住む人々にとっては、ちっとも役に立たなかったのです。
 植えられた木はやせ地でも、比較的ひかくてき育ちやすく、生長の早いユーカリやアカシアなどでした。これらの木は、二年もたてば五メートルくらいになるのです。ところが早く、大きく育つのは結構けっこうなのですが、これらの木が他の木に必要な養分も全部奪っうば てしまいます。ですからそこは、ユーカリやアカシアだけの森となり、もとのジャングルとはても似つかに  姿すがたになってしまうのです。そんな森には、動物や鳥もすみつかなくなるでしょうし、そうなったら、人々はその森から食べ物はおろか、肥料ひりょう飼料しりょうも得られなくなってしまいます。
 この例からもわかるように、「科学」や「技術ぎじゅつ」、「開発」とはなにか、だれのためのものか、あらためて考え直してみることが必要だと思います。

(生きている森編集へんしゅう委員会へん「未来の森 森があぶない」)
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長文 4.4週 naのつづき
 電車や飛行機の中で、乗務じょうむ員に対して理由もなく横柄おうへいな人がいる。こっけいだ。乗せてもらわなくては困るこま くせに、何をいばっているのだろう。きゅう国鉄の内部には「乗せてやる」という言い回しがあったそうで、それもひどい勘違いかんちが だと思うけれど。
 「いや、お客は偉いえら 。買う時は、だれもが王様になる」という考え方もあるだろう。しかし、それだと無用のストレスが社会に広がりそうで、賛同さんどうしかねる。王様やお姫様 ひめさまの気分にしてあげることを目的とした一部のサービス業を例外として。
 子供こどものころ、駄菓子だがし屋でキャラメルを買う時や、食堂で親が精算せいさんをしている時、「買ってやったぞ」とお客様面をしていた。高度経済けいざい成長期に育ったので、小学生でもいっぱしの消費者として扱わあつか れた結果と言える。そんなわたし現在げんざいのように「転向」したのは、自分が社会に出て接客せっきゃく現場げんばにいたせいだろうが、それに先立つ経験けいけんもある。
 中学生になるかならずかという夏休み。両親の郷里きょうりである高松で過ごしす  源平げんぺい合戦で有名な屋島に遊びに行った。三つ年下の弟と二人だったように思う。平日のことで山上に人は少なかった。蝉しぐれせみ   の遊歩道を散策さんさくしたわたしは、ある光景に出くわす。
 休憩きゅうけい所の店先に帽子ぼうしをかぶったおじさんが立ち、中をのぞいていた。五十代ぐらいの人だったのではないか。連れはいなかった。うどんでも食べて店を出ようとしていたらしい。おじさんは財布さいふ片手かたてに、店のおくに向かって言った。「ごちそうさまぁ」
 意外な言葉だった。代金を払おはら うとしているのに店員の姿すがたが見当たらない場合、とりあえず「すみませーん」と呼びかけるよ    ものだと思っていた。いや、それしか思いつかなかった。なのに、このおじさんは無料でもてなされたかのように「ごちそうさま」と言う。一瞬いっしゅんだけ違和感いわかんを覚えた後、わたしの内に変化が起きた。
 自分のために料理を作ってくれたのだから、お客として代価だいか支払うしはら としても「ごちそうさま」と言うのが礼儀れいぎにかなっている。
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考えたこともなかったけれど、それはそうだと納得なっとくし、お客は偉いえら わけではない、と知ったのだ。
 後日、食堂だかレストランだかで食事をして店を出る時に、わたしは小声でぎこちなく「ごちそうさま」と言ってみた。すると、照れくさい気もしたが、それだけのことで一歩大人に近づいたように感じた。以来、店側に不始末がないかぎり「ごちそうさま」を言い添えそ ている。
 屋島で見た何でもないひとコマが、わたしを少しだけ変えた。あのおじさんには、今も感謝かんしゃしている。先方は、すれ違っ  ちが ただけの少年に何事かを教えたとはゆめゆめ思っていないだろうが、大人の言動が子供こどもにあたえる影響えいきょうは、かほど大きいのだ。平素へいそから心しておかなくてはならない。
 書店員をしていて、いろんな人と遭遇そうぐうした。ブックカバーをつけただけで「どうもありがとう」と言ってくれる人ばかりではない。ささいな行き違いい ちが 激昂げきこうし、アルバイトの大学生に「おれは客やぞ。社長に電話したろか!」と金切り声でさけぶ小学生をなだめたこともある。根性こんじょうの曲がったガキだな、と思いつつ、君はろくな大人と会ったことないんだね、とかわいそうになった。

有栖川ありすがわ「お客は偉くえら ない」『二〇〇七年七月二十九日 日経新聞にっけいしんぶん文化面コラム』)
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a 長文 5.1週 na
 ぼくつくえは、兄からもらったものだ。しっかりした作りで茶色く光っている。よく見ると、何かのシールをはってはがしたあとがある。
 ぼくがそれまで使っていたつくえは、小さくて、つくえの上に資料しりょう並べなら きれないことがよくあった。すると、それを見ていた母が、「お兄ちゃんのつくえ交換こうかんしたら」と言ってくれた。兄は、近所にいる人が遠くの学校に行くようになったので、そのつくえをもらうようになったらしい。
 こうして、ぼくは、兄の大きいつくえを使うことになった。大変だったのは、これまでのつくえの引き出しの中にある細々としたものを移すうつ 作業だった。引き出しの中身を出してみると、いろいろ懐かしいなつ   ものが出てきた。いちばんの収穫しゅうかくは、なくしたとばかり思っていたキラカードが出てきたことだ。これは、小学校二年生のころに熱中したもので、もう今では遊ばないが、ぼくにとっては大切な宝物たからものだった。中身を移しうつ たこれまでのつくえは、もう古くなっていたので、粗大そだいゴミに出すことになった。
 そのばん、父が帰ってきて、ぼくのつくえを見て言った。
「おお、お兄ちゃんのつくえにしたのか。今の子は、いいなあ。お父さんのころは、みんな、食卓しょくたくで勉強をしたんだぞ。」
 父が小学生のころ、食事のあとのテーブルで学校の宿題の作文を清書していたらしい。最後の一まいを仕上げて、「やっとできた。万歳ばんざい」と手を上げたときに、近くの醤油しょうゆを作文の上にこぼしてしまった。それを見た祖母そぼが、「一度はきれいに書いたんだから、いいんじゃない」と言ってくれたので、父は醤油しょうゆ拭いふ てそのまま提出ていしゅつすることにした。翌日よくじつ担任たんにんの先生はその作文を見ると、「これは味のある作文だ」と言って大笑いしたらしい。ぼくは、その話を聞いて、何だか昔ののどかな映画えいがを見ているような気がした。
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 数日後、粗大そだいゴミとなった昔のつくえ回収かいしゅう日が来た。朝早く、ぼくと母は、つくえを指定の場所に運んだ。中身が空っぽになったつくえは、仕事をすっかり終えたおじいさんのようだった。ぼくが学校に行くときも、つくえはまだそのままだった。
 その日の授業じゅぎょうを終えて家に戻るもど とき、朝、つくえを置いた場所を見ると、そこにはもう何もなかった。そのとき、ぼくは、そのつくえぼくの友達だったのだなあと分かった。
 家に入ると、兄からもらった新しい茶色のつくえがあった。それを見ていると、昔のつくえが遠くからこう語りかけてくるようだった。
「これまで長い間、ありがとう。ぼくの仕事は新しいつくえ君に引き継いひ つ だから大丈夫だいじょうぶ。」
 ぼくは、うんとうなずくと、新しいつくえの上に静かにカバンを置いた。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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a 長文 5.2週 na
 さて、人間を科学的に知ろうとすると、えてして人間を、機械のように考えようとする傾向けいこうがあります。心臓しんぞうはポンプで、はカメラで、のうはコンピューターのようなもの、と考えたりします。テレビのSF作品にも、よく登場する機械のような人間や、人間のような機械がそれです。
 人体を機械と同じように、心臓しんぞうや胃などの部分品が集まってできているものと考える考え方では、胃がおかしいときには胃という部分品が故障こしょうしたと考えます。そうして、胃を修繕しゅうぜんしさえすれば、病気が治ったと考えることになります。
 また、のうとコンピューターを同じに考える人には、いまのコンピューターはのうの代わりを完全につとめることはできないまでも、ある面ではのうよりもすぐれているようにみえます。そうして、いつの間にか、コンピューターと同じようにはたらくのうをすぐれたのうと思うようになります。速く正確せいかくに計算ができたり、なんでもそのまま記憶きおくできたりすることが、アタマがよくなることだと考えている人も少なくないでしょう。
 しかし、人間は機械と同じなのでしょうか。人間は複雑ふくざつな機械にすぎないのでしょうか。もちろん、人間には機械にたところもあります。そこで、人間のことを機械を研究するように研究するのも無意味ではないのですが、しかし、そこでわかることは人間の一面だけなのです。それを暗示あんじする例を一つ紹介しょうかいしましょう。
 アメリカでは、一九七七年の建国二〇〇年を記念するつもりでその何年も前から火星へのロケット着陸とガン制圧せいあつという二つの大きな研究目標をたてました。このときまでに科学者が力を合わせて大規模きぼな研究をした結果、すでに人工衛星えいせいをつくることができたし、月旅行も成功していました。従ってしたが  、この二つの大きな研究目標も同じように達成できるという自信があったのでしょう。ところが月旅行の技術ぎじゅつを進歩させた火星ロケットは成功しましたが、一方のガンの治療ちりょうの方はあきらめざるをえませんでした。つまり、機械をつくる科学は急速に進歩していますが、そういう科学では生物や人間のことは必ずしもわからないのです。機械と人間は同じで
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はないからです。
 それでは、どこが違うちが のでしょう。それは、人間は、いつも生きるために行動するということが違うちが のです。機械は生きていませんから、生きるために行動するということはありません。「なんだ、そんなことか」と君は思うかもしれません。しかし、問題はそれからです。つまり、この話は、生きるとはどういうことかがわからないと、ほんとうの意味はわかりません。
中略ちゅうりゃく
 さらに、まだ違うちが 点があります。機械ならば、いつも同じように動いている方がいい機械だということになります。進んだり後れたりする時計や、ときに動かないこともある自動車などというものは故障こしょうしている機械です。しかし、人間はいつも同じことをしてはおりません。人間は、ただ動いていればいいというものではないのです。
 たとえば、君は毎日同じように学校に通っていますが、一日一日の生活は、けっして同じではありません。勉強や友達の話から新しいことを一つでも知れば、それだけ君の生活も変わります。とにかく、君が生まれたときには、ときどき泣いたりおちちを飲んだりするだけで、あとはほとんど眠りねむ つづけているという赤ちゃんでした。
 その君が、いまはこの本を読むようになるまで、毎日少しずつ変わってきているのです。
 このように、変わってゆくのが人間ですが、それは、ただ変わるのではなくて、進歩し、高等になってゆくのです。機械は使ってゆくうちにむしろ性能せいのうが落ちてゆくのですから、人間とはまるで反対です。つまり、人間はただ死なないように行動しているというのではなく、進歩発展はってんするという点で機械と違うちが のです。生きるとはそういうことなのです。
 念のために書いておきますが、これは、人間は進歩発展はってんしなければならない、といっているのではなく、人間は進歩発展はってんするようにつくられている、ということなのです。いやでも、そうなるようになっている、ということです。

(千葉康則やすのりのうのはたらき」より)
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a 長文 5.3週 na
 モグラは食虫類に属しぞく 、からだのしくみは原始的です。歯も特に発達したものではありません。
 昔の人は、畑の作物の根をかじる悪じゅうと思って殺しましたが、それはぬれぎぬ。真犯人しんはんにんは、かじるのがしょうばいのノネズミであって、モグラの貧弱ひんじゃくな歯では、堅いかた 植物の根などかじれるものではありません。しかし、柔らかいやわ   虫を捕えとら て食べることはできるのです。
 モグラは、ミミズ食いしょうばいです。だから、食事をするには土を掘りほ 、トンネルを掘らほ ねばなりません。でも、トンネル掘りほ は重労働で、とてもお腹 なかがすきます。だから、ミミズを食べなければなりません。それには、トンネルを掘らほ ねばならず、とてもお腹 なかがすいて……。だからモグラは一日に五〇ひきもミミズを食べ、一日なにも食べないと死んでしまいます。そんなことを知らないで昔の人は、モグラを捕らえと  てかごに入れておくと一日で死んでしまうものですから、「日光に当たると死ぬ」のだ、と誤解ごかいしたのです。
 そんな苦労があっても、土の中にはモグラ以外のミミズ食いの競争相手も、モグラ食いの動物も、まあいないので、モグラは「気らく」に生きていくことができます。これが、地上で虫を食う生活だと、すばしこい鳥たちみたいな競争相手や、イタチみたいな小動物食いしょうばいのけものなどがいっぱいいて、原始的なからだのモグラはとてもやっていけないでしょう。
 このようなモグラの、きわめてモグラ的な生活を支えささ 、まるでモグラのシンボルみたいにみえるのが、モグラの前あしです。それはシャベルそっくりで、じつに巧みたく に、すばやくトンネルを掘るほ ことができます。掘っほ 掘っほ 掘りほ まくり、ミミズを食べて食べて食べまくるモグラの生活を可能かのうにしているのが、モグラの「シャベル」なのです。
 モグラのからだは、ほかの食虫類と同じように、原始的なのですが、前あしだけ特別に発達しているのです。
 哺乳類ほにゅうるいのそれぞれの種のからだには、その種の生活の実体を象徴しょうちょう的に現しあらわ ているしくみがそなわっています。ライオンのきばはけもの食いしょうばいのシンボルです。キリンの長い首はいかなる
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猛獣もうじゅうをも先にみつけてしまいます。ゾウの長い鼻は、巨大きょだいなからだを移動いどうさせるために支出ししゅつするエネルギーを最小に抑えおさ て、大量の木の葉を一網打尽いちもうだじんに食べることを可能かのうにしています。
 では、人間のからだにそなわった、人間の生活を象徴しょうちょうするものはなにでしょうか。それは、手です。
 はるか昔、人間の祖先そせんは直立二足歩行をかちとることによって、前あしを手に転化することができました。手は、木片もくへんや動物のほねや石や、つまり自然のものに働きかけてそれを意図的につくりかえ、さまざまな道具をつくり出すことができました。
 モグラの前あしは、ちょっと見たところでは、人の手にているようにみえるかもしれません。しかし、それは、トンネル掘りほ 一本槍いっぽんやりで、ほかのことはしません。もし、モグラの前あしがほかのことをすれば、それはモグラであることをやめることを意味し、滅びほろ てしまいます。
 人間の手は、そうではありません。手は、それがつくられたはじめから、いろいろな目的に対応たいおうした、多様な道具をつくりだしたのです。
中略ちゅうりゃく
 ライオンのきばはどんなに鋭くするど ても、それはライオンの遺伝子いでんしによって伝えられたものであって、ライオンの意志いしで作ったものではありません。モグラのすばらしい「シャベル」も、当のモグラにとっては「知っちゃいない」のです。
 それにたいして、人間の祖先そせんが作った道具は、それがかりにきわめて単純たんじゅんなものであっても、やはり、人間が意図的に、人間の意志いしによって作ったものです。

 (中原正木「人は足から人間になった」)
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a 長文 5.4週 na
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 南博人ひろと従順じゅうじゅんな子であり、いたずらっ子でもあった。先生に反抗はんこうらしい態度たいどに出たことは一度もなかった。しかしかれは、そのとき、先生が言った最後の言葉に疑問ぎもんを持った。ひとりで山へ入ったならば、自力で頂上ちょうじょうへ出ることは困難こんなんであるということにうそを感じた。札幌さっぽろ郊外こうがいにある藻岩山もいわやまは、かれが生まれた時から馴れな た山だった。道をそれても、上へ上へと登っていけばやがては頂上ちょうじょうへ出られるはずである。それは小学校五年生の理屈りくつであった。
「おい、南どうした」
 列が動き出しても頂上ちょうじょうの方も見詰めみつ たまま立っている南に不審ふしんをいだいてとなりの少年が話しかけた。
「おれは、山の中へ入る。先生に言うなよ、言ったら、げんこつくれてやるぞ」
 南の受持ちの先生のあだなはげんこつ先生である。悪いことをすると、げんこつをくれるからである。南はげんこつ先生の真似まねをして、となりの少年をげんこつでおどかしてやぶの中へ飛びこんだ。やぶの中を頂上ちょうじょうまで登る気はなかった。道をそれたら、頂上ちょうじょうへ出られないという先生のことばが、ほんとうかうそかたしかめたかったし、同時にかれは山の中がどんな構造こうぞうになっているかも知りたかった。かれはクラスで走るのは一番速かったから、五分や十分の道草を食っていても、直ぐ追いつける自信があった。それにげんこつを見せた以上、だれかが先生に告げ口をするということはまず考えられなかった。かれ餓鬼大将がきだいしょうだった。
 かれはやぶへ入った。木が密生みっせいしている間をかいくぐっていくと、木の芽の強い芳香ほうこうかれの鼻をくすぐった。かれ幾度いくどかくしゃみをした。くしゃみが誰かだれ に聞えはしないかと、耳を済ませす  たが、もう少年たちの足音は聞えなかった。
 かれはにっこり笑った。たいへん面白い考えが浮かんう  だからである。少年たちは六十名いた。彼等かれらが先生に引率いんそつされて頂上ちょうじょうに達するまでに、先廻りまわ をして頂上ちょうじょうに行ってやろうという野望を起した
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のである。先廻りまわ をしたつみで、げんこつ先生に一つぐらいげんこつを頂だいちょう  してもかまわないと思った。
 かれは森の中を頂上ちょうじょう目がけて登り出したが、道のないところを登ることがいかに困難こんなんであるかを知ると、かれ自身のやっていることが、かなり冒険ぼうけんであることに気がついた。
 かれはもと来た道へ引き返そうとして、そっちの方へ移動いどうしたが、道らしいものはなく、いよいよ樹木じゅもくの深みにはまりこんでいった。かれはひどくあわてた。かれ幾度いくど叫ぼさけ うとしたが、声は咽喉いんこうで止った。かれなみだをためた。先生のいうとおりだとすれば、さっきかれがたてた理屈りくつがおかしくなる。頂上ちょうじょうは一つだ、登っていけば必ず頂上ちょうじょうに行き当るはずだ。
 かれは気を取り直した。道を探すさが ことはやめて、一途いちず頂上ちょうじょうを目ざして直登ちょくとしていった。必ず頂上ちょうじょうがあると思いこんでいれば、道に迷っまよ たことも、朋輩ほうばいたちと別れたことも、先生に叱らしか れることも、少しも怖くこわ はなかった。
 高い方高い方へ登っていくと、少しずつ明るさが増しま て来ることがかれにとって希望だった。明るさが増しま て来ることは、頂上ちょうじょうに近づいていることだとは分らなかった。やがてかれは道とも踏みふ あとともつかないものに行き当った。そこを登っていくと、ややはっきりした山道に出会い、そこから頂上ちょうじょうまでは楽な登りだった。
 げんこつ先生は真青な顔をして待っていた。

(新田次郎じろう「神々の岸壁がんぺき」)
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長文 5.4週 naのつづき
 樹木じゅもくは生命の危険きけんを感じると早く子孫を残さなければと多くの種子をつける。実際じっさいかきの実やどんぐりが豊作ほうさくになるようにと子どものころ木のみきを思いっきり蹴飛ばしけと  経験けいけんがある。
 戦後せっせと植えたスギも、林業が儲からもう  なくなって手入れがされなくなった。とくに間伐かんばつがされていないスギ林は、スギ同士の過酷かこく生存せいぞん競争でひょろひょろな木となり、ストレスが大きくなっている。こんな環境かんきょうによって、スギの木も生命の危険きけんを感じ、種子をたくさん残そうと雄花おばなをたくさん付け、花粉を大量に撒きま 散らしているということなのではないだろうか。
 九州の熊本くまもとから九州自動車道を南下すると、八代インターチェンジを過ぎす てから道路は山間に分け入っていく。多くのトンネルと急カーブが続き、全長約六キロメートルの肥後ひごトンネルを抜けるぬ  と、九州で有数の林業地である人吉盆地ひとよしぼんちに入る。道路の両側は急峻きゅうしゅんな山地が空を狭めせば 、森林が天に伸びの ている。しかし、近年、その風景に変化が現れあらわ ている。何気なく通る多くの人たちは気付くことはないのかもしれないが、職業しょくぎょうがらわたしにはどうしても気になってしまう。それは、至るいた ところでかなりの面積にわたり森林が伐採ばっさいされていることだ。戦後、せっせと先人たちが植林したスギの林がようやく伐採ばっさいできるまでになって、利用されるようになったという意味では好ましい現象げんしょうだが、問題なのは、伐採ばっさいされた箇所かしょに植林された形跡けいせきがないことだ。
 わたしたち、森林・林業にかかわるものからすれば、「ったら植える」が常識じょうしきである。しかし、今やこのような常識じょうしき常識じょうしきでなくなってきている。それどころか、これら植林放棄ほうき地の状況じょうきょうをみると、森林所有者が森林を土地ごと手放すケースが増えふ ている。これは、森林を買う木材生産業者が、木材価格かかくの下落に伴いともな 採算さいさんせい維持いじするためにより大きな面積の森林を買い入れようとする意
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向があり、これが森林所有者の森林を所有することへの負担ふたん感と相まって、土地ごとの売却ばいきゃく後押しあとお しているようだ。
 日本の文化は森と木の文化であるといわれる。
 森林に恵まれめぐ  た国土で、その資源しげん巧みたく に利用してきたというのは当たり前だが、とくに日本では、森林を形づくる樹木じゅもくの種類が豊富ほうふであることから、じゅ種の違いちが による木材の性質せいしつも様々であり、その違いちが を上手に使い分けてきた。住まいや身の回りの道具に至るいた まで、こんなものにはどの木を使うという知恵ちえは、すべての人がもっていた。お櫃 ひつにコウヤマキ、まな板にイチョウ、つまようじにはクロモジ、下駄げたやたんすはキリ、家の土台はクリなどだ。
 また、木材を無駄むだなく使うということにも意を用いてきた。まさに、日本人は木とともに生き、木によって生活を維持いじし、木の上手な使い方をあみ出してきた民族である。
 しかし、ここ数十年、木の文化は急速に失われつつある。安価あんか均質きんしつに大量生産できる石油化学製品せいひんなどの代替だいたい品がわたしたちの日常にちじょう氾濫はんらんするようになったからだ。木材にしても、外国からやってくるものが八わり以上を占めるし  ようになっている。このままでは、日本の木の文化は、文化財ぶんかざい美術びじゅつ品などの特殊とくしゅ伝統でんとう文化に残されるだけになるのかもしれない。
 こうなると、国内の木材はますます使われず、価格かかくも下落していくだろう。結果、国内の森林を守ってきた林業も立ち行かなくなる。そして、間伐かんばつなどの手入れもされず森林の放棄ほうき拡大かくだいしていくことになる。
 わたしたちにとってなくてはならない森林が、今、危機ききひんしている。

(矢部三雄みつお恵みめぐ の森 癒しいや の木』(講談社こうだんしゃ+α新書)より)
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a 長文 6.1週 na
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
「先生、その話は前に聞きました!」
 ぼくが通う個人こじんじゅくの先生は、祖父そふと同じぐらいの年のおじいちゃんだ。それもそのはずで、ぼくの母が子供こどものころ、勉強を習っていたというくらい昔から先生をしているのである。頭ははげていて、やせているが、背すじせ  はいつもピンと伸びの ている。声も大きくて、授業じゅぎょうはとてもわかりやすい。
 ただし、先生の話はときどき脱線だっせんする。特に、好きな時代げきの話となると、前にも聞いた内容ないようを何回でも繰り返すく かえ 授業じゅぎょう時間がつぶれると喜ぶ人もいるが、テストの直前でもそれをやるので、そのときにはみんな焦っあせ てしまう。
 そんな先生の話の中でも、とくに強烈きょうれつだったのが「海底戦車」だ。地理か歴史の授業じゅぎょうのときに聞いた話だった。冷戦時代に、ソ連が作った「海の中を走れる戦車」が、オホーツク海を渡っわた てはるばる日本まで偵察ていさつに来ていたのだという。当時の雑誌ざっしに、くっきりと車輪のあとがついた海底の写真が載っの ていたそうだ。まるで、今で言う「都市伝説」のような話である。
 母に聞いた話によると、先生は、昔はとても怖かっこわ  たそうだ。母もひどく叱らしか れて、泣きたくなったことがあったと言う。それは「海底戦車」以上に、ぼくにとって信じられないことだった。今の先生は優しくやさ  て、叱らしか れたことなど一度もない。
 次の日、ぼくは先生に「うちのお母さんが、泣きたくなるほど怖かっこわ  たって言ってたけど本当ですか」と、みんなの前で聞いてみた。すると、先生が突然とつぜんぼくをにらみつけ、低い声で、
「こんな風に泣かせてたんだぞ。どうだ怖いこわ か。」
凄んすご だ。そのあまりの迫力はくりょくに、ぼくばかりか周りにいた友人たちも一瞬いっしゅん凍りついこお   たかのように息を飲んだ。
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 僕たちぼく  がおびえているのに気づき、先生はすぐにいつもの雰囲気ふんいき戻っもど て、「こういうのは疲れるつか  から、怒らおこ せないでくれよ」と笑った。軽い冗談じょうだんのつもりだったのだろうが、僕たちぼく  がその言葉に従おしたが うと思ったことは言うまでもない。悪いことはしませんと、先生に宣誓せんせいしたのだ。
 ぼくは大人になったら、性格せいかくはずっと変わらないものだと思っていた。しかし先生のような人でも、昔と今でそんなにも違うちが 人間は変わっていくものなのだなあとしみじみと分かった。
 今はぼくに小言を言う母も、子供こどものころは先生に泣かされていた。もし、母がおばあさんになったら、今度はもっと変わるのかもしれない。そのとき、ぼく自身はどうなっているのか、ちょっと楽しみだ。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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長文 6.1週 naのつづき
 芙蓉ふようの花のめしべとおしべの位置関係は自花受粉をさけ他花受粉を求める形だったわけです。もっとも、めしべとおしべの間がはなれているとは言っても、わずかのへだたりであり、こん虫が自花の花粉をめしべに運ぶこともあるでしょうから、自花受粉をさけるための確率かくりつはあまり高くありません。
 しかし、もっと効果こうか的に自花受粉をさけ、他花受粉の機会をふやすための特殊とくしゅな方法を持っている両性りょうせい花もあるのです。
 特殊とくしゅな方法とは、めしべとおしべの成熟せいじゅくする時期をずらしていることです。これは、雌雄しゆうじゅく呼ばよ れている現象げんしょうで、めしべが先に熟しじゅく 花粉を受精じゅせいできる状態じょうたいになっているのに、自花のおしべは熟しじゅく ていない(花粉を出さない)――こういう仕組みのものを雌性先熟しせいせんじゅくといい、ぎゃくの場合を雄性先熟ゆうせいせんじゅくと言います。どちらもかなり高い確率かくりつで自花受粉をさけることができますが、この確率かくりつをもっと高めるために、もう一つ変わった方法を駆使くしする両性りょうせい花もあります。
 たとえば、タツノタムラソウという花の場合は、おしべが先に熟しじゅく て(ゆうせいじゅく)、花粉を出している間、めしべは、おしべの先(やく=花粉を生ずる部分)からできるだけ遠ざかるように後方に反り返っています。おしべが花粉を出しつくしたころ、めしべは真直ぐにのびます。雌雄しゆうじゅくが時間差法ならば、この場合は高級な空間差法でしょうか。
 こうまでして花が自花受粉をさけるのは、すでに述べの た通り、いい種子を得るためですが、一体、なぜ自花の花粉より他花の花粉を求めるのでしょうか。
 わたし仮定かていですが、生命というものは、自己じこに同意し自己じことの結合をくり返している末には多分、衰滅すいめつしてしまうものです。そういう成りゆきを避けるさ  ために、生命はあえて異質いしつの他者を生殖せいしょく過程かてい中に取りこむのではないか、花が他花受粉を求めるのも、異質いしつな他者の因子いんしと結合することで自己じこ改造かいぞう継続けいぞくしてゆくのではあるまいか、そのように思うのです。
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a 長文 6.2週 na
 インドではほうぼうの町角で自転車の修理しゅうり屋を見かけた。間口一間くらいの、新品自転車など一つも置いていない、寄せよ 集めの中古部品ばかりごたごた重なっている小さな店である。そこに持ちこまれるのも、いかにも実用品といった、さんざん使い古したしろものだ。そこでパンク直し、部品交換こうかんをし、また雑踏ざっとうの町中に走ってゆく。自転車はインドでは貴重きちょう品であり、日常にちじょう生活の重要な道具だから、そういう店はどこでもはやっていた。
 わたしは町中でそんな店を見かけると立止ってしばらく眺めなが 、なんだかとても懐かしいなつ   気がした。自転車だってあのころは大変役立つ交通機関で、みな荷台の大きな黒い実用品であった。わたしの父はよくそのうしろにリヤカーをつけ、材木だのセメントぶくろなどを仕事場に運んでいったものである。
 駅前広場には毎朝夥しいおびただ  数の自転車が乗りすてられていくが、大抵たいていはサイクリング用で、あの黒くて荷台のついたやぼったいやつなど一台も見かけない。子供こどもたちは変速ギアのついたしゃれたのを平気で公園に置き去りにしていく。インドの子供こどもらが見たら何と思うだろう。
 くつでも自転車でもタクシーでもバスでも、インドでは実際じっさい徹底的てっていてき修理しゅうり再生さいせいして、とことんまで使いきるらしかった。町中で新品にお目にかかるほうがめずらしかった。これは一言でいえば、日本が大量生産大量消費の工業国であり、インドが生産せい乏しいとぼ  貧しいまず  国だということなのだろうが、わたしは、両方を見くらべてなんだか釈然としゃくぜん しないのである。どっちかが間違っまちが ているように思えてならないのだ。
 限りかぎ ある地球上の資源しげんを、一方はとみにまかせて不必要に浪費ろうひし、一方はどんなものでもとことんまで使い切ろうとする。そういう点からばかりでなく、子供こどもたちの教育、心の問題としても、現在げんざいの日本のような経済けいざい力にまかせた浪費ろうひ習慣しゅうかんは、よい影響えいきょう与えるあた  とは考えにくい。
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 インドを一月ほど旅行しているあいだじゅうわたしが考えさせられたのは、人間は一体生きるために本当に何を必要とするか、ということだった。快適かいてきな生活の追求はしばしば贅沢ぜいたくいき接しせっ 、人間に本来の生の姿すがた忘れわす させるのではあるまいか。ともかく現代げんだい日本人がおごっているのは確かたし なようである。
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a 長文 6.3週 na
 コオロギは「リーリー」と鳴くというけれど、「リーリー」と聞こえるのは人間の耳にそう聞こえるだけのことで、コオロギにはどう聞こえているのだろう、そんなことを小学生のころふと考えたことがあります。人間の耳とコオロギの「耳」の構造こうぞうはまるでちがったものでしょうから、少なくともコオロギが人間が聞いているのと同じように「リーリー」という音を聞いているという保証ほしょうはありません。そのように考えれば、同じ人間でも全く同じ耳はないのですから、わたしたちは個人こじん個人こじんで、少しずつちがった音を聞いているのかもしれません。ヨーロッパの人の耳には、あの美しいコオロギの鳴き声も雑音ざつおんとしてしか聞こえないという話もどこかで聞いたことがあります。聴覚ちょうかくのしくみが日本人とヨーロッパ人ではちがうというのです。
 先日ラジオで、東京ではアオマツムシが木の上でうるさいほど鳴いていて、他の虫の声が聞こえないほどだ、このアオマツムシは明治時代に中国から渡っわた てきた帰化昆虫こんちゅうで、どうも声がうるさすぎて味気ないというような話をしていました。それを聞きながら、横浜よこはまに住んでいるわたしは、どうしてその虫が横浜よこはまにはいないのだろうと不思議に思ったのですが、つい先ごろ、ぼんやりと庭に出て夕涼みゆうすず をしている時、妙にみょう 大きな声の虫が鳴いているのに気がつきました。何もこの声は今年初めて聞くようなめずらしいものではなく、今まで毎年秋の初めに聞いてきた声で、わたしは今までずっとそれをコオロギだと思ってきたのですが、ラジオの話を思い出して、ひょっとしたらこれがあのアオマツムシかもしれないぞと思ったのです。そうなると、やもたてもたまらず確かめたし  たくなって、懐中かいちゅう電灯を持って庭の木の葉の上を探しさが ました。そして一時間ほどの探索たんさくの末、わたしは今まで見たこともない緑色の虫が、緑色の葉の上で大声で鳴いているのを発見したのでした。それ以来、今まで少し声の大きなコオロギだなということぐらいしか考えず、むしろ秋を感じさせる虫の声として楽しく聞いていたその声が、急にうるさく感じられるようになってしまったのです。
 わたしたちは、実際じっさいの体験を通じていろいろな知識ちしきを身につけてゆくのだと、単純たんじゅんに考えています。コオロギの声を聞いて、コオロギという虫を知り、セミをつかまえて、セミという虫の形や色に
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ついて知るというように。けれども、実際じっさいには、自分自身の直接的ちょくせつてきな体験を通して得られる知識ちしきは案外少ないのです。むしろわたしたちは、他人から知識ちしき与えあた られることによって、自分の体験をはばの広いものにしていくといった方がよいでしょう。極端きょくたんな言い方をすれば、わたしたちは、知っているものしか見えないし、聞こえないのです。
 サッカーのルールについて何も知らずに、サッカーの試合を見ても、おそらく何もおもしろくないでしょう。そればかりか、何でボールを手に持って走らないのだろうとか、何でゴールキーパーをみんなで押さえお  てしまわないのだろうかとか考えてイライラするにちがいありません。手を使ってはいけないというルールがあるのだということを知っているからこそ、足で上手にボールをあやつる選手の姿すがたがすばらしいものに見えるのです。それを知らなければ、足だけで懸命けんめいにボールをけっている姿すがたはこっけいなものでしかありません。
 知識ちしき現実げんじつの見え方や感じ方を変えてしまう力を持っています。コオロギは日本に昔からいる虫だがアオマツムシは外国から渡っわた てきた虫だという知識ちしきが、コオロギの声はきれいだが、アオマツムシの声はうるさくて耐えがたいた    というふうに感じさせてしまいます。逆にぎゃく ゆかに落ちたステーキをそのまま皿に乗せて出されても、そのことを知らなければ、わたしたちは平気でそれを食べてしまうでしょう。「知らぬがほとけ」というわけです。
 現実げんじつの見え方や、それに対する感じ方を変えてしまうものは、知識ちしきだけではありません。習慣しゅうかんもその一つです。日本人とヨーロッパ人では聴覚ちょうかくのしくみがちがうという話も、考えようによっては、虫の声を楽しむという日本人の習慣しゅうかんが、日本人の耳を少しずつ変化させてきたのだとも言えるでしょう。
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a 長文 6.4週 na
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 ちょうど、その前の年、ぼくが六年生の晩秋ばんしゅうのことであった。
 中学へ入るための予習が、もう毎日つづいていた。暗くなって家へ帰ると、梶棒かじぼうをおろしたくるまが二台表にあり、玄関げんかんの上がり口に車夫しゃふがキセルで煙草たばこをのんでいた。
 この二、三日、母の容体ようだいが面白くないことは知っていたので、くつを脱ぎぬ ながら、ぼくは気になった。着物に着がえ顔を洗っあら て、電気のついた茶の間へ行くと、食事のしたくのしてある食卓しょくたくのわきに、編み物あ ものをしながら、姉はぼくを待っていた。ぼくはおやつをすぐにほおばりながら聞いた。
「ただ今。――お医者さん、きょうは二人?」
「ええ、昨夜からお悪いのよ」
 いつもおなかをへらして帰って来るので、姉はすぐにご飯をよそってくれた。
 父と三人で食卓しょくたくを囲むことは、そのころはほとんどなかった。ムシャムシャ食べ出した後に、姉もはしをとりながら、
「節ちゃん、お父さまがね」という。「あさっての遠足ね、この分だとやめてもらうかも知れないッて、そうおっしゃっていたよ」
 遠足というのは、六年生だけ一晩ひとばん泊まりと  で、修学旅行しゅうがくりょこうで日光へ行くことになっていたのだ。
「チェッ」ぼく乱暴らんぼうにそういうと、ちゃわんを姉につき出した。
「節ちゃんには、ほんとにすまないけど、もしものことがあったら。――お母さんとてもお悪いのよ」
「知らない!」
 姉は涙ぐんなみだ  でいる様子であった。それもつらくて、それきりだまりつづけて夕飯をかきこんだ。(中略ちゅうりゃく
 生まれて初めて、級友と一泊いっぱく旅行に出るということが、少年にとってどんなにみりょくを持っているか! 級の誰彼だれかれとの約束や計画が、あざやかに浮かんう  でくる。両のなみだがいっぱいあふれてきた。
 父の書斎しょさいのとびらがなかば開いたまま、廊下ろうかへ灯がもれている。(中略ちゅうりゃく
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 いつも父のすわる大ぶりないす。そして、ヒョイッと見ると、たくの上には、くるみを盛っも た皿が置いてある。くるみの味なぞは、子供こどもえんのないものだ。イライラした気持ちであった。
 どすんと、そのいすへ身を投げこむと、ぼくはくるみを一つ取った。そして、冷たいナット・クラッカーへはさんで、片手かたてでハンドルを圧しお た。小さなてのひらへ、かろうじて納まっおさ  たハンドルは、くるみの固いからの上をグリグリとこするだけで、手応えてごた はない。「どうしても割っわ てやる」そんな気持ちで、ぼくはさらに右手の上を、左手で包み、ひざの上で全身の力をこめた。しかし、級の中でも小柄こがらで、きゃしゃな自分の力では、ビクともしない。(中略ちゅうりゃく
 左手の下でにぎりしめた右のてのひらの皮が、少しむけて、ヒリヒリする。ぼくはかんしゃくを起こして、ナット・クラッカーをたくの上へ放り出した。クラッカーはくるみの皿に激しくはげ  当たって、皿は割れわ た。くるみが三つ四つ、たくからゆかへ落ちた。
 そうするつもりは、さらさらなかったのだ。ハッとして、いすを立った。
 ぼくは二階へかけ上がり、勉強つくえにもたれてひとりで泣いた。そのばんは、母の病室へも見舞いみま に行かずにしまった。
 しかし、幸いなことに、母の病気は翌日よくじつから小康を得て、ぼくは日光へ遠足に行くことができた。
 ふすまをはらった宿屋の大広間に、ズラリとふとんをしきつらねたその夜は、実ににぎやかだった。果てしなくはしゃぐ、子供こどもたちの上の電は、八時ごろに消されたが、それでも、なかなかさわぎはしずまらなかった。
 いつまでもぼく寝つかね  れず、東京の家のことが思われてならなかった。やすらかな友だちの寝息ねいきが耳につき、覆いおお をした母への電が、まざまざと浮かんう  できたりした。ぼくは、ひそかに自分の性質せいしつを反省した。この反省は、ぼく生涯しょうがいで最初のものであった。

永井ながい龍男たつお胡桃くるみ割りわ 」)
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長文 6.4週 naのつづき
 大学だけでなく、各地の保育園ほいくえん幼稚園ようちえん講演こうえんに行く機会もかなりあって、参観に来た母親と子どもの様子をそれとなく観察してきました。極端きょくたんにことば数が少ないお子さんの場合、母親のタイプは二通りに分けられるのではないかと思います。
 一つは、お母さん自身も無口で引っ込み思案ひ こ じあん自己じこ主張しゅちょうが少なく、ウサギのようにほとんど声を出さないというケースです。おしめを換えるか  にも、授乳じゅにゅうするにも、くつをはかせるにも、すべて黙々ともくもく 行っている。気質きしつ遺伝いでんなどもあるでしょうが、子どもの側からすれば、どういう局面でどういうことばを用いるのか、模範もはん示ししめ てもらうチャンスが少ないのですから、自分のことばが出てくるまでに、時間がかかるのは当然かもしれません。ようするにこれは、マザリーズのところで述べの た「くりかえし」の不足だと思います。
 もう一つはぎゃくに、母親がひどくおしゃべりで、子どもの自発せいを生かす「間」が不足している場合です。子どもは家で四六時中ことばのシャワーを浴びているはずなのに、なぜこんなに無口なのか。ほんとにこれがあの母親の子なのかと、わが目わが耳を疑ううたが ことがあります。でも長い目で見ると、やはり、因果いんが関係の釣り合いつ あ が、ちゃんと保たたも れているのかもしれません。ふだんはほとんどおしゃべりしない子が、ある日突然とつぜん、母親のいないときにかぎって、せきを切ったように話しはじめる。いったいこの子、どうなってるのと、まわりの人はびっくり。しばらくすると、ピタッとおさまって、何事もなかったかのようにまた無口な子どもにもどります。そういう子はえてして、大人になってからも、ふだんは寡黙かもくな、はにかみやと見なされている場合が多いようです。
 母親との語らいが子どもののう活性かっせい化するという川島さんの実験データは、じつに興味深いきょうみぶか ものがあります。だとすれば、臨界りんかい期の中心に位置すると思われる大切な時期に、魔法使いまほうつか であるはずの母親が魔法まほうの力をふるうことを怠れおこた ば、刷り込みす こ の力ははたらかないわけです。
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 「三つ子のたましい百まで」ということは、三さいまでに学んだことが、百年分に匹敵ひってきする決定的な影響えいきょう与えるあた  ということではないでしょうか。ですから、もし母親が一分間、赤ちゃんに話しかけるとすれば、単純たんじゅん計算だけでもその約三十三倍、つまり三十三分間話しかけただけの効果こうかを生みます。十分間話しかければ、三百三十分、五時間以上話しかけただけの質的しつてき影響えいきょう力をもつことになります。
 すでにマザリーズのところで述べの たように、母親の話しかけには、くりかえしだけでなく「間」が大切ですが、間を生かすためには、母親の心がその場に居合わせるいあ   ことが肝心かんじんだと思います。授乳じゅにゅうしながら赤ちゃんに優しくやさ  話しかければ、赤ちゃんは体の栄養分だけでなく、同時に「たましいかて」も吸収きゅうしゅうしているわけです。もしその時、母親が片手間かたてまに新聞を読んでいたり、テレビの画面に夢中むちゅうだったり、赤ちゃんから気がそれていたりしたらどうでしょう。そこには気持ちのキャッチボール、つまり心と心の対話が欠如けつじょしているのではないかと思います。赤ちゃんはおそらく、母親の気持ちが自分に、向けられていないことを感知し、心のどこかで欲求よっきゅう不満を覚えているにちがいありません。
 ことばと心は、深いところでしっかりつながっています。育児や、家事、職業しょくぎょう趣味しゅみなどの明け暮れあ く で、どんなに忙しいいそが  母親でも、子どもに接するせっ  ときは一期一会、目を見つめながら、心をこめて話しかけたいものです。

(川島隆太りゅうた・安達忠夫ただお「『のうと音読』「講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ所収しょしゅうによる」)
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