ナツメ の山 6 月 2 週 (5)
★インドではほうぼうの町角で(感)   池新  
 【1】インドではほうぼうの町角で自転車の修理屋を見かけた。間口一間くらいの、新品自転車など一つも置いていない、寄せ集めの中古部品ばかりごたごた重なっている小さな店である。【2】そこに持ちこまれるのも、いかにも実用品といった、さんざん使い古したしろものだ。そこでパンク直し、部品交換をし、また雑踏の町中に走ってゆく。自転車はインドでは貴重品であり、日常生活の重要な道具だから、そういう店はどこでもはやっていた。
 【3】私は町中でそんな店を見かけると立止ってしばらく眺め、なんだかとても懐かしい気がした。自転車だってあのころは大変役立つ交通機関で、みな荷台の大きな黒い実用品であった。【4】私の父はよくそのうしろにリヤカーをつけ、材木だのセメント袋などを仕事場に運んでいったものである。
 駅前広場には毎朝夥しい数の自転車が乗りすてられていくが、大抵はサイクリング用で、あの黒くて荷台のついたやぼったいやつなど一台も見かけない。【5】子供たちは変速ギアのついたしゃれたのを平気で公園に置き去りにしていく。インドの子供らが見たら何と思うだろう。
 靴でも自転車でもタクシーでもバスでも、インドでは実際徹底的に修理し再生して、とことんまで使いきるらしかった。【6】町中で新品にお目にかかるほうがめずらしかった。これは一言でいえば、日本が大量生産大量消費の工業国であり、インドが生産性に乏しい貧しい国だということなのだろうが、私は、両方を見くらべてなんだか釈然としないのである。【7】どっちかが間違っているように思えてならないのだ。
 限りある地球上の資源を、一方は富にまかせて不必要に浪費し、一方はどんなものでもとことんまで使い切ろうとする。【8】そういう点からばかりでなく、子供たちの教育、心の問題としても、現在の日本のような経済力にまかせた浪費習慣は、よい影響を与えるとは考えにくい。∵
 【9】インドを一月ほど旅行しているあいだじゅう私が考えさせられたのは、人間は一体生きるために本当に何を必要とするか、ということだった。快適な生活の追求はしばしば贅沢と域を接し、人間に本来の生の姿を忘れさせるのではあるまいか。ともかく現代日本人が傲っているのは確かなようである。【0】