長文 6.4週
1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2. ちょうど、その前の年、ぼくが六年生の晩秋ばんしゅうのことであった。
3. 中学へ入るための予習が、もう毎日つづいていた。暗くなって家へ帰ると、梶棒かじぼうをおろしたくるまが二台表にあり、玄関げんかんの上がり口に車夫しゃふがキセルで煙草たばこをのんでいた。
4. この二、三日、母の容体ようだいが面白くないことは知っていたので、くつを脱ぎぬ ながら、ぼくは気になった。着物に着がえ顔を洗っあら て、電気のついた茶の間へ行くと、食事のしたくのしてある食卓しょくたくのわきに、編み物あ ものをしながら、姉はぼくを待っていた。ぼくはおやつをすぐにほおばりながら聞いた。
5.「ただ今。――お医者さん、きょうは二人?」
6.「ええ、昨夜からお悪いのよ」
7. いつもおなかをへらして帰って来るので、姉はすぐにご飯をよそってくれた。
8. 父と三人で食卓しょくたくを囲むことは、そのころはほとんどなかった。ムシャムシャ食べ出した後に、姉もはしをとりながら、
9.「節ちゃん、お父さまがね」という。「あさっての遠足ね、この分だとやめてもらうかも知れないッて、そうおっしゃっていたよ」
10. 遠足というのは、六年生だけ一晩ひとばん泊まりと  で、修学旅行しゅうがくりょこうで日光へ行くことになっていたのだ。
11.「チェッ」ぼく乱暴らんぼうにそういうと、ちゃわんを姉につき出した。
12.「節ちゃんには、ほんとにすまないけど、もしものことがあったら。――お母さんとてもお悪いのよ」
13.「知らない!」
14. 姉は涙ぐんなみだ  でいる様子であった。それもつらくて、それきりだまりつづけて夕飯をかきこんだ。(中略ちゅうりゃく
15. 生まれて初めて、級友と一泊いっぱく旅行に出るということが、少年にとってどんなにみりょくを持っているか! 級の誰彼だれかれとの約束や計画が、あざやかに浮かんう  でくる。両のなみだがいっぱいあふれてきた。
16. 父の書斎しょさいのとびらがなかば開いたまま、廊下ろうかへ灯がもれている。(中略ちゅうりゃく)∵
17. いつも父のすわる大ぶりないす。そして、ヒョイッと見ると、たくの上には、くるみを盛っも た皿が置いてある。くるみの味なぞは、子供こどもえんのないものだ。イライラした気持ちであった。
18. どすんと、そのいすへ身を投げこむと、ぼくはくるみを一つ取った。そして、冷たいナット・クラッカーへはさんで、片手かたてでハンドルを圧しお た。小さなてのひらへ、かろうじて納まっおさ  たハンドルは、くるみの固いからの上をグリグリとこするだけで、手応えてごた はない。「どうしても割っわ てやる」そんな気持ちで、ぼくはさらに右手の上を、左手で包み、ひざの上で全身の力をこめた。しかし、級の中でも小柄こがらで、きゃしゃな自分の力では、ビクともしない。(中略ちゅうりゃく
19. 左手の下でにぎりしめた右のてのひらの皮が、少しむけて、ヒリヒリする。ぼくはかんしゃくを起こして、ナット・クラッカーをたくの上へ放り出した。クラッカーはくるみの皿に激しくはげ  当たって、皿は割れわ た。くるみが三つ四つ、たくからゆかへ落ちた。
20. そうするつもりは、さらさらなかったのだ。ハッとして、いすを立った。
21. ぼくは二階へかけ上がり、勉強つくえにもたれてひとりで泣いた。そのばんは、母の病室へも見舞いみま に行かずにしまった。
22. しかし、幸いなことに、母の病気は翌日よくじつから小康を得て、ぼくは日光へ遠足に行くことができた。
23. ふすまをはらった宿屋の大広間に、ズラリとふとんをしきつらねたその夜は、実ににぎやかだった。果てしなくはしゃぐ、子供こどもたちの上の電は、八時ごろに消されたが、それでも、なかなかさわぎはしずまらなかった。
24. いつまでもぼく寝つかね  れず、東京の家のことが思われてならなかった。やすらかな友だちの寝息ねいきが耳につき、覆いおお をした母への電が、まざまざと浮かんう  できたりした。ぼくは、ひそかに自分の性質せいしつを反省した。この反省は、ぼく生涯しょうがいで最初のものであった。

25.(永井ながい龍男たつお胡桃くるみ割りわ 」)∵
26. 【1】大学だけでなく、各地の保育園ほいくえん幼稚園ようちえん講演こうえんに行く機会もかなりあって、参観に来た母親と子どもの様子をそれとなく観察してきました。極端きょくたんにことば数が少ないお子さんの場合、母親のタイプは二通りに分けられるのではないかと思います。
27. 【2】一つは、お母さん自身も無口で引っ込み思案ひ こ じあん自己じこ主張しゅちょうが少なく、ウサギのようにほとんど声を出さないというケースです。おしめを換えるか  にも、授乳じゅにゅうするにも、くつをはかせるにも、すべて黙々ともくもく 行っている。【3】気質きしつ遺伝いでんなどもあるでしょうが、子どもの側からすれば、どういう局面でどういうことばを用いるのか、模範もはん示ししめ てもらうチャンスが少ないのですから、自分のことばが出てくるまでに、時間がかかるのは当然かもしれません。【4】ようするにこれは、マザリーズのところで述べの た「くりかえし」の不足だと思います。
28. もう一つはぎゃくに、母親がひどくおしゃべりで、子どもの自発せいを生かす「間」が不足している場合です。子どもは家で四六時中ことばのシャワーを浴びているはずなのに、なぜこんなに無口なのか。【5】ほんとにこれがあの母親の子なのかと、わが目わが耳を疑ううたが ことがあります。でも長い目で見ると、やはり、因果いんが関係の釣り合いつ あ が、ちゃんと保たたも れているのかもしれません。ふだんはほとんどおしゃべりしない子が、ある日突然とつぜん、母親のいないときにかぎって、せきを切ったように話しはじめる。【6】いったいこの子、どうなってるのと、まわりの人はびっくり。しばらくすると、ピタッとおさまって、何事もなかったかのようにまた無口な子どもにもどります。そういう子はえてして、大人になってからも、ふだんは寡黙かもくな、はにかみやと見なされている場合が多いようです。
29. 【7】母親との語らいが子どもののう活性かっせい化するという川島さんの実験データは、じつに興味深いきょうみぶか ものがあります。だとすれば、臨界りんかい期の中心に位置すると思われる大切な時期に、魔法使いまほうつか であるはずの母親が魔法まほうの力をふるうことを怠れおこた ば、刷り込みす こ の力ははたらかないわけです。∵
30. 【8】「三つ子のたましい百まで」ということは、三さいまでに学んだことが、百年分に匹敵ひってきする決定的な影響えいきょう与えるあた  ということではないでしょうか。ですから、もし母親が一分間、赤ちゃんに話しかけるとすれば、単純たんじゅん計算だけでもその約三十三倍、つまり三十三分間話しかけただけの効果こうかを生みます。【9】十分間話しかければ、三百三十分、五時間以上話しかけただけの質的しつてき影響えいきょう力をもつことになります。
31. すでにマザリーズのところで述べの たように、母親の話しかけには、くりかえしだけでなく「間」が大切ですが、間を生かすためには、母親の心がその場に居合わせるいあ   ことが肝心かんじんだと思います。【0】授乳じゅにゅうしながら赤ちゃんに優しくやさ  話しかければ、赤ちゃんは体の栄養分だけでなく、同時に「たましいかて」も吸収きゅうしゅうしているわけです。もしその時、母親が片手間かたてまに新聞を読んでいたり、テレビの画面に夢中むちゅうだったり、赤ちゃんから気がそれていたりしたらどうでしょう。そこには気持ちのキャッチボール、つまり心と心の対話が欠如けつじょしているのではないかと思います。赤ちゃんはおそらく、母親の気持ちが自分に、向けられていないことを感知し、心のどこかで欲求よっきゅう不満を覚えているにちがいありません。
32. ことばと心は、深いところでしっかりつながっています。育児や、家事、職業しょくぎょう趣味しゅみなどの明け暮れあ く で、どんなに忙しいいそが  母親でも、子どもに接するせっ  ときは一期一会、目を見つめながら、心をこめて話しかけたいものです。

33.(川島隆太りゅうた・安達忠夫ただお「『のうと音読』「講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ所収しょしゅうによる」)