長文集  6月4週  ○大学だけでなく  na-06-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/15 14:13:35
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は
一番目の長文です。】
 ちょうど、その前の年、僕が六年生の晩秋
のことであった。
 中学へ入るための予習が、もう毎日つづい
ていた。暗くなって家へ帰ると、梶棒をおろ
したくるまが二台表にあり、玄関の上がり口
に車夫(しゃふ)がキセルで煙草をのんでい
た。
 この二、三日、母の容体が面白くないこと
は知っていたので、くつを脱ぎながら、僕は
気になった。着物に着がえ顔を洗って、電気
のついた茶の間へ行くと、食事のしたくのし
てある食卓のわきに、編み物をしながら、姉
は僕を待っていた。僕はおやつをすぐにほお
ばりながら聞いた。
「ただ今。――お医者さん、きょうは二人?

「ええ、昨夜からお悪いのよ」
 いつもおなかをへらして帰って来るので、
姉はすぐにご飯をよそってくれた。
 父と三人で食卓を囲むことは、そのころは
ほとんどなかった。ムシャムシャ食べ出した
後に、姉もはしをとりながら、
「節ちゃん、お父さまがね」という。「あさ
っての遠足ね、この分だとやめてもらうかも
知れないッて、そうおっしゃっていたよ」
 遠足というのは、六年生だけ一晩泊まりで
、修学旅行で日光へ行くことになっていたの
だ。
「チェッ」僕は乱暴にそういうと、ちゃわん
を姉につき出した。
「節ちゃんには、ほんとにすまないけど、も
しものことがあった ら。――お母さんとて
もお悪いのよ」
「知らない!」
 姉は涙ぐんでいる様子であった。それもつ
らくて、それきりだまりつづけて夕飯をかき
こんだ。(中略)
 生まれて初めて、級友と一泊旅行に出ると
いうことが、少年にとってどんなにみりょく
を持っているか! 級の誰彼との約束や計画
が、あざやかに浮かんでくる。両の眼に涙が
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いっぱいあふれてき た。
 父の書斎のとびらがなかば開いたまま、廊
下へ灯がもれている。(中略)∵
 いつも父のすわる大ぶりないす。そして、
ヒョイッと見ると、卓(たく)の上には、く
るみを盛った皿が置いてある。くるみの味な
ぞは、子供に縁のないものだ。イライラした
気持ちであった。
 どすんと、そのいすへ身を投げこむと、僕
はくるみを一つ取っ た。そして、冷たいナ
ット・クラッカーへはさんで、片手でハンド
ルを圧した。小さなてのひらへ、かろうじて
納まったハンドルは、くるみの固いからの上
をグリグリとこするだけで、手応えはない。
「どうしても割ってやる」そんな気持ちで、
僕はさらに右手の上 を、左手で包み、ひざ
の上で全身の力をこめた。しかし、級の中で
も小柄で、きゃしゃな自分の力では、ビクと
もしない。(中略)
 左手の下でにぎりしめた右のてのひらの皮
が、少しむけて、ヒリヒリする。僕はかんし
ゃくを起こして、ナット・クラッカーを卓(
たく)の上へ放り出した。クラッカーはくる
みの皿に激しく当たって、皿は割れた。くる
みが三つ四つ、卓(たく)からゆかへ落ち 
た。
 そうするつもりは、さらさらなかったのだ
。ハッとして、いすを立った。
 僕は二階へかけ上がり、勉強机にもたれて
ひとりで泣いた。その晩は、母の病室へも見
舞いに行かずにしまった。
 しかし、幸いなことに、母の病気は翌日か
ら小康を得て、僕は日光へ遠足に行くことが
できた。
 ふすまをはらった宿屋の大広間に、ズラリ
とふとんをしきつらねたその夜は、実ににぎ
やかだった。果てしなくはしゃぐ、子供たち
の上の電燈は、八時ごろに消されたが、それ
でも、なかなかさわぎはしずまらなかった。
 いつまでも僕は寝つかれず、東京の家のこ
とが思われてならなかった。やすらかな友だ
ちの寝息が耳につき、覆いをした母への電燈
が、まざまざと眼に浮かんできたりした。僕
は、ひそかに自分の性質を反省した。この反
省は、僕の生涯で最初のものであった。

(永井龍男「胡桃割り」)∵
 【1】大学だけでなく、各地の保育園や幼
稚園に講演に行く機会もかなりあって、参観
に来た母親と子どもの様子をそれとなく観察
してきました。極端にことば数が少ないお子
さんの場合、母親のタイプは二通りに分けら
れるのではないかと思います。
 【2】一つは、お母さん自身も無口で引っ
込み思案、自己主張が少なく、ウサギのよう
にほとんど声を出さないというケースです。
おしめを換えるにも、授乳するにも、靴をは
かせるにも、すべて黙々と行っている。【3
】気質の遺伝などもあるでしょうが、子ども
の側からすれば、どういう局面でどういうこ
とばを用いるのか、模範を示してもらうチャ
ンスが少ないのですから、自分のことばが出
てくるまでに、時間がかかるのは当然かもし
れません。【4】ようするにこれは、マザリ
ーズのところで述べた「くりかえし」の不足
だと思います。
 もう一つは逆に、母親がひどくおしゃべり
で、子どもの自発性を生かす「間」が不足し
ている場合です。子どもは家で四六時中こと
ばのシャワーを浴びているはずなのに、なぜ
こんなに無口なのか。【5】ほんとにこれが
あの母親の子なのかと、わが目わが耳を疑う
ことがあります。でも長い目で見ると、やは
り、因果関係の釣り合いが、ちゃんと保たれ
ているのかもしれません。ふだんはほとんど
おしゃべりしない子が、ある日突然、母親の
いないときにかぎっ て、堰を切ったように
話しはじめる。【6】いったいこの子、どう
なってるのと、まわりの人はびっくり。しば
らくすると、ピタッとおさまって、何事もな
かったかのようにまた無口な子どもにもどり
ます。そういう子はえてして、大人になって
からも、ふだんは寡黙な、はにかみやと見な
されている場合が多いようです。
 【7】母親との語らいが子どもの脳を活性
化するという川島さんの実験データは、じつ
に興味深いものがあります。だとすれば、臨
界期の中心に位置すると思われる大切な時期
に、魔法使いであるはずの母親が魔法の力を
ふるうことを怠れば、刷り込みの力ははたら
かないわけです。∵
 【8】「三つ子の魂百まで」ということは
、三歳までに学んだことが、百年分に匹敵す
る決定的な影響を与えるということではない
でしょうか。ですから、もし母親が一分間、
赤ちゃんに話しかけるとすれば、単純計算だ
けでもその約三十三倍、つまり三十三分間話
しかけただけの効果を生みます。【9】十分
間話しかければ、三百三十分、五時間以上話
しかけただけの質的な影響力をもつことにな
ります。
 すでにマザリーズのところで述べたように
、母親の話しかけに は、くりかえしだけで
なく「間」が大切ですが、間を生かすために
は、母親の心がその場に居合わせることが肝
心だと思います。【0】授乳しながら赤ちゃ
んに優しく話しかければ、赤ちゃんは体の栄
養分だけでなく、同時に「魂の糧」も吸収し
ているわけです。もしその時、母親が片手間
に新聞を読んでいたり、テレビの画面に夢中
だったり、赤ちゃんから気がそれていたりし
たらどうでしょう。そこには気持ちのキャッ
チボール、つまり心と心の対話が欠如してい
るのではないかと思います。赤ちゃんはおそ
らく、母親の気持ちが自分に、向けられてい
ないことを感知し、心のどこかで欲求不満を
覚えているにちがいありません。
 ことばと心は、深いところでしっかりつな
がっています。育児 や、家事、職業、趣味
などの明け暮れで、どんなに忙しい母親で 
も、子どもに接するときは一期一会、目を見
つめながら、心をこめて話しかけたいもので
す。

(川島隆太・安達忠夫「『脳と音読』「講談
社現代新書」所収による」)