長文集  6月3週  ★コオロギは「リーリー」と(感)  na-06-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】コオロギは「リーリー」と鳴くとい
うけれど、「リーリ ー」と聞こえるのは人
間の耳にそう聞こえるだけのことで、コオロ
ギにはどう聞こえているのだろう、そんなこ
とを小学生のころふと考えたことがあります
。【2】人間の耳とコオロギの「耳」の構造
はまるでちがったものでしょうから、少なく
ともコオロギが人間が聞いているのと同じよ
うに「リーリー」という音を聞いているとい
う保証はありません。【3】そのように考え
れば、同じ人間でも全く同じ耳はないのです
から、私たちは個人個人で、少しずつちがっ
た音を聞いているのかもしれません。ヨーロ
ッパの人の耳には、あの美しいコオロギの鳴
き声も雑音としてしか聞こえないという話も
どこかで聞いたことがあります。【4】聴覚
のしくみが日本人とヨーロッパ人ではちがう
というのです。
 先日ラジオで、東京ではアオマツムシが木
の上でうるさいほど鳴いていて、他の虫の声
が聞こえないほどだ、このアオマツムシは明
治時代に中国から渡ってきた帰化昆虫で、ど
うも声がうるさすぎて味気ないというような
話をしていました。【5】それを聞きなが 
ら、横浜に住んでいる私は、どうしてその虫
が横浜にはいないのだろうと不思議に思った
のですが、つい先ごろ、ぼんやりと庭に出て
夕涼みをしている時、妙に大きな声の虫が鳴
いているのに気がつきました。【6】何もこ
の声は今年初めて聞くようなめずらしいもの
ではなく、今まで毎年秋の初めに聞いてきた
声で、私は今までずっとそれをコオロギだと
思ってきたのですが、ラジオの話を思い出し
て、ひょっとしたらこれがあのアオマツムシ
かもしれないぞと思ったのです。【7】そう
なると、やもたてもたまらず確かめたくなっ
て、懐中電灯を持って庭の木の葉の上を探し
ました。そして一時間ほどの探索の末、私は
今まで見たこともない緑色の虫が、緑色の葉
の上で大声で鳴いているのを発見したのでし
た。【8】それ以来、今まで少し声の大きな
コオロギだなということぐらいしか考えず、
むしろ秋を感じさせる虫の声として楽しく聞
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
いていたその声が、急にうるさく感じられる
ようになってしまったのです。
 【9】私たちは、実際の体験を通じていろ
いろな知識を身につけてゆくのだと、単純に
考えています。コオロギの声を聞いて、コオ
ロギという虫を知り、セミをつかまえて、セ
ミという虫の形や色に∵ついて知るというよ
うに。【0】けれども、実際には、自分自身
の直接的な体験を通して得られる知識は案外
少ないのです。むしろ私たちは、他人から知
識を与えられることによって、自分の体験を
幅の広いものにしていくといった方がよいで
しょう。極端な言い方をすれば、私たちは、
知っているものしか見えないし、聞こえない
のです。
 サッカーのルールについて何も知らずに、
サッカーの試合を見ても、おそらく何もおも
しろくないでしょう。そればかりか、何でボ
ールを手に持って走らないのだろうとか、何
でゴールキーパーをみんなで押さえてしまわ
ないのだろうかとか考えてイライラするにち
がいありません。手を使ってはいけないとい
うルールがあるのだということを知っている
からこそ、足で上手にボールをあやつる選手
の姿がすばらしいものに見えるのです。それ
を知らなければ、足だけで懸命にボールをけ
っている姿はこっけいなものでしかありませ
ん。
 知識は現実の見え方や感じ方を変えてしま
う力を持っています。コオロギは日本に昔か
らいる虫だがアオマツムシは外国から渡って
きた虫だという知識が、コオロギの声はきれ
いだが、アオマツムシの声はうるさくて耐え
がたいというふうに感じさせてしまいます。
逆に床に落ちたステーキをそのまま皿に乗せ
て出されても、そのことを知らなければ、私
たちは平気でそれを食べてしまうでしょう。
「知らぬが仏(ほとけ)」というわけです。
 現実の見え方や、それに対する感じ方を変
えてしまうものは、知識だけではありません
。習慣もその一つです。日本人とヨーロッパ
人では聴覚のしくみがちがうという話も、考
えようによっては、虫の声を楽しむという日
本人の習慣が、日本人の耳を少しずつ変化さ
せてきたのだとも言えるでしょう。